九個めの、記憶の断片

 その恋愛はまるでままごとのようだった。もし相手がこのように動くなら、私はこうすべきだろう……というような、決まりきった様式が存在していて、私はただその恋に恋をして、その実体をついぞ掴むことができなかった。

だから、私は言ったのだ。

「別れて、ください」

 妙な言い回しだった。普通、別れましょう……とか、少し工夫をして、もう終わりにしましょう……とか、そういう言い回しが用いられるべきだった。懇願しなければ関係を清算できないという無意識下の思考がそこにはある。

言いながら私は、机下でぎゅっと握り拳を作る。緊張、している。いざとなれば相手は、私の……山本菜摘の、ではない。声優、遠藤蓮花の立場をぐちゃぐちゃに壊すことができる。撮らせていないはずだと理解していても、リベンジポルノは他人事ではない。そうした粘着質な細やかさは、目の前にいるこの男性、斎藤春也……私が初めて認識した、いわゆる男性と呼べる人物には無縁の概念のようにも思えるが、その上で私は、そうした私の身に起こり得る数々の問題について想像をしないわけには行かなかった。

彼は、私の言葉に一切の動揺を示さなかった。普段通りに、事も無げに淡々と答えを返す。

「いいよ」

「本当に?」

 そんなことを言うべきではない。何故言ってしまったのだろう。それを聞いて彼は笑う。その動作自体が私のことを何もかも見透かしているかのようで、私は苦しくなった。

「おいおい。そう言ったのは君じゃないか。聞き返す必要なんてないはずだろう」

 良かった。私は安心した。『おままごと』は終わったのだ。その後のことは、その後に考えればいい。私は、やるべきことを今果たしたのだ。

「でも」

 彼はそう言い出した。

「今度、ディズニーランドに行く約束をしていただろう。あれは、どうする?」

「……それは」

 即答ができなかった。彼は続ける。

「俺さ、あれ結構楽しみだったんだよね。行きたいなあって……チケットももうとってあるしさ。無駄にするのもどうなのかなって」

 売ればいい。そう言おうと思ったが、別れましょうと言った私が次々に要求をして、心象を悪くするということは如何にも気が進まないことで、その後を考えている私には言いづらいことであった。

「今度それだけ行こうよ。そっから先は、君の言う通りでさ」

 拒絶、しなければならない。分かっていた。それでも私がそのようにできなかったのは、私自身が弱いからだ。自分自身にある不安感。これからのこと。声優・遠藤蓮花が上手く行けば、この関係に利益なんてない。今すぐにでも切り捨てなければならない。けれど、そうなるという確信は私にはなかった。

彼、斎藤春也は実業家。スポーツバーを経営していて、都心に三つ店舗を持っている。お金がある。貧相な私の、アイドルとは言葉ばかりなその寂しい懐を察して、私に良い思いをさせてくれた。

 これからもし私が、声優・遠藤蓮花が何かの理由で破綻して……もっとも生々しい想像は、代表作を『プレ・コレ』以外に得ることなく、そのままアイドルとしての寿命を終え、実績のない声優ただ一人が残されるというもの……。そうなれば私は、この東京にあるものを何もかも捨て去って、あの鬱屈とした富士宮の実家へと戻ることになるのだろうか? そう考えただけでも、寒気がする。

 何もない人生なんて、嫌だ。御免こうむる。

誰かから認められるでもない人生。家族が居て、家族を構成して、家族と家族の連なりが町になって、隣を見ればご挨拶。古ぼけた軽自動車に乗って大型スーパーへ行き、その日の晩酌のアテを考える。自分自身の家族を持てば、生活の裏を支え、老い衰えればその娘息子に世話させて、疲れ果てた介護の末に、ただ残される遺産相続の面倒だけは残さぬように、皺と肌の区別がつかない状態になって、死ぬ。そんな人生は、まっぴら御免だった。

 もしそうなると言うのであれば、私はこの東京と。都心という生活空間と心中してやったっていいとさえ思う。そうした、向こう見ずな破滅思想が私の脳の裏にこびりついて、取れない。

そのような思考から察するに、私にとって斎藤春也とは東京そのもののようであった。ままごとのような、決められた様式の恋愛。全ての立ち居振る舞いを決定せしめる要素が察せられるように配置され、その形に沿って動けば良いという感覚。私が一人前に、都会っ子のように恥ずかしげもなく振る舞える、その退廃的な様式。

 必死に学んだフレンチ・レストラン向けのテーブルマナーも、本来であれば私には手が届かない領域での浪費をなすためのもの。退廃のための様式。これを肉体でもって体現しているのが、この男。斎藤春也であった。彼が時折見せる、ある種の粗雑ささえも彼が行った冷静な計算の元に展開がなされていると感じた。

食事を終えて外に出ると、斎藤春也は空の星を見、言った。

「俺はさ。高円寺が好きなんだよ。この街にいれば、何でも許されるような気がする。酔い潰れてゲロ吐くのも、気取ってハートランドのビールを飲むのも、唐突に自然派なランチを食べても、君と居ても。君と一緒に適当なことをして遊ぶのも、全部が全部、許される気がする。そう思っていればこの星空にも何か、綺麗なものが映っているような気がしてくるんだ」

「そうかもね」

「だから俺は、君が好きだよ。菜摘……これからはそう呼ぶべきではないということは分かった上で、さ」

 彼の言葉を横で聞きながら私は、高円寺の空を見る。そこに浮かび上がる星は確かにきらきらと光瞬いているように見える。けれども、富士宮で見る空の星に比べればそれはくすんでいて、その光は屈折しているようにも思えた。

 ふと、私は考える。私の人生史上、もっとも美しいと思えた星の夜空は果たしてどれであったか、と。

 これはすぐに結論が出た。

 由比駅で見た夜空の星こそが、もっとも美しかった。遮る他の光も、どんよりとした靄もかかっていない、あの星空こそが、私の知るもっとも美しい星空であった。

当日。ディズニーランドの開演時間に待ち合わせていたはずの彼、斎藤春也は現れない。

 携帯電話に通知が来る。

「遅れるから、先に入ってて」

「どれぐらい?」

「わかんない。多分三十分」

 多分って何? 前までの関係性だったなら私はすぐさまそう言っただろう。それを言えないのは、私が『別れて、ください』と、そう言ったから。考えてみれば当然のことだ。別れる相手と一緒に行くディズニーなんて……それはたんなる吝嗇。私は今、その吝嗇のおまけでついてくる小さなグッズのようなものだ。

そう考えると、今の自分のみじめさが際立ってくる。私も似たようなものだ。結局、一人でディズニーランドなんて行くお金もないし、女一人でそんな場所に行っても面白くない。友人という友人を私は過去の場所に置き去りにし続けてきたし、これから自分が声優として名を売っていけば、男と二人でディズニーなんてメディアの良い的だ。誰に見られるか知れたものではない。

 つまり、男と二人でディズニーランドというイベントそれそのものが、これからの私にはできないことなのだ。

既に出入り口には長い、長い待機列が出来上がっていた。事前に渡されていたチケットを使って入る。待ち合わせの場所で彼を待つ間、そこの道を行く幸福そのものと言うような人々の姿を目に映す。

 彼らのなんときらびやかなことだろう。私が今置かれているこの状況と比べた時に、何と彼らは前向きであろう。私はそんな道行きの中に置かれているというただそれだけで、心が干からびていくような気持ちだった。

彼は来ないのではないか。これこそが彼なりの迂遠な復讐なのではないか。そのような考えさえ起き始めた頃に、彼は来た。

「遅れ過ぎじゃないですか」

 私はそう言った。しかし彼はそれを意に介することなく、堂に入った言い回しでもってこれを話す。

「ごめんね」

 その一言が異様に重かった。彼は続ける。

「君と最後の日だからって、気負い過ぎたのが良くなかったんだ。でも、今日はこれからそれを取り戻すよ」

 ここから先は当然全部俺の奢りだから。彼は言う。

「行こう」

 私はただそれだけで、彼の隣に居ようと思った。結局私は、ディズニーランドに来るのが初めてだったということもあり、その日一日を楽しく過ごしてしまった。

その虚像の完成度。虚構の完成度という意味では、ディズニーランドは非常によく出来た施設だった。存在する架空の世界を、架空ではなくそれがあるのだと信じさせるそのシステム。明らかに普通よりも高い値段で売られている飲料でさえ、その上乗せの値段がファンタジーとして加算されているような説得力がある。

 その日。大通りで行われたパレードを鑑賞した後に私は、彼と別れようとした。しかし、彼は言った。

「まだ夕飯、食べてないでしょ」

「もう、大丈夫。帰ったら、適当に食べるから」

「東京駅辺りにいいところを予約してるんだ。行かないか」

 拒否すればよかった。けれど、できなかった。普段食べている何かのエサのようなその業務的な食事は、夢そのものの中に居た今日その一日の感慨さえぶち壊しにしてしまいそうで、嫌だった。

 結局私は彼と夕食をフレンチ・レストランでとり、その後には自然と、そういう場所へと向かっていった。その日の彼の行為は、一段と激しかった。

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