十五個めの、記憶の断片

 ゲーム実況者。インターネットでの呼び名はピリ辛。本名・本間敦と私の関係は続いていた。

彼の今。彼と彼を取り巻く一連の展開は、インターネットに存在する多数の、言ってしまえば有象無象の憧れであった。

別にそのゲームが上手いわけでもない。ゲームが上手いというのであればゲーム内ランキング上位に食い込み、全国大会に出て戦って、そうした正統極まりないやり方で名誉を得るだろう。けれども彼はそうじゃない。ただ『面白い』というだけだ。本人曰く、この実況者名ピリ辛とは、他の配信者・実況者とは違う小粒でもキリッと辛いようなものをやりたい、という関西出身の芸人の意気込みのような意味が込められているらしい。

 自身のファンに親しげで、インターネットでもそのしょうもなさ、だらしなさをこそ日常の範囲から込めて話をする。ファンたちはそうした彼の所作から、ゲーム実況者ピリ辛は俺達の側なんだ、という意識を強く持つ。そうしたファン層の動きに対して彼は常に意識的だった。そういう面から考えれば彼は確かに一表現者として敬意を持つに値する相手ではあった。

しかし、本当の私生活領域における彼は純真そのものである。普段からよく笑い、よく話し、よく甘える。別の彼、斎藤春也から醸し出されるあの計算高さとは無縁の純真極まりない、けれども無垢ではないその精神こそが、本間敦の本質であった。

 ある時、新宿の居酒屋で軽くお酒を入れている場で、彼は言った。

「今度な、部屋借りよ思ってんのよ」

「へえ」

「結構いい部屋で、部屋の一つ丸ごと趣味用に使おうと思って」

「そりゃ豪勢だ」

「だろ? でな、まだ部屋余ってんのよ。別になくてもいいのに、無駄に広い部屋が」

「ふうん。で、私連れ込んでしけこもうって算段?」

 私がそう言うと、彼は顔を真っ赤にする。

「んな阿呆なこと言うかボケ!」

 彼のその反応を見て、私は明確に優越感を覚えた。彼と私との間にある関係性の主導権を握っているのは間違いなく、私だ。

「相変わらずだよね、本間くんって」

 そう言いながら私は、ウィスキー・オン・ザ・ロックを傾ける。からんからんと、洒脱な音が鳴る。

「そういう話じゃなくてな……その」

「その?」

「そこ、住まんか。引っ越し費用とか全然、気にせんでいいから」

 成程。そういうことか……と私は思った。

 結局、今の私は未だにあの上京した頃に借りた部屋にそのまま住み続けている。吝嗇が理由ではなく、たんにそれ以上のものを必要としていなかったからだ。

ゲーム『プレーン・コレクション』の流行が私に仕事を呼び込み、たんなるガヤではなく、脇役とは言えキャラ名称が割り振られる役もやらせて貰えるようになって、私の懐は徐々に潤いつつあった。しかし同時に、そうして得たお金で何か欲しいものがあるわけでもなかったし、言ってしまえば私の映画趣味なんてレンタル屋で事足りる程度のものでしかなかった。

「いいよ」

 私はそう言った。彼は、自分自身がそう頼み込んだくせに、やたらと驚いている。

「……本当に?」

「嘘をついてどうなるって言うんですか?」

「いや、こういうのってもっと悩むもんっていうか、少なくとも俺は言い出すまで結構、悩んだんよ」

「今の住んでる部屋に未練があることもないし、多分だけどそこ、立地いいんでしょ。駅前とか」

「そうなんよ、そう。すごい立地いい」

「じゃ、決まりだ。私の今の部屋、正直都心からは遠いしね」

「やったぁ!」

 そう言って彼はガッツポーズをとる。その大げさな動作には何か独特なおかしみがあり、私はそれを少し笑っていた。

「何がおかしいんよ」

「だってさ、そんな喜ぶことかって」

「嬉しいよ。好きな人と一緒に、同じ家住むなんて夢みたいだ」

 しかも声優。彼はそう付け加えた。

 後日、実際に私は本間敦と同棲するための諸手続きをする。

私が上京してから今の今まで暮らしてきた部屋の荷物を整理し、いらない電化製品や日用品を処分してしまうと、不思議なぐらい荷物は少なくなり、せいぜいダンボール四つぶんぐらいで収まってしまう。その大半は服で、一つの箱だけ、容積の半分を映画のDVDが占めている。このたった四つのダンボールが私の東京での実生活のすべてだった。

 実際に彼の新しく借りたマンションへ下見に行くと、それは確かに堂々たる佇まいで、セキュリティも厳重。部屋は一つ一つが広く、私の借りていた部屋とは比べ物にならない規模のキッチンまで備わっている。

その構図に私は一種のおかしみを見出した。私の演じる壮大なる虚構。彼が立ち回る娯楽の虚構。虚構と虚構とが、現実としての立派な物々の裏付けになっている。この構図から私はそれこそ、おままごとの泥団子に実際に一万円の価値がついてしまうような不自然さがあるようにも思った。このような視点は実際にコンテンツに関わる人間が持つべきではないシニカルな見方であるという理解は無論あったにせよ、それを断じて否定するべきだ、と思えるほど今の私は純真でも無垢でもなかった。

実際の引っ越しとなれば荷物が多いのは無論本間敦の方で、私は荷物が運ばれていく様をぼうっと見つめながら、この新しい住処に必要な家具を通販サイトでぽちぽちと注文していた。

 そうして、互いの荷物が全て運び込まれた後、二人でその家の近くにある安居酒屋でお疲れ様会をした。

「お引越し、お疲れ様です」

「お疲れ。本当に大変やった」

 そう話しながら私は、スマートフォンをちらと見る。

 珍しく、事務所の人から連絡が入っていた。

『蓮花ちゃん、ネットの記事あんまり見ないでね』

 その文言を見て、私は真剣に驚いた。

「……どしたん、なっちゃん」

 本間敦は怪訝そうな顔で私を見る。私はそれに反応することなく、インターネットで即座に自身の芸名……遠藤蓮花で検索をした。

 そこにあった記事のタイトルは

「ネットコンテンツ批評企画第一:プレーン・コレクション」

 というものであった。

 それは、アニメコンテンツを批評する珍しい批評家……本来は哲学を専門としているというその人物が、ゲーム『プレーン・コレクション』を批評したものだった。

 その中に私。正確にはキャラクター、シュペルエタンダールに言及している記述があり、それが話題になっているらしい。

「シュペルエタンダールというキャラクターの声優は非常に演技が上手い。しかしそれは何か、主人公の妹のような存在で、歌も上手いのに主役を張ることができない、非常に可哀想な子だ」

 この項目がネットユーザーからの批判を呼び起こしたのだと言う。

「あぁ……はあ」

 私は安心した。斎藤春也と私、私と本間敦の関係。そのどちらが表に出ても、炎上は必至であることを考えれば、この程度の話題なぞ鼻で笑う程度のものでしかない。どころか、相手の知名度を利用して名前を売るという考え方すらできる。

「なんやったん? 結局、どうしたんよ」

 本間敦は再度、私にそう問い質す。

「なんかさ。批評家? がね。『プレ・コレ』のシュペちゃんの声優について話をしたらしいの」

「どんなんよ。酷いこと言われとったんか?」

「『主人公の妹みたいで、主役は張れない。可哀想』だって」

 それを聞いて、本間敦もフッと笑う。

「なんそれ。全然じゃん。シュペちゃんめっちゃ人気あるよ」

「まあ、主役級じゃないのは分かってるんだけどね。というか、そういうキャラじゃない。ほらあるじゃん、負けヒロインって」

「ああ、あるなあ。そういうのが好きって奴も沢山見る」

「そう。シュペちゃんって多分、そういうポジに見えるんだろうね。だから、こんな話が出てくる」

「ああ、成程なあ。じゃあその批評家のセンセってのは、上手いこと言ったつもりなのかもしれんね」

「そうそう。きっと、そう……で、この記事が話題になってるからって、事務所の人から連絡が来たの。ネットの記事を真に受けるな、ってさ」

「そういうことかぁ……そりゃ、ビビるわ」

 彼は、そう言って軟骨揚げを一つつまみ、食べる。

「まあ、でも……ファンは私に味方してくれてるんだよ。シュペの解釈が浅い、とか。たかが批評家が偉そうな口きくな、とか」

「俺もなっちゃんの味方やぞ」

「ふふ、ありがと」

 私がそう言うと、本間敦は笑った。その笑顔の、純真無垢たること! これには私自身驚かされるものがあり、その笑顔は人が成長していくに際し忘れ去られていく、子供の爛漫な笑顔を思わせた。

 結局その日、私たちは互いに酒も食事も大量に詰め込むことなく家へと戻った。

 その途上に私は言う。

「終電、大丈夫だっけ」

 私のその言葉を聞いて、彼は笑う。

「なあにとぼけたこと言ってるんだ。もう同じところに住んでるんやぞ?」

 そう言われ、私も笑う。

「え、あ……ああ! ああ、そうだったそうだった。ごめんごめん、なんか感覚違ってた。駄目だなあ。ボケたこと言っちゃった」

「その歳でボケはないだろう、ボケは!」

「そうだよね、あはは」

 私は笑う。彼も笑っている。

 唐突に彼は真面目な顔をする。私も笑うのをやめる。

「なあ、なっちゃん」

「なあに」

「俺な。なっちゃんのこと、愛してるよ」

 彼が私に近付く。彼の指が、私の手に触れる。

「そっか」

「なっちゃんは、どうなんよ」

「好きだよ」

「さよか」

「うん、そう」

 彼は立ち止まる。触れていた指と指とが離れる。

「キス、していいか」

 私は答える。

「いいよ、一瞬だけなら、」

 それから先には言葉があった。まだ続くはずだった。

 しかしそれらの言葉は出ることなく、彼の唇に遮られた。

 彼の唇は乾いていた。彼のそのささくれだった唇が、私の唇に触れる。

 私は考えていた。

 何故、私たちは肉体的接触を抜きにして愛し合うことができないのだろう。触れ合いを抜きにして存立することが、何故許されないのだろう。

私がキャラクターだったら良かったのに、と思う。もし私が何かの作品のその、美しいキャラクターであったなら、何か汚れた接触や不愉快な観念……そうした日常の営為から無縁でいられるのに。

 何故、私は。私は……シュペルエタンダールではないのだろう。

そう考えた時、私は今自身を取り巻く環境の全てが好転の一途を辿っているというのに、どこか停滞した『泥中』の息苦しさがあるように感じ取れた。

私は今また『泥中』にいる。息苦しい汚濁の中にあって、世間に見せる自分は綺麗な蓮花。蓮の花……。

 そのキスは長く続いた。息苦しく。熱っぽく。長く、続いた。

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