四個めの、記憶の断片
同じ年の、秋の話。
夏休み明けに私は、近所の大型スーパーの中にできたアニメショップでグッズ類を買い漁っていた。考えてみれば、私が中学生だった頃についた『近所のとこ』という嘘はこの時に翻り、真となったのである。
私は幸せだった。私が一番好きだった作品もそれを全巻揃えることができたし、書店に並ぶ最新の書物にしても、今まではちらと立ち読みして、たったそれだけで諦めていた物々も、買うという可能性が視野に入るようになった。
そのようになってから一ヶ月経った、十月の頃。歳の離れた兄が無事、地元銀行からの内定を得たと話が出て、両親含む家族に祝賀の空気が漂い始めた。
数日のうちに家族全員。六人でお祝いをしよう、と話がなされた。近所のお寿司屋の出前や、スーパーのオードブル。酒類が並べ立てられ、兄はその中の主演として上座にすわる。この時の兄の様子は心底嬉しいという感じでもなく、何か居づらそうな、半ば困惑するような、そんな表情を浮かべていた。
今であればそうした兄の反応も、理解できるような気がしてくる。順当にそうでなければならない、という状況を達成した時に表れる感情とは、達成感でも感慨でも歓喜でもなく、ただ次に置かれた目標。一番近い位置にある目標地点に向かうための距離の目測をせねばならないという急かされる感覚であり、そうした一時の達成感のために、緊張を続けてきたその意識。労苦からの解放されるわけでは決してないのだ。
私と兄は、特別仲が良いわけではなかった。極端な嫌悪も生じはしないが、好意も生じはしない。歳の離れた兄とは話が噛み合うわけでもなく、ただ何か表面的な気遣いだけが互いの間を行き来している。しかし、こうした花の場。目の前に展開される絵図とは裏腹の、兄の居づらそうな表情を見、私は以前から抱えていた決心の開示をここでなすべきだという考えが巡り始めた。
私には勇気が必要だった。
そして意外にも、その言葉を発するための最後のひと押しをしてくれたのは、何気なく投ぜられた、恐らく本来何のことはない世間話の一部だったであろう、母の一言だった。
「菜摘はこれからどうするんだい。兄さんはしっかり、これからを決めたのよ。ねえ」
意を決し、私は言った。
「私、アニメの学校に行きたい」
その言葉の直後、花の場は一瞬で沈黙の渦中へと落とされた。
母は言った。
「はあ?」
これは母が何か考えを持って言ったものではなく、ただただ反射で、口にしたものだったのだろう。
父は青ざめている。このような場で言うことはないだろう、という言葉が暗に滲み出ている。
兄は何も言おうとしない。寧ろ、いずれはこうなっただろうというような、何か諦観のようなものさえ感じ取れるような、そんな、冷めた表情をしている。
この私の言葉にもっとも強く反応し、怒ったのは祖父だった。
「なつ。お前、何を考えているんだ」
その言葉から、祖父の叱責は始まった。
最初は落ち着いた語調から始められたこの批難は徐々に強い熱を帯びるようになり、後半には人として信じられないような言葉さえ引き出されることとなる。
これがあの、酒屋の店主が話していた人格者の姿なのか、と思った。外向きに出すその顔と、内向きに見せるその顔の温度差。そこから私は祖父だけではなく、実際の両親含む『大人』の家族にのみ生じる、社会的な鉄面皮の色味を見出した。
外に優しく、内に厳しく……という基本原則を私は理解していたが、そうした内に厳しいという側面。良かれと思って、という感情が、実理として必要と感じる以上の領域を超えて、その場限りで憎しみに転化する。外には、或る種の汚濁のような悪い感情の動作がさも存在しないかのように見せかけて、その実、内でこのような感情を処理する、そういう、大人らしい行為。内向きであれば言わなければならないという感情と、内向きであれば言ってもいいという感情の混同。その区別のつかない感じ。きっとそれは、大人になれば理解できるのだという言い訳すら用意されていて、こうして目の前に時間というクッションを置くことで全てを有耶無耶にするという決まりきった定理さえ見出し得る。
私は祖父のそうした一連の強い叱責をただ黙って、聞き続けた。目線は親や兄、祖母や祖父にそれぞれ行き、そのどこにも止め置かれなかった。
私にも計画はあった。
今考えればあまりに幼稚な作戦であったようにも思うが……私はそう家族に告げた時点で何かしらの強い叱責を受けるだろうということを理解、認識していた。その上で、誰かが怒り出したのであれば、その誰かの怒りに任せて、引き出せるだけの罵倒・叱責を絞り出そうと考えていた。私は、人が怒り出してから、その怒りを継続させるための燃料を焚べつづけるということの難しさを理解していた。私は、その誰かが怒ることで、他の親類の怒りさえも代弁させて、怒りそのものを燃やし尽くす……焦土戦術じみたこの幼稚な作戦は、私の目論見通りに成功を収めた。
祖父は怒りに身を任せ、たっぷり三十分は怒り続けた後に、息切れを紛らわすように残ったビールを一気に飲み、私を強くにらんだ。
祖母は言った。
「兄さんの晴れの場じゃないか」
その言葉に、両親が息を呑むのが分かる。相変わらず兄だけが、どこか白けたような顔をしていた。
「今日はもうお開きにしましょう」
祖母がただそう言うだけで、場は収まった。祖母が私の意図を読み取ったのか、年齢相応の老獪さを発揮したのかは定かではないが、どちらにせよ私はこの場で、家族の全員に自分の意志を伝えるという目的は達せたのである。
祖父母がその場を後にした後、両親は片付けを始める。私はそれを手伝おうとするが、両親がそれを制止した。この遠回しな拒絶こそが両親の答えであるということを私は理解した。
部屋に戻った私は、何かアニメをみたりするような気持ちにもなれず、自分自身の金で買ったライトノベルの続きを読んでいた。外からは秋の虫の鳴き声がする。
母が食器を洗う音が止まった頃に、私のところに兄が来た。兄は部屋に入るでもなく、何回か控えめにノックをした後に話を始める。
「菜摘。まだ寝てないか」
私は兄に聞こえるよう扉にまで近付き、言葉を返す。
「うん。寝てない」
「ちょっとだけ時間、もらっていいか」
「いいよ……悪いことしたのは、私だし」
兄は一瞬だけ、無言になった。
「……別に、責めにきたわけじゃねえのよ」
「そう。優しいね」
「やめろよ、そういうの……それよりさ。実際のところ、あれは勢いで言ったとか、そういうことじゃないのか?」
「うん……でなきゃ、言えないもん。分かってる、それぐらい」
「まあ、そうだよな。でもさ……まあ、分かるよ。気持ちは分かるよ。分かるけど……そういうことって、覚悟が必要じゃないか」
「うん」
「あるのか? 覚悟」
「あるよ」
私自身が驚くぐらい、その言葉は一切の淀みなくはじき出された。
兄は言った。
「じゃあ、いいよ……俺にはできなかったけど、きっと菜摘ならできるよ」
兄が私のことを菜摘としっかり呼んだのは、その時がはじめてだったと記憶している。
次の日。私が学校から帰ってくると、家には祖母と父と兄が居た。私はこれからその三人が、何の話をするのかについて既にある程度予測ができていた。
父は言った。
「菜摘。お前は本当にその……よう分からんのだけど、アニメのガッコに行きたいのか?」
「行きたい」
「金は、どうすんだ」
「貯める」
「専門学校だろ? 高いぞ」
「何をしてでも、貯める」
私がそう言った瞬間、兄がほんの少し眉をひそめたのが分かる。
私と家族との間に、沈黙が重く横たわった。外からは車のクラクションの音がする。より遠くでは救急車のサイレンが鳴っている。その一瞬、あまりに静かなので、私自身の心臓の鼓動音だけが強く耳元に聞こえ、私はこの音が家族にも聞こえているのではないかと疑問に思った。
そこで口を開いたのは、やはり祖母だった。祖母は言った。
「なっちゃん。私ね、じっちゃんに……許してやってもいいんじゃないかって話したのよ」
何を、とは聞かなかった。愚問だった。
「ほんとうに?」
私の口から突き出てきたその言葉もまた愚問のように思えたが、それでも言わざるを得なかった。
祖母は答えた。
「でもね、もし駄目だったら……まあ今は、駄目だったらなんて考えないだろうけどね。もし、もしよ。駄目だったら、もうあんたは大学なんか行きゃせんだろうから、看護学校にでも入ってもらうよ」
そこまで言って、祖母は一度茶を音もなくすすった。
「それ、約束できるかい」
「できる」
私が答えると祖母はまた一瞬、黙り込んだ。
「じゃあ……いいよ。学費は心配しなくてもいい」
「本当に?」
「嘘言ってどうすんのさ」
その言い方があまりにも母にそっくりだったので、私は祖母と母との間にある確固たる血縁の証拠を見せられたような気持ちになった。きっと私も、そう遠くない未来には、祖母や母のような女性になるのであろうという直感があった。
そうして、私が大きな覚悟を持って行った確証を得ない実験は、その途上に問題こそあれ、運良く成功裡に終わった。
しかし。
父が去った後、祖母がいったその一言が、私には忘れられなかった。
「兄さんが銀行員なっとらんかったら、絶対許さんかった」
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