十一個めの、記憶の断片

 東京が、変わった。

 正確には、私にとっての『東京』が変わった。旅先の、訪れる先としての東京から、住処としての東京に。私は今や東京という街にとって『お客様』ではなく、その住人なのである。

その変化は劇的だった。異常としか思えない数の電車が行き来し、本当にこんなに必要なのかと疑うぐらいの路線が存在し、その上にバスがあり、タクシーがあり……だと言うのに、ラッシュともなれば無限に存在すると思われる車両全てが満員になる。

コンテンツとの距離感にも違いがある。ありとあらゆる場所に広告があり、ありとあらゆる場所で何かが売られている。田舎のあの侘しいような空白はどこにもない。水を飲もう、と思えばすぐに水を買うことができる。自販機はどこだ、なんて考えることもない。それどころか、複数の自販機の中からどの商品を買うのかを迫られる。映画を観ようと思えば都合三十分以内のところで観ることが出来る。レンタル屋に行けば旧作映画のバリエーションは無論、新作のバリエーションも豊富だ。

 もし必要なものがあるのであれば。それがお金を出して買えるものであれば、東京に居れば何でも手に入る。通販で頼めば一週間後にはそれが届く。本も、映画も、お酒もすぐに。

 私が東京へと上がった頃、私はちょうど二十歳になって、お酒と煙草が許されるようになる。親元からも離れ、監視されることもなければ、制止されることもなくなる。となれば、こうした娯楽に手が伸びるのも当然で、私は自身の好奇心を抑えられる程には賢くなかった。それら二つのうち、煙草は元々性に合わなかった。おじさん臭いし……実際、富士宮ではおじさんばかりが煙草を吸う。しかしお酒は、私が東京へ行って覚えたことの中でももっとも性質の悪いものの一つであるように思われた。

 お酒という娯楽は成程、私の身体に合っていた。誰に教わるでもなく、その飲み方を覚えた。とくに私は、辛口のお酒が好きだった。初めて飲んだ安ウィスキーをストレートであおった時の、あの頬が上気する感覚! そこに纏わる背徳の空気さえ、私を魅了した。

無論、私が東京という街から得たものは、そうした不良趣味のようなものだけではなく、東京校でのよりハードな、レベルの高い訓練からも大いに刺激を受けた。

学校側の扱いも違う。今や私は金を払って通う生徒である以上に、彼らが卒業生として売り出す重要な商品にもなった。そして、私は学校側から向けられるそうした期待にも応えられるように、日々研鑽を続けてきた。

 東京本校時代の生活ルーティンは大体、このようなものである。

 朝起きて身支度をして、三十分ほど電車で揺られて学校に着き、学校で指定された訓練を終えた後、私個人の練習をする。専門学校ではミュージカルの学科があり、そこに混じってダンスの練習をすることもあり、こうした新たに増えた項目を個人の範囲で反復、練習する。体力がない時は、映画を借りてそれを観る。東京本校近くにあるレンタル屋では、古いVHSの映画まで借りることができた。そこの月額会員になって、毎月映画を何本も観る。

 その日一日の過程を終えたら、学校と家の途中にある駅で降りて、安いお酒を飲む。大抵は高円寺だった。

高円寺はサブカルとスノッブの街だった。ある程度人の居るバーに行けば、女の子だからと奢ってくれる人さえ居て、私はその場その場でそうした紳士然とした人々の好意に大いに甘えた。

 斎藤春也もこの頃は、そうした親切な紳士の一人でしかなかった。

 休みの日には、外に出る。

 大体行くのは中野と荻窪と高円寺のどれかで、本を買いたい時には中野へ、映画を観たい時には荻窪へ、大抵の場合は高円寺へと繰り出していった。

私にとって思い入れ深い……親しみのある街は三つある。秋葉原、新宿、高円寺だった。秋葉原は無論、私の憧れの街だった。新宿は私の通う東京本校がある街であり、私の思う都会を象徴する空間だった。そして高円寺は、私という人間に纏わる娯楽全てを総括する場所だった。

 高円寺に沢山ある古着屋は私に着道楽というものを教え込んだ。服を買うということの選択肢すらなかった静岡時代とは打って変わって、私は高円寺というモードを知り、自由に服をコーディネイトするようになった。

 高円寺ではお洒落なご飯屋と、何か男臭いガッツリ系のご飯屋、おじさんが行くような居酒屋とが混在していて、そして不思議なことに、高円寺に入り浸る人々はそれらをどれも等しく、何一つ区別することなく利用した。前日、薄暗いオーセンティックなバーで会った相手とラーメン屋で再会したり、昼間から串揚げ屋で酔い潰れていた人がお洒落な古着屋の店主だったりした。

 彼らは高円寺という雑多な空間にそのまま親しみ、その雑多の一部となり、その雑多の中で生活を完結させようとする一種統一された世界観を持っていた。言葉の端々に自由が滲み、全ての議論を解放という結論へと運ぼうとする高円寺特有の言説がそこには存在していた。同じ世界感で統一されているというその点においては秋葉原と同じであるのに、高円寺にはそこに生活が滲んでいた。秋葉原に来る人々には別の帰る先が存在しているが、高円寺に来る人々はそのまま高円寺の何処か安アパートに住み込んで、何でもない顔でTシャツを干していそうなのだ。

私を……静岡から来た田舎者である私をとくに喜ばせたのは、サブカルに強い自称本屋『バードランド』であった。

本屋という体裁があり、実際に本をかなり置いているこの店はサブカルチャーの見本市であり、高円寺的なサブカルチャーに親しんだ人間にとっては『今更』な代物が置いてあるとさえ言われるこの店こそが、私を魅了した。

 人が通ることを想定していないかのような商品陳列、その配置。キワモノじみた商品。私の、私というサブカルチャーの色気に引きずり込まれようとする人に寄り添う、その商品。何かふんわりとした絵本と同じ場所で、ナンセンスでスプラッターな漫画を配置するその精神。

 私は高円寺に足繁く通い詰め『バードランド』にも週に一回は寄った。週に一回寄るだけでも商品は差し替わっていることが多くあり、私は寄るたびに何か必要なのかそうでないのかさえ判別のつかないものを買い込んだ。

 全ては順調だった。

 私は、全てを変えたかった。静岡に居た頃の世界の窮屈さを、私は未だに覚えている。

 ここではない何処かへ。少なくとも、この場所ではない何処かへ。広い場所へ、より広い場所へ。光が当たり、世界にあまねく光を差し当てることのできる場所へ!

 私の願いは、かないつつあった。ここは静岡とは、あの富士宮とは違う。ここには全てがある。私が今やること一つ一つ、その全てがこれからに繋がっていく……。

新宿本校のレベルは高かった。けれどそれは相対的なもので、周りのレベルが高いのであれば私は、静岡に居た頃と同じことをするだけで良かった。周りから盗み、自身のものとする。

今や私は、自分こそが一番であるという自負を驕りとは思わないようにまでなった。

私が、私こそが! あの美しい営為に、もっとも近付いた存在なのだ。秋葉原は今、私を……山本菜摘を知らない。けれども、これから秋葉原は、私を知る街になる。

 ……この頃こそが、私の絶頂期だったのかもしれない。今ならばそう思うが、仮に当時の私が、後々にこのような有様になるのだと知ったとして、立ち止まることができたであろうか? 私は断言できる。そうはしなかっただろう。例えその先に絶望があったとして、一度始まった夢の助走を止めようとは思わないだろう。夢とは、そのようなものでは、ないのだろうか。

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