十個めの、記憶の断片
高校を卒業して、私はすでに決めていた通りアニメ系専門学校へ入学した。私が入学したのは、この手の専門学校では最大手の、全国にいくつもの分校を構える系列のもので、その静岡分校にあるアニメソング科へと入った。
この学校には幾つもの学科が存在しているが、どの学科にも進歩的な文言より、どこか享楽的な文言が踊っているように思え、その内実を考えると少しだけ気分が重くなった。実際、同学科には様々な種類の生徒が居た。
生徒のかなりの割合は、進路というものを真面目に考えることなく、ただそれらが、アニメコンテンツが好きだ、という純真無垢にすぎる感情からこの場所へと至っていた。彼ら、彼女らからは私も同じような存在に見えるのだろうと思うと、それだけで少し胸がもやもやするような気持ちがした。
天性のアニメ声と呼べる生徒もいた。彼らはその声質のために思春期における学生生活に幾らか支障をきたし、生活中の苦労を好んで話す。
元子役で、声優界への進出を試みる生徒も居た。彼らの戦略性には眼を見張るものがあり、大半の生徒がその娯楽一般にさえ真剣に立ち向かえないのに対し、僅かな元子役は既に芸能界一般での経験を有していて、その壮大な虚構に対する身の投じ方を理解しているように思えた。後に知ることだが、いわゆる声優のそれもアイドル声優と呼ばれる人々の王道はこのように幼少期から経験を積んだ元子役であった。
元音大声楽科というパターンもある。この場合、よりハイソな空間から天下ってきた、というニュアンスを強める。彼らはその声の安定感、本来誰でも不安定になりがちな、女性であれば高音域。男性であれば低音域におけるそのブレなさ、揺れなさは相当なもので、訓練抜きにはできないことを訓練抜きでやっていた。
そうした武器を事前に抱える人々とは逆に、私を含むいわゆる普通の生徒は、始まったその段階で既に大きな差があった。そうした歴然たる差、現実という名の壁にぶつかった時、普通の人々と同様の、柔らかな精神の持ち主は挫折し、そのうちの聡い者のみが人生で初めて社会性と呼べるものに目覚め、真面目な就職先に入るための勉強と離脱の準備を始め、不真面目か或いは不器用な生徒のみがそこに残る。
私は、どうだっただろう。私もその大半の、本来であれば何の才能もない生徒たちと同様の手順を踏んでフェードアウトしていくべきだったのかもしれない。けれども、私はそうはしなかった。
絶対に嫌だ。ここまで意地を貫き通して来たというのに、何故唐突に利に聡いような風を気取る必要があるのか。それこそ、負けじゃないか。あれだけの思いをしてきたのに、あれだけの小さな、けれども大きな戦いをしてきたのに!
負けた先に。聡く、フェードアウトしていった先に何らかの道を立てようというような自由のある生徒とは違う。私がここから撤退すれば、その先には敗北者としての人生が待っている。
看護師の人たちは、偉い。分かっている。あれだけハードな仕事をこなし続けているあの人たちに向かって、唾を吐くことは許されない。それでも、ここから抜け出して、看護師の勉強をして、看護師になって、地元のどこかの病院で看護師になって、長く仕事をし続けた先で今度は親のお下の介護をして、そうやって人生を過ごした先で、何もかもがない状態で、四十か五十か六十で、やっと始まる私の人生……。
最悪だ。絶対に、絶対にそんなのは嫌だ。認めたくない。そうした杓子定規なありふれた人生を否定するには、努力をし続け、実力を見せつけるしかない。
それぞれの得意分野で、私は勝利することができない。つまり、高音域では声楽の人に。可愛らしい声ではアニメ声の人に。演技力では元子役に敵わない。
まずは心の問題だ。彼女たちには勝てない、という意識を捨てる。次に、勝たなければならないという意識を捨てる。条件は勝利ではない。次に繋げることだ。つまり、仕事をさせられるという安心感。この子には次をあげたいと思わせるだけの、人当たりの良さを身につけなければならない。そう考えた私は、その立ち居振る舞いから変革していかなければならない。学生時代の無頓着な態度から離脱しなければならない。服装は実用的に、化粧は最低限に、一日三回食後に歯を磨いて、髪と身体を丁寧に扱って……。
外でも、それぞれに優秀な成績を収める生徒たちと仲良くする。彼女たちは不思議なほど親切に、技術を教えてくれる。無論、それら全てが正解というわけではない。私自身が、必要に感じたものを選び取る必要がある。
私は彼女らに完全に勝利する必要はどこにもない。彼女らを百点とすれば、私は彼女らのそれぞれの成績の八十点を出せばいい。後は、機会が巡ってくるのを待つ……だけ。
焦れったかった。
私と自身とを重ねていた、いわゆる普通の生徒。クラスの大半を占める、平均的な落ちこぼれ達は、私のその真剣そのもののような態度を馬鹿にした。
「真剣にやったって意味がない」
「元プロに勝てるのか。あの子は元子役だ」
「私達の知らない、ハイソなオペラの役者だった」
そうした言い訳が、遠回しに私のその努力を批判しているのだということぐらい、私にも理解ができた。
「負けてやるものか」
私は部屋に一人で居る時。発声練習でカラオケボックスに居る時。図書館で借りてきた資料を聴く時。一人で居る時に、その言葉を香水のように匂い立つものにするために、染み込ませるために、そう言い続けてきた。
私の敗北とは、彼ら一般的な生徒にとっての勝利である。あの子は、菜摘ちゃんはあれだけ頑張ったのに、必死に必死に続けてきたのに結局駄目だった。菜摘ちゃんでも駄目なのに、私に出来るはずがない。ほら、駄目だった。最初から駄目なのは分かっているのに、なんであの子は、菜摘ちゃんは『無駄に努力』したんだろう?
それこそが彼ら、彼女らにとっての美酒だった。退廃を、怠惰を肯定するためには私が、山本菜摘が敗北しなければならなかった。何故ならば、本来何もないはずの私、山本菜摘が勝利したならば、自分たちにもやりようがあったのだ、ということを目前で示されることになるからだ。
もしかしたならば彼ら、彼女らはそこまで自身の心理について真剣に考え込んでいないのかもしれない。しかし、無意識下にそうした感情が介在していると私は確信していたし、何より『そうであった』方が私にとっては都合が良かった。それを真とするのであれば、実体がどうであれ私を取り巻く逆境の良いスパイスになるからだ。
私は、戦った。
専門学校、アニメソング科の生徒。そんな漠然とした立場の中にあって、私自身の立場を確立しようとした。
私には目指すものがあった。
あの『可憐』そのもの。奇跡的な、遠大な距離の先にあるその美しい営為。その営為の一角足ることこそが、私の大きな目標なのであった。後ろには、悲惨そのものたる敗北者としての人生があり、遠く先にはいつ手が届くかも知れない遥かなる営為がある。その道のりははるか先というのに、私はこの時、それでも努力することをやめなかった。そのことを今も、誇りに思っている。
ある時、教師が言った。
「東京にある本校に、転院しないか?」
私はすぐさま、その話に飛びついた。
それからと言うもの、互いに切磋琢磨し続けていたクラスメイトは皆一様に、私に冷たく接するようになった。しかし、それら全てはもはや、どうでもいいことだった。
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