序章(後)
薄暗い廊下。湿ったいエレベーター室。その様はどの地域に行っても同じ。そこには後ろめたい、外で大声で言いふらすことのできない、禁忌としての営為があると暗示している。
指定された部屋を開いた時、まだ中は暗い。暗中と静寂。冷蔵庫の稼働する音だけが何故かよく聞こえる。
「ウェルカムドリンク一杯サービスだって」
部屋に着くなりメニューをみて、本間敦はそう話す。彼はこの手のサービスが好きだ。
「お酒、何がある?」
「ビール、レモンのやつ、ワイン……」
「ワインって、どっち」
「へ。ああ、うん。赤白どっちも選べますって」
「……他は?」
「ウィスキー」
「なんでそれを先に言わないの」
「だってあれ、臭うやん、たたなくなる」
その答えは暗に、これから成されるそうした薄暗い、後ろめたい営為を暗示するものだった。彼はウィスキーの匂いが苦手で、キスの時にその匂いがするだけで萎えてしまう。
「それなら最初から聞かないで」
「そうはいうてもさあ。頼まんと、もったいないやん」
「じゃ、本間くんはどうするの」
「ビール」
「そういうことする前に、よくあんなの飲めるね……お腹、たぷんたぷんにならない?」
「ならん」
「あ、そう」
「で、何にすんの」
「ホットウーロン」
「何、結局酒じゃないの」
「お腹冷やすの、嫌だなって」
「そんなん、いつでも風呂入ればええやんか」
不躾な言い回し。悪気はまったくないのに、彼はこういうことをよく言う。お腹を冷やして下すのも、もう一度シャワーをして、髪の手入れをするのも私なのに、彼は平気でそう話す。
「じゃ、ホットのウーロンね……私、シャワー浴びてくるから」
おうよ。本間敦はそう答えて電話を入れる。私は彼から遠ざかるようにお風呂場へ行く。
服を脱ぐ。すれば、服で蒸らされた身体からにおいが立つ。この瞬間のにおいが私は嫌いだった。この瞬間、私が私という身体を持っているということが分かるからだ。
声だけなら。ダンスだけなら。それらさえ実現できれば他はいらない。生理も、腋毛も、汗も、いらない。私自身の人格さえ必要ないのかもしれない。必要なのは声。美しい顔。踊るたおやかな肉体。他に付随する、肉体が肉体たることの証は全て、消せるものであれば消し去りたいと思う。
考えてしまうのは、何故だろう。こんなことを考えたって憂鬱にしかなれない。それでも考えが止まらないのは、私がもう本間敦との行為に飽きているからだろう。そして何より、飽き果てているにも関わらず、そうした営為に従事する自己に対する、蔑むような嫌悪が、そこにはあるのだろう。
シャワールームに入る。
ここは比較的新しい施設のようで、自分で温度調整をする必要もなく、少しだけ流せばお湯が出てくる。
「うれしいな」
たまに、蛇口から出てくるその優しげな温度に感じ入って、泣いてしまうことがある。このお湯の暖かさというのは、ただたんに優しいというだけではなく、その優しさが無差別で分け隔てないところに良さがある。相手が誰であっても、例えそれが私であっても、お湯は優しい。
お湯で一通り身体を流す。先程まで感じていたあのにおいが消えて、湯気が視界を満たしていく。身体を洗って、それらが全て終わって、身体からシャンプーのにおいだけが立ち上がるあの瞬間が好きだ。こっちこそが本当の私だと、心の底から自信を持って言える。なのに、このあとに行われる営為はそれらを台無しにする。汗のにおい、それも普段の身体からは発せられることのない、独特な汗のにおいが身体に染み付く。この汗は行為の後に身体を洗っても少しの間、同じにおいがする。
身体を洗って、その髪を丁寧にまとめ上げているその途上で、本間敦は風呂場へと闖入する。
「あんまり勢いつけると、滑って頭ぶつけるよ」
「そうなったら救急車呼んでくれ。起きたらネットで病院の天井の写真撮って『見知らぬ天井』って書いたるわ」
「うわ、陳腐。ありきたり」
「あいつらにとってはそういうのがいいんや。自分のな、見識の範囲にある情報が出てきたら、それにボタンを押す。分かるよな、この意味。そういうことがあいつらには重要なんや」
熱っぽく語る本間敦。私はそれをじっとみる。彼はあれだけ熱く自分のやっていることを語っているのに、何故か私とは目を合わせようとはしない。
「さあ。さっとやって、さっと本題にいこう」
「髪は丁寧にやらなきゃ駄目なの。最近のカメラじゃ、毛先の乱れだって分かっちゃうんだから」
「カツラでええやん、最悪」
「私はこれでも、アイドル声優なんです」
私がそう返すと、本間敦は笑った。何か喜んでいるでも、悲しんでいるのでも、怒っているのでもない、何かを誤魔化すような、そんな笑い方だった。
ほんのちょっとしたじゃれ合いの後に、シャワーから上がる二人。ウェルカムドリンクを受け取り、それを飲む。本間敦はいつも、ジョッキのビールを一気に飲もうとして、それができずにむせたりするが、今日は半分だけ飲んで、何もなかった。
「なあ、菜摘」
「その呼び方は嫌だ、って言ったでしょう」
「じゃ、じゃあ。蓮花さん」
「なんですか」
「『プレコレ』のシュペちゃんの台詞、言ってもろうていい?」
「いいよ別に。何回言ったか、分かんないもん」
減るもんじゃない。そう口では言ったものの、実態は分からない。何かが減っているような、そんな気もしてくるが……やめられない。
『ねえ、コマンダンテ』
そう言った。何万回も発したその台詞。
『コマンダンテ、今日は晴れていますね……良い日です』
それが行為の合図だった。
下手くそな愛撫、避妊具をつけるのさえ未だに上手くならない。仕方がないので私が手伝えば、それは怒張して扱いづらくなる。
行為が始まる。この時、濡れていないと困る。幸い、私の身体は最低限、反応してくれている。
弾け出す嬌声は偽物。そう演技をする。感じる私、淫蕩な私を演技する。その間にも相手は必死に行為を続ける。
やがてそれも終わる。ぜえぜえと息をする彼の傍らでふと、本間敦の体力のなさと、過去に知り、今も知るあの斎藤春也の、無尽蔵とも思えるような体力を思い出す。
ベッドの上で私は、ケータイを弄る。彼はふらふらと立ち上がる。
「あれ? 雨、ふっとるなあ」
その一言から私は、一つの連想される言葉をつぶやく。
『雨の日はいつも、何かがあるの。そう……何か、ね』
「……なんかいったか?」
「別に」
そう言いながら私は、ベッドから上がり、冷蔵庫にあるレモン飲料を手にとって、飲む。
「ああ、聞いたことある思った。あれ、シュペちゃんの台詞やろ」
『沈めた船から声がするわ。イギリスの歌よ』
「ええキャラしとるよなあ、シュペちゃん。なんか陰があってさあ」
ほら、この絵。この絵好きなんよなあ……インターネットで流れてくる二次創作イラストを見せながら、本間敦はそう語る。
「ハマり役やなあ、と思う。本当に好きだ」
彼の言う好き、はきっと私に向けられている。『プレコレ』のシュペルエタンダールに、ではない。
けれど私は、このキャラクターを。『プレーン・コレクション』のシュペルエタンダールを愛していた。
彼女の、シュペルエタンダールの声優は私以外にあり得ない。そうした自負心があった。
端役なんて嫌だ。主人公をやりたい……そう思い続けていたし、それは今も変わらない。でも、この主人公とは遠くかけ離れた陰のある、精神の複雑さを持つキャラクター、シュペルエタンダールだけは別だった。
じゃあ、シュペちゃんは。
シュペちゃんは、こんなことをするの?
不器用な、上手くもない男と付き合って、セックスして、演技でよがり声をあげて。
そんなことはしない。そう言い切りたいのに、そう言い切れない。シュペルエタンダールというキャラクターの引力圏では、そのような営為さえ執り行われているのではないか、という疑念が拭えない。演者としての私が否定せよと命じ、かく言う私・山本菜摘がそれをさらに否定を否定しようとする。シュペちゃんはそんな子じゃない。シュペちゃんならそういうことをやりかねない……。
私は今、どこにいるのだろう。
声優・遠藤蓮花はスタジオに居る。イベント会場に居る。私の演じるキャラクター、シュペルエタンダールはゲームでいつでも出会うことができる。
では、私は?
私。静岡県富士宮生まれの、人間・山本菜摘はどこに居るのだろう……少しだけ考えて、結論が出る。私は、泥中にいる。皆がみるのは、私とそれに付随する、美しい営為。キャラクター、シュペルエタンダール。声優・遠藤蓮花。女、遠藤蓮花。そうした美しい営為のみえないところ……泥の中に、私は居る。
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