六個めの、記憶の断片

 中央線に乗って、御茶ノ水駅で乗り換える。御茶ノ水駅で乗り換えれば、反対側には秋葉原へ行く総武線が入るので都合が良い。

総武線に乗り換える。電車が出る。

ちょうど車両が神田川を越える辺りで、街の空気が変わる。どこか浮かれている感じ。現実味のない、作られた街の空気……。

電車からでも見える位置。駅すぐ近くのゲームセンター壁面にはいつも、その時々に流行る、売れ筋の、売りたい作品の巨大な広告が貼り付けられている。今は、プレコレだ。

 電車が秋葉原駅に着く。不思議なもので、秋葉原に降りる人というのは、見た目がいわゆるオタク的な人でなかったとしても、何となく秋葉原で降りるのだろうなと思えるような人ばかりだ。

総武線ホームから階段を降り、京浜東北線ホームへと移動する。駅広告も、遠目に見える広告も全て、アニメ関連のもの。最近はソーシャルゲームの広告が多い。駅内にもプレコレの看板がある。このホームに飾られているのは、プレコレの主人公的立ち位置にあるキャラクター、Fー4。広告には台詞の記述がある。

『わたしたちの空へ! ゴー・アヘッド!』

 Fー4の台詞だ。しかし、ゲーム中でFー4は殆どこの文言を発さないので、ピンと来ないユーザーも多いのではないだろうか。

 嫌になる。

 秋葉原は私の街じゃない。けれど、他人の街でもない。世間に流布する私、声優・遠藤蓮花のイメージこそがこの街に取り込まれて、有機的に結合しているのだ。そのために、主体はこの秋葉原という街にこそ、存在していて……私は、この街。アキバ的なるもの。アキバカルチャーとでも言うべきものを構成する一つのパーツに過ぎない。

京浜東北線のホームからエスカレーターに乗る。デカデカと貼られたライトノベルの宣伝広告。その裏で飛び交っているであろう企画書、予算案、折衝まで想像したところで、私は考えるのをやめた。

 私にとって秋葉原はそうした自己のちっぽけさとビジネス・マネタイズの具現であり、遊ぶ場所というよりは、戦場そのものだった。

因果な場所を指定してくれたものだな、と私は思う。今や私も一人の声優だ。それも名ばかりではない、人気作を……たった一つとはいえ抱えている、アイドル声優の一人だった。

 そうした人間が男性と二人で歩いていれば……そう。歩いていたというだけで十分だ。それがどこかのSNSにでも投下されれば、大騒ぎになるだろう。しかも相手は、人気ゲーム実況者・ピリ辛である……もっとも彼は顔出しをまだしていないので、もしかすれば一般男性として報道される程度で済むのかもしれない。

 ゲーム実況者・ピリ辛。本名、本間敦。動画サイト『電撃動画』の有名実況者の一人として知られている。

いわゆる洋ゲーと呼ばれ、多額の賞金がかかる国際大会が行われているストラテジーゲーム『トーナメント・リーグ』のプレーヤーであり、その解説プレイ動画で名を売った。この『トーナメント・リーグ』に存在する有名プレーヤーの戦術を紹介するのみならず、自身も斬新な戦術を展開し(但し、その大半は非実用的なもの)それに纏わる様々な名言を残した。それに留まらず、独自のゲーム文化を持っているが故に洋ゲーとの親和性が低い日本のゲームユーザーに、プロゲーマーという概念が成り立つだけのゲームシーンを有する『トーナメント・リーグ』というタイトルを日本に広めた、功労者の一人だ。

 私が彼と初めて会話を交わしたのは、とある放映アニメに彼がカメオ出演をした際に同席した時であった。

好きなアニメが同じ……というのが話題のとっかかりで、もっとも私が好きだったそのアニメは世代であれば、オタクではない人種でさえ内容を知っているようなものだったので、彼がその内容を知っていること。好きであること自体には何の目新しさも斬新さもなかったのだが、それよりも彼自身のその、素朴な、純粋な感じに私は惹かれたのだ。

 私が知っている、対等の立場にある男性とは、私が専門学校生時代からの腐れ縁を持っている斎藤春也であり、彼から見出すことのできる、抜け目のなさ。計算された粗暴さといったものが彼・本間敦からは感じ取れなかった。

 そこにあるのはただ何もない。朴訥な、誰かを楽しませたいとか、愛されたいというような感情の動作と行動とが一致していてズレることのない一貫性をもった態度であり、私はそうした相手について、それこそ……素朴な好感を抱いていた。

 だと言うのに。

 私が待ち合わせの十分前に、秋葉原駅電気街口広場に到着しても、彼は待ち構えているわけでもなく……連絡を入れてみれば、十分ほど遅れると答えが返ってきた。

「はあ」

 私は小さく溜め息をつく。これがあの、純朴さの代償なのか。

電気街口広場のパン屋のガラスを鏡代わりにして、私は今日の自分の服装に問題がないか確認をする。

九月の涼し気な日。ロングコートにしてもよいかな、とも思ったが、秋葉原であまりに垢抜けすぎた服装をすると、ただそれだけでも目立ってしまう。地味なようで工夫がなされている。そういう服装が、理想的だった。

 普段の私とは違う私。それを装うことは声優としての演技をより簡易に、手軽に楽しむ手段だと私は考えている。

 何回かその場でポーズをとって、服の動きをみる。大丈夫だ、問題ない。今の私は、可愛い。アキバに居ても問題のない、抜けてこない可愛さだ。

「何しとるんよ」

 後ろから声がする。

「遅いよ、本間くん」

「すまんて……で、何しとったん」

「身だしなみチェック」

「そんなん、することあるんかい」

「ありますよ。義務のようなものなので」

「義務かぁ」

「わからない?」

「わからない」

「だろうねえ」

「なんやね、それ」

「別に? そうだろうな、ってさ」

「遅れたこと、まだ拗ねてるの」

「そういう言い回しにこそ、思うところがあります」

 そう言って私は一人、大通りに向かって歩き出す。後ろで本間敦がすまんかった、と繰り返し言っている。

 私は答えた。

「声でバレる可能性、少しは考えた方がいいよ」

 そう言って私は、サングラスをずらし、裸眼で彼の方をじっと見る。私は変装をしているのだ、と暗に知らせるために。

「しかし、ほんとに声だけで分かるもんやろうか」

 彼は言った。今度は、周りに気をつかいながら。

「最近のユーザーはすごいよ。ゲーム内情報で公開してなくても、大体声優が誰なのか分かるし、売出し中の声優がエロゲでも別名義で声優やってたなんて筒抜けだったりさ」

「ほーん」

 彼は如何にも興味なさげに、気の抜けた答えを返す。

「エロゲの時は棒演技なのにアニメは真面目にやるんだな、とか言われる子もいる。案外、怖いものなの。そういうのは」

 それに。私は言った。

「ゲーム実況者でアクの強い言い回し使うんだから、気をつけなきゃいけないのはどっちかと言えば、キミ」

「でも、実況じゃ標準語だぞ」

「いやあ、あれを標準語って言っちゃったら駄目だよ。関西のイントネーションばりばり。演技力、皆無」

「そりゃ、君と比べられたら形無しだ」

 大通りでは既に歩行者天国が始まっている。その中にいる何人かの観光客が『プレコレ』の広告の写真を撮っている。

 それをみて私はまた一つ、小さく溜め息をついた。それを知ってか知らずか……きっと、知らないのだろう。本間敦は言った。

「隣におんの、シュペちゃんやでって言いたくなるな」

「ご冗談」

「勿論、冗談にございます」

「面白くない冗談言うのが仕事なの?」

「ごめんよ。でもさ、嬉しいんだよ……じきに顔出しして活動し始めるから、こんなことも出来なくなる」

 本間敦も、観光客と同じように『プレコレ』の広告を見上げている。

 嬉しい、という言葉。何のてらいもない、そういう率直な感情の吐露が私には新鮮で、何か可愛らしい感じがした。

「ところでさ。これからどこ行くの?」

「決めとらんよ」

 そうだろうな。私は内心、そう思った。

「私ね、ずっと行きたかった店があるの」

「どこよ」

「中古エロゲ屋」

「……なんや君、そんなんやるんか」

「そんなん……とは、なんですか」

「いやあ。可愛い顔してえぐいんやなあって」

 何が、と聞くことはなかった。本間敦が何故そのようなやりづらいような反応をするのかを、私は理解していた。寧ろ私は、そうした本間敦の純な反応を引き出すために、そのようなことをしていると言っても良かった。それはまるで、何か好奇心旺盛な少年がテレビか何かでみた化学実験を自身の手で実行してみようとするような、そうした作為があった。

 私は本間敦と一緒に秋葉原の幾つかの店をまわった後、四時になってからそこを出て新宿へ向かった。

 私がこの後、新宿へ行くと本間敦に告げた時、彼は何か落ち着かない様子で、私が何故なのかと問うと、彼は如何にも答えづらそうに自分の思うところを話し始める。

「新宿、苦手なんだ。人多いし、未だに道も分からん」

 そうして彼は、人生で初めて上京した時の体験を話し始める。

「意味、分からんくないか。出口も多すぎるし、人も多すぎる。店も多すぎる。待ち合わせなんてできっこない。だのに、乗り換えはみんな新宿。こんな阿呆みたいな街作ったんは一体どこの誰なのか」

「さあ、どうなんだろうねえ」

「だから、さあ。新宿はやめにしないか。もっと分かりやすい街がいい」

「じゃ、高円寺にする?」

「自分みたいな人間には過ぎた街だ」

「じゃあ何、大久保?」

「自分、辛いのいけんのや」

「じゃあ新宿で、いいじゃない」

「でもさ……」

 大丈夫。安心して。私は子供をあやすように、そう言った。

 実際に新宿に着いて私は、言った。

「じゃ、行こう」

「迷うたらどこにいけばいい」

「大丈夫。ほら」

 私は本間敦の手をとって、指を絡めるようにして、握る。

「これなら、迷わない」

 私のその行動で、本間敦が息を呑むのが……分かる。そうした一つ一つの行動が、何か危険な色味を帯びた実験であるということを私は理解していた。理解、していた上でそういうことをしている。

 私は彼と、手を結んで二人で新宿の夜の街を歩いた。

 今となっては秋葉原よりも新宿の方がよほど落ち着く。秋葉原という街は私を知っている、私をその一部と思っている……けれど、新宿という街は、私を知らない街だった。よほど奇抜な服装をしない限り、誰も気にしない。私がもし仮に酒に酔って、道端で尻もちをついたって、大半の人は気にしない。それが今の私にとっては心地よかった。

 私はそのまま、本間敦を連れて新宿東口にある個室居酒屋に入った。私も彼もビールを一つ目に頼み、乾杯する。

「今日はありがとう」

「こちらこそ」

 そう言って彼はジョッキをこちらに向ける。新宿に行く直前の、不安で仕方がないというあの怯えた表情も、今はみられない。

「では早速」

「早速?」

「戦利品をみます。これも義務です」

 私は今日買った……大半はそういうゲームをその場に積み上げ始めた。

「うわ、そんなにこうたの」

「買いましたよ~? 気付かなかったの」

「アキバおる時そんなに持っとったっけ?」

「コインロッカーいれていたので」

「成程なあ」

 そう応えながら私は、一つ一つの作品のパッケージをみる。実家暮らしだった頃は当然として、専門学校生時代にもお金がなくて買えなかったそれらゲーム群は、大人になった自分にとっての憧れで、今こうして手に入れてみるとあっけないような感じもするし、喜ばしいとも思う。

 私がそうした作品の一つを手に取ると、本間敦は唐突にその中身について言及をし始めた。

「それ、あれやん。ヒロインが化物でさ、主人公視点だと世界がグロいことになっとるんやろ?」

 そうだよ。私は言った。

「なあんだ、知ってるんじゃん。こういうのも」

「自分が好きなわけじゃないんよ。好きなやつが前にいたんだ。そいつはアメリカ人で、確か……ボストンに住んでるつっとったかな」

「へえ、さすが『トーナメント・リーグ』だ。グローバルだね」

「そうなんよ。あいつら相手が日本人だと思ったらアニメの話ができるって思って色んな話をするんだけど、やっぱ趣味が少し違うっていうかさあ……」

 本間敦は自分の出番だと言わんばかりの勢いで話をし始めた。こうなれば彼はずっと自分の話をし続けるだろう。こういうところも斎藤春也には存在しない。何か一種緊張した空気があの男性との間には流れるのに、彼にはそれがない。

 彼のその話に適度に相槌をうちながら私は、久々に行った秋葉原がそこまで楽しくなかったということを考えていた。

 そうして、幾らかの食事をとって、お酒が多少入ったところで、私は言った。

「終電、大丈夫? 明日の予定に響かなければいいね」

 わざとだった。わざと、そういう風に言った。

 彼は動揺していた。

 何かを言い出さなければならない。けれど、言い出して幻滅されるようなことがあれば。そう思うと、言い出せない。

 私は彼が何を言いたいのかを理解していた。

「な、なあ。蓮花ちゃん」

「なんですか」

「……この後ってさ」

 私は言った。

「最低」

 本気で、蔑むようにそう言った。

「すまん」

 私は笑った。笑っていた。あまりに自然に、笑った。

「そういうの、野暮って言うんだよ」

 私達二人は会計を済ませ、店を出た。行く場所は決まっている。私が意地悪く接しただけだ。

「自分、こういう場所来るの初めてで……」

「大丈夫。私が分かってるから」

 私がそう答えた時、彼は一瞬だけ複雑な、なんと言いようもない表情をした。

 実際私にとって、こうした施設は勝手知ったるといったところで、全ての手続を私はこなした。

 湿ったい、どこかすえたにおいのする廊下を渡り、暗い部屋へと入っていく。

「失望した? 初めてじゃないから、って」

「そんなことは」

「ふうん、そっか」

 そう言って私は、彼の顎を触った。そこから伝うように首元、胸、腹と来て、そこに触る。

「ちょっと」

 彼はそう言った。私は言い返す。

「そういうこと以外に、何をするって言うんですか?」

 私は左手で彼の指と指とを絡め、右手で相手の頬をさわり、言った。

『ねえ、コマンダンテ』

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