十三個めの、記憶の断片
専門学校、卒業間近。例のシャッタースカイ・プロモーションによる声優アイドルユニット……後に『サマー・ディライト』と名付けられることになる企画が始動し、私自身の人生が動き始めるその手前の、その間隙のような時間。
私の頼りないその両肩にかかっていた重圧は今やなく、私の目の前にはただ隙間だけがある。重苦しい努力の履歴と、今後展開されるであろうにぎやかな、喧しい人生との間に生じた空白。今の私はまるで羽毛のようだった。軽くて、軽くて、軽くなりすぎて、その軽さ自体に不安を覚える、やわらかな私の時間。
そんな頃に私は彼。斎藤春也と旅行に出かけた。一泊二日の小旅行。お金は全部斎藤春也持ちで、私はその身一つとほんの僅かな持ち物だけで旅に出る。
その身一つ。
この言葉の含意が、ここまで多様であるということを私は知らないでいた。男の言う身一つと、女の言う身一つのその、隔絶した大きな違い。私が持っていく身一つ……には、そうした含みが存在している。
彼。斎藤春也は朝、私を迎えに来た。家のすぐ近くに車を停めて、彼はその中で一人待っていた。今考えれば彼のこの行動一つとってもそれは気遣いに満ち溢れたものであったと言うのに、私は彼の乗り付けるその車の非浪漫主義的な情景にこそ若干の負の感情を抱いていた。これからの旅路を考えるのであれば、この旅の始まり方。導入とはなんと見すぼらしいものか、と私は考えてしまった。
レンタカーの白いプリウス。その形状は個性を主張しようとしているのに、あまりにありふれた商品であったがために、個性そのものが個性の中で埋もれ、没してしまったようなそれ。車内にて私を待つ彼の姿にさえ、高円寺で「さあ、お嬢様」と言わんばかりに私を先導するその細やかな、丁寧な抜け目のない男性的態度からも遠ざかっていて……その時の彼は何か『普通の人』のように思えた。
秋の日の伊豆旅行、一泊二日。
そこに存在する空気、雰囲気は何か文学的情緒があるように思え、この旅行は古い、フィルムにノイズが入り交じる頃の映画の。その一幕のようであるとも思った。
私のその内実が如何にも少女的な、浪漫主義の浪漫たることそのものに羨望の念をいだき、浪漫というものの甘口の酒の如きその香りそのものに酔ってしまう性質を持つ人間であるということを私はこの時、半ば理解しつつあり……そうした少女としての私が、この旅程そのものに何か漠然とした美しい感じを見出してしまうのはもはや、どうしようもないことだった。それ故に、この旅が街道上に路上駐車をしている白い、垢抜けないレンタカーのプリウスに乗り込むところから始まるというのはどこか拍子抜けなのであった。
私はそれに乗った。車は静かに走り出す。
「免許、持っていたんですね」
この頃にはまだ、彼と交わす言葉の端に硬さが残っていた。この時の私にはまだ、目上の人に向けるべき敬意と、異性に向けるべき情感との差異が理解できていなかった。
鼻歌交じりに、事も無げに車を運転して見せる。
「そりゃ、持ってるよ。持ってなきゃあ、運転できないからね」
「はは、そうですよね」
違和感のある会話。けれども彼は嫌な顔一つしない。思えば彼は、私が不用意なことをしでかしたとしても、それに何か嫌な反応一つ示すことさえない。私が連れて行かれた先のフレンチ・レストランで食器をガチンと鳴らしてしまい、全く見知らぬ客の幾人かがこっちをチラと見た時でさえ「仕方がないよ」と軽く笑って、その後にも一切そうした私の失敗には触れない。
私は、彼が一体私の何処に魅力を見出しているのかが理解できなかった。確かに、静岡に居た頃よりはずっと垢抜けた見た目をしているという自負はあるし、その所作についても自信がある。けれどもそれは学校での基準……或いは、まだそのような立場にあるとは言えないが、声優という目線で見た時の話。それらは学業上の私、仕事上の私だった。私個人に、ただの個人・山本菜摘に、そのような魅力が……きっと、そうしたお相手には困らないのであろう、斎藤春也が惹かれるような何かがあるとは、とても思えなかった。
私のぎこちなさの原因にはそのような部分が存在している。何故私なんだろう、という疑問。私はもしかしたら何かの間違いでこの男性の横に留め置かれ……例えば、そう。私が生娘だと知らずに抱いてしまったことへの自己嫌悪やその贖罪のため、であるとか、そうした感情が背景にあるのではないかと私は考えてしまう。
けれども状況証拠だけが私にただ一人、しかし雄弁に反証する。
たった一度の夜のために、誰がこのように大掛かりな仕掛けをすることだろう。たかが、しかしされど一夜の、たった一度の夜。それに対する応答がこれでは身に合わぬ。軽いのではない、重いのだ。一泊二日の旅程とは、その途上に行為があることを暗示している。それだけの魅力が果たして私に、山本菜摘にあるのだろうか?
たんに女性として、女体というものの持ち主としての私は、決して魅力的だとは思わない。
私の身体は決して豊満とはいえない。乳房はほんの少しの膨らみを示すのみで、身体全体が華奢に見えるのは確かにある意味で女性的だが、見方を変えれば現代っ子にあるまじき貧相さである。ただ、すらりと伸びたその貧しさとも豊かさとも無縁な脚の形と、その土台である臀部の広がりとが、私の身体を女体たらしめていた。
彼は、私が車内で何か座りの悪そうな感じで外を見ているのに気付き、言った。
「なんか曲でも流そうか。オーディオ、使えるようだから」
彼は運転し続けながら、既にセットしてあったのであろう音楽プレーヤーを操作し、曲を流す。私の知らないグループのものだった。
「これ、なんて言うグループですか?」
「ん? ああ、これかあ。これはね、スペシャル・アザーズって言うんだけど……」
少しだけかいつまんで、彼は解説する。興味のわく話ではなかったが、それでも少しだけ気が晴れた。彼もきっと、それを狙って言ったのだろう。
「高円寺に居る奴らってさ、色々じゃん」
「そうですね。音楽やってます、とか」
「文字書きに。つまり小説とかを書く奴と話をしたことはある?」
「あ、はい。脚本家志望だって人とは話をしたことがあります」
「脚本家かぁ。それは確かに、いかにも高円寺って感じだなあ。あのへん、小劇場とか多いからね。劇、観たことはある?」
「あー……興味はある、んですけれど。実は一度も」
分かったぞ、彼はそう言って微笑む。
「お金がないからだ」
それが図星だったので、私はそのまま黙り込んだ。
ごめんよ、彼はそう言う。
「仕方ないじゃん。君の年頃でお金がないなんてさあ。当然と言えば当然のことだよ。だって君は真面目に学生やってるんだから、そりゃあお金はないに決まっているさ」
だから。彼は続ける。
「申し訳ないとか、そういうことを思う必要はないんだ。俺はなんかこう、夢追いかけてます! みたいなのが好きで、そういうのを見ると応援したくなるんだ。一種の慈善事業みたいなものだよ……ところで、えっと。山本さんさ」
「菜摘、でいいですよ?」
「本当?」
そう話す彼は本当に嬉しそうだったので、私まで少し嬉しくなってしまう。
「菜摘ちゃんさ。俺って何やってる人だと思う?」
「何、ですか?」
「ごめん。質問が良くなかった……俺の仕事、なんだと思う?」
「ええっと、なんでしょう……分かりません」
分かるのは羽振りがよいということだけだ、とは言わないでおいた。言っていいことと悪いことぐらい区別はつく。
「スポーツバーやってんのよ、普段は……つったって、バイトだけで回っちゃうんだけどさ! 俺いらね~、みたいなさ」
「すごいですね」
率直な感想だった。
「すごくも何ともないよ。高円寺じゃそういうの、そこらじゅうにいるよ……それよりも、そこの店にさ。もし君が有名になったら、サインの一つでも置いてくれればそれでいいよ。俺はそれで満足なんだ」
彼のその言葉に嘘はないように思われた。たったそれだけで安心することもないが、私自身の彼に対するわだかまりのいくらかは溶けて消えた。
伊豆旅行は、その始まりとは打って変わって、綺羅びやかな色合いを帯びたものとなった。私は海の美しさが夏の日ざかりの頃以外にも大いに見出し得るのだということをその時、初めて知った。
「本当は夏にくれればよかったんだけど」
彼はそのように話すので、私はこう答えた。
「ううん。秋の海も、とっても綺麗です。私、好きです」
その時に泊まった旅館も格式あるもので、夕飯には海の幸が気取った量で盛られて出てきた。
「何かお飲みになられますか?」
と私は問われ、彼と二人で熱燗を頼んだ。涼しげな館内着の浴衣の裾の寒さが、その味を一段と良くした。
食事の後、彼は言った。
「ここには温泉あるけど、菜摘は入ってくるかい?」
「ううん……ちょっとお酒のぼせちゃったかも」
「え~? そんなに弱くないでしょ」
「雰囲気ってあるじゃん、そういうの」
成程なあ、と彼は言う。結局、彼一人でも温泉に入ってくるようだった。
私は彼が去った後に、一人で自室のシャワーを浴びた。この後に待ち構える行為のために、においというにおいを消却し尽くそうとした。そうした一連の所作には、私が小さな頃に読んだ絵本『注文の多い料理店』を思わせるものがあった。
その後にあった行為は、相変わらずの衝突だった。けれども確かに私は、その衝突の中から一種の悦びを見出すようになっていた。
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