十二個めの、記憶の断片
私がかつて所属していた静岡分校と比較した時、当然ではあるが新宿にあるこの東京本校には人の出入りが多くある。その中には如何にも業界人、芸能の裏方を差配している身であると服装からして知らせるような、そんな人たちも居る。
本当に不思議だった。
見た目の整った、綺麗めの人たちは新宿では正直、ありふれている。この東京本校のアニメソング科は、近年のアイドル声優ブームにあやかろうと、見た目まで整った生徒が結構な数、在籍している。中には元宝塚で、関西の分校から東京まで来たという生徒も居るぐらいだ。無論、男子生徒にしても美形がそれなりに居るのは同様のことで、彼らは私が知る高円寺や下北コーデのあの良くも悪くも煩雑で吝嗇の雰囲気が漂うのとは別のモード、スタイルを身に纏っている。
しかし、業界人の持つ、漂わせるその雰囲気には、そうした洒落目な生徒や或いは教員とは別個のものが存在している。引け目がないというか、今になって殊更何か、自分がこのような存在であるということを主張する必要性がないと言うような、そんな空気を彼らは身につけている。
その日。
私が未だに覚えているその日に、東京本校を訪れたその人物も確かに、私が今まで見てきたいわゆる業界人。その仕掛け人に通ずる空気を身に纏っていた。
私はその日一人だけ、放課後に別室へと呼び出された。
そこに居たのは私を担当する教員と、例の人物。
「この方は、シャッタースカイ・プロモーションのプロデューサーさんなんだ」
そう言われた私が反射で挨拶を返すよりも先に、その男性は自らの名刺を私に差し出した。
目上の人が来た時にするべき所作。社会人としての基礎を私は以前の静岡分校と、この東京本校で学んでいる。
私は問題なく所作をこなしたはずだった。しかし、教員もそのプロデューサーとやらも別に何か特別な反応をするわけでもない。
「今日は君と話をしに来たんだ。立ち話もなんだ、座りなさい」
私が動作するよりも先に、教員がせかせかと動き回って菓子とお茶を出すが、プロデューサーはそれに何の反応も返さない。プロデューサーが出されたお茶を飲まないので、既に喉が渇き始めていた私も飲むことができない。
教員も息を呑む。場を静寂が支配する……今思えばこれこそが、業界に通ずる彼のやり方なのであった。沈黙こそがもっとも重く、かつ早急に染み込む麻酔なのだ。
やがてプロデューサーは意を決するかのように、重々しくその口を開く。
「正直に聞くんですけれど……山本さん。うちの名前、聞いたことないでしょう」
私は即答できない。いわゆる一般的な声優事務所を指折り数えても、その中にそのような名前の事務所は浮かび上がってこない。
それを見た教員が何か口を挟もうとしたが、プロデューサーはそれを制止した。
「知らないのも無理はない。うちはそもそも声優事務所ではなく、元はアーティストを扱う会社だ。ただ、アーティストという方向で言えばうちはかなりの大手だ、と言える」
聞いたことはないかな。そう言ってプロデューサーの男性は幾人かのミュージシャンの名前を挙げる。
「分かります! あのアニメの曲、やってましたよね。それに」
そこまで言って、私は口を閉ざした。今必要な会話ではないと自身で悟ったからだった。
男性は言った。
「最近……いや、最近と言うほどでもないかもしれない。オタク産業はビジネスとして大きい。うちのアイドルユニットもそこを意識してマーケティングを行っている。けれども実際、出遅れているというのが本当のところだ。根本的なところでアイドルコンテンツを好むユーザーと、オタクコンテンツを好むユーザーというのは、何か違うところがあるようでね……おっと」
話が逸れてしまったかな? そう言いながら、男性は話し続ける。
「そこで私達は考えたんだ。声優ユニットとして始めから企画書を動かして、アニメ声優とアイドル業を同時にやってもらう。我々からすればオタク産業への足がかりが欲しいし、優秀な人材を先回りして確保しておきたい」
必要なのは。男性は宣言する。
「たんに演技をするというだけじゃない。歌って、踊って、笑顔を振りまくことができる。これら全ての領域で優秀な成績を収めている、声優志望者を確保したい。私の言いたいことが分かるかな」
教員が横目に私の方を見た。私は、答えた。
「はい」
ただ、そう答えた。すると、男性は言った。
「君は何か、憧れているものがあるのかな。昔の声優とか、アイドルとか……」
「はい、居ます。ずっと憧れている声優……でも、今はその名前は大事ではない、ように思います」
「ほお。それは何故?」
「大事なのは、その人がどうしたか? ではなく……その人が何を残すかなんです。私は、その人ではなく、その人が成立させたコンテンツを、見ています。コンテンツを見た時、確かに私は圧倒的にその人とその周辺に恋い焦がれたのかもしれませんが、それは一部でしかないんです。だから私は」
私は、言った。
「私はその美しいコンテンツの一部に、なりたいんです。大きな城があるとすれば、その美しい一部になりたい。だから、憧れの声優というのはもう今では、どうでもいいことなんです」
「成程。そうですか……結構なことだと思います」
男性はその瞬間、何故か引け目を感じるような表情をした。それが少しだけ、印象に残った。
そうした会話の後に私は、卒業後の進路を約束された。
まだ名前も決まっていない、シャッタースカイ・プロモーションのアイドルユニットのメンバーに、私がまず内定した。
次の日は休みだった。私は心底浮かれた。
本当は一番好きなのに、喉が焼けるからと普段は避けて飲まないワイルド・ターキーのストレートを高円寺のバーで飲んだ。
行く先々で、自分のやっていることがやっと成就し、進路が決まったということを知らせた。流石に、自分が声優志望の学生だと話すことはなかったが、それでも幾人かは過去の話から私が何をやっている人間かを推察することは可能だったであろう。
あっけらかんとした表現者たち……恐らくは、自称も多々あるのであろう彼らの反応は様々だった。素直に喜ぶもの、これからは大変だぞと冷静になるもの、何か気まずそうにして口数の減るもの。そりゃめでたいと酒を奢ろうと言い出す人が沢山居たので、私は普段よりも多く酒をあおった。
そうして、何軒目かも数えられない居酒屋に行った時、そこに居たのが彼。後々になるまで縁のある男、斎藤春也であった。
彼は何人かの、私を祝おうと言ってついてくる人の中に割って入って、私に声をかけた。
「今日は随分とご機嫌だね」
「そうです。ご機嫌なんです~」
「そりゃいいや……何か良いことが?」
「はい!」
「え~? 何があったんだい。教えてくれよ」
「詳しいことは……う~ん。言えないんですけれど、なんて言うか、夢が決まったっていうか」
「へえ?」
「ずっと、ずっと……ず~っと目指してたことがようやく今日、実現したんです」
いやいや。私は言う。
「浮かれちゃ駄目なんですよ本当は。でもね、やっぱり」
「浮かれちゃうんだ」
「そうなんですよ~! だって、嬉しいじゃないですか」
「だろうねえ」
「分かりますか~?」
「うん、分かるよ。分かる……俺はそういうの、結構見てきたから」
お酒が私の思考力を奪っている状態で展開されたこの一連の会話を私が記憶しているのは、この会話が後に私を待ち受ける運命の一部を暗示していたからに他ならない。これは後出しの……今考えれば、というだけの話だ。この時の私には分かるべくもない。
この会話の後に私は確か、映画の話をしたんだと思う。これも、後の彼との会話で何となくそうなのではないか……と予想をしただけのことで、実態がどうであったかはわからない。
いつの間にか一人、一人と私と酒を共にした人々は消えていく。ただ彼、斎藤春也だけが残る。
昼間にはあれだけの本数が走っている電車が、いつの間にか消えてなくなっていた。駅にはシャッターが降りていて、夜の闇の中で泥酔した者しか駅前には居ない。
「どこかで水を飲もう」
私は未だ気分良く酩酊していた。電車もないし、そんな時間まで付き合ってくれる、お金も出してくれる彼は何と良い人だろうと無垢な気持ちを抱いていた。
私と彼は、普段私がその存在を認識していながら寄る機会もなく、知る機会もない施設へと足を踏み入れる。
人間味のない薄暗いエレベーター室。湿ったい、後ろめたい空気を持つ廊下。厳重に守られたその部屋の中に漂う重苦しい空気。
今思えば、その時の斎藤春也の行為はエスコートじみていて、その行為の内実とは裏腹に実に紳士的に、性に無知な私に丁寧に手ほどきをした。それでも幾らか私は拒絶する意志を示したが、やがてそれもほだされ、私は人生で初めて男性と性行為をした。
そこでは何か肉と肉が硬く衝突し合ったという感覚だけがあった。これではどうも私は『そういうゲーム』の声優は務まりそうもないな、と思った。ただ、次の日に股の間に残ったその痛みだけが、行為の残滓を物語っていた。
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