八個めの、記憶の断片

 人が何かを……ここに入るのは何でもよい。社会人としての、他人に見せられる自分とか、趣味の中にあって、趣味のある自分をさらけ出すべき場面とか、とにかく何でもよい。人に鑑賞される、観察されることを前提としてそれを演じなければいけない場面を想像する時に必要となるのは、そこに纏わる身体性だ。オタクとしての自分を表に出すならば、その場面にはまず第一に自分が居る。その自分が他者からどう見えるのか、と考える。この時に、想像上の演じられる場面に身体性が生じるのだ。どう見られたいのか、ということと、どう見られるのかということとの間にある差を埋めなければならない。

 これは、キャラクターを演じる時にも同じことが起こる。それどころか、実際に自分という身体を用いて想像するよりも難しい。実際の私であるなら、どう見られたいのかということをどう見られるのかというところに近付けさえすればいい。だが、これがキャラクターの場合は違う。キャラクターのどう見られたい、キャラクターのどう見られる、作品中でこのキャラクターはどうであるというところを正確に演じなければならない。差を埋めるのではなく、それをそのままにしなければならない。現実的な、論理的な作為は大体の場合、邪魔になる。論理的に非論理的な情動を表現しなければならない。これが私が、まだ専門学校に居た頃に考え、今もその基礎となっている、キャラクターを演じるということに対する一つの考え方だった。

 『プレーン・コレクション』のシュペルエタンダール役という役柄の難しさはそこにあった。彼女は兵器であり、兵器でありながら彼女である。軍用機の身体性など、一体どこにあると言うのだろう。

航空機とはまず、どのように動くのかを知る必要がある。動画サイトでまず軍用機全般の挙動を調べた。プロペラ機が俊敏に、事も無げに回転し始めるのに対し、ジェット機の回転挙動はどこか、たおやかだ。そして、飛んでいる映像だけではピンと来ないが、プロペラ機よりもずっと速い。

 シュペルエタンダールはジェット爆撃機だ。私は歴史の教科書で見た覚えのある爆撃機とは明らかに違う、独特な美しさをそこに見出した。機体形状は流麗で、素人目には戦闘機と見分けがつけられない。同時期の航空機を見ても、フランスの軍用機はまるでその国のイメージそのものと合致するかのように流麗で美しい、何らかの芯の強い流儀がそこに介在しているかのように思われた。

 秋葉原のプラモショップにいけば、そこの店員が作った展示品が見られるということを知り、私は現地に行って幾つものプラモ屋を見て回った。しかし、シュペルエタンダールのプラモを展示している店なんて一つもない。

私はプラモの代行を調べ、依頼した。ただでさえ乏しい口座の中身がさらに減り、私の食事はしばらくの間貧相になった。

 届いたプラモは触るだに壊れてしまいそうなもので、私はこれを慎重に摘んでとって、その挙動をイメージした。その際に鳴るはずのジェットの音、空気を切る音……。

「あれ、これって」

 小さな男の子がよくやる、口でごおごおと効果音を鳴らしながら航空機を飛ばすごっこ遊びのようなものと同じなのではないか? そう思うと唐突に自分のやっていることの全てに滑稽さがあるような気がしてきて、少しだけ落ち込んだ。

取り敢えずと言って、名前の分かる作品だけを観ていた戦争映画も、ジャンルを航空機モノに絞ると意外なほど本数が少なくなった。大抵の戦争映画はその悲惨さを表現するためにか陸戦を取り扱っていて、次点で独自のジャンルを築いている潜水艦モノがあり、航空機はいわゆる陸海空の中では一番少ない。その中でも特別有名なのは、米海軍を題材にとった映画で、その主役機となる戦闘機Fー14そのものの人気と相まって、未だに航空機モノのオールタイム・ベストとして名を連ねているらしい。

 私はその映画の主演男優を別の作品で観たことがある。アメリカのスパイ映画の金字塔と呼ばれ、シリーズ化された映画の主人公役をやっている俳優だ。実にハンサムで格好の良いその男優が、実際には怪しい宗教モドキの宣伝塔にもなっているということも私は知っている。そして、そうした情報を前提に置いたとしても、映画に出てくる彼は実に格好良く、精悍で……その実態と虚像の乖離こそ、俳優が俳優たることそのもののように思えた。

私はその映画を観ながら、その俳優にではなく、その主役機たるFー14に感情移入しようと試みた。無茶な操縦と思うのか、誇りに思うのか……。

 そうした一連の演技に対する努力・注力は現場での評価に結びついた。

ゲーム『プレーン・コレクション』の開発はかなりおしていて、人気のある他声優のキャラはアフレコで、既にキャラ絵も上がっている状態なのに、私の演じるシュペルエタンダールだけはプレスコで、キャラ絵もまだ上がっていなかった。プロデューサーは言う。

「遠藤さんのお陰で、キャラ像がハッキリし始めたよ」

 それがゲーム本体の開発の遅れをごまかすためのものなのか、本心から発せられているものなのかは定かではないが、私はその言葉を素直に喜んだ。

結局、ゲーム『プレーン・コレクション』の開発はかなりギリギリまで行われ、他の声優はスケジュールが噛み合わず、全ボイスが揃わない状態で稼働開始となった。そうした裏事情を知る者にとってみれば、その後に起こった『プレ・コレ』ブームは意外、と言う他なかった。

 ゲーム『プレーン・コレクション』は大ヒットした。過去に存在していたソーシャルゲームにありがちな、カードを収集し単純な数値の争いをするというだけでなく、複数のコマンドがいわゆるゲームらしいゲームとして配置され、元ネタの存在する細かなシナリオライティング、多数の隠し要素……。

公表された声優も人気声優ばかりで、彼女らが吹き込んだキャラクターに人気が生じるのは言ってしまえば順当であった。そうした中にあって、意外な人気を誇ったのは私の演じるキャラクター、シュペルエタンダールだ。

『プレーン・コレクション』のフランス機は、デフォルトで選び取ることのできるアメリカ機、ロシア機のツリーとは別個のいわば玄人向けのもので、そのツリーを出現させ、その先にある機体を解禁するのが大変難しく、それが逆にこの『プレ・コレ』のゲームらしさに惹かれたユーザーの挑戦心を煽った。

 そのフランスツリーの中でも、シュペルエタンダールを出現させるにはある特定の条件が必要であったために、稼働初期は幻の機体と言われ、その時期にシュペルエタンダールを出したユーザーの愛着心は一際だった。

 このシュペルエタンダールを出す条件にはゲーム上の天候ステータスが関わっており、規定以上の開発費を投入したうえで天候ステータスが雨の日にシュペルエタンダールは出る。つまり、雨女であるということをゲームシステムの時点で運命づけられたキャラクター。それが『プレ・コレ』シュペルエタンダールなのであった。

予定期日での公開のために五月雨式に行われていたレコーディングも、公開してからは徐々に秩序だったスケジューリングで展開がなされるようになり、私の時にもしっかりシチュエーションとイラストが用意されるアフレコになった。私だけがプレスコだった頃のあの引け目も今はなく、キャラクターの人気という堂々たる実績の元、アフレコにも力が入るようになる。

 時折訪れる、キャラと自己とが一体となった瞬間。私がシュペルエタンダールを演じているのではなく『私がシュペルエタンダールなんだ』と思うその瞬間! これに勝る快楽はどこにも存在しないのではないかと思われた。

 私は、考える。

 私は、一個人として山本菜摘という名前を持っている。一九九六年九月二十八日、静岡県富士宮生まれ。利き手は右。血液型はB型。

声優としての名前は遠藤蓮花。シャッタースカイ・プロモーションのアイドル声優ユニット『サマー・ディライト』のメンバー。公式のプロフィールでは趣味、映画鑑賞、アニメ鑑賞、ゲーム、読書。

 私にはこの二つの名前が並列で存在している。それこそが私だった。けれど今はこれが少しだけ変わってきている。

キャラクター、シュペルエタンダールと私自身がリンクする時。アフレコ現場で声を吹き込む。台詞に目が行く。台詞が発せられる。声が出る。『その声はシュペちゃんそのものだ』と思う。

もしかして、あの美しい営為とは。私が夢見たあの、奇跡的なその『可憐』さの、その営為の実体とは、このようなものであったのだろうか。

 今の私にはこれこそがあの美しい営為そのものだ、と断言することができない。けれど同時に、私のこうした努力の一つ一つの先で、遠大な距離の先に輝いているように見える、あの光彩陸離たる天頂の営為が、私の手の元にまで転がり落ちてくるのではないか? という期待と疑義の入り混じった感情を否定することも、私にはできかねたのである。

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