第25話 決意
風莉側から距離を詰めることは、今まで通りにあるのだが、会話する時にはぎこちなさが現れる。
樹としては、自分から風莉に話しかけることは、今までも滅多になかったので、いつも通りに受け身の姿勢でやり取りしていた……つもりだった。
いつからか、彼女の赤い瞳と目を合わせるのも、少し怯えるようになった。
それが3月の春休みになるまで続いた。
「おはようございます。樹さん」
目を開けると、見知った天井を背にして
「…………なんで?」
「お邪魔してます」
寝ぼけ眼を擦り、寝転がったまま周囲を見渡す。
間違いなく樹の部屋であるが、時計を見ると12時を過ぎていた。
休日でも平日でも変わらない時間に起きる樹にしては、珍しく深い眠りについていたようだ。
「昨日あのまま寝落ちしたのか」
一応昨晩の記憶は残ってはいるが、今はあまり思い出したくはなかった。
そんな樹の額の上に、そっと風莉の白い手が乗る。
突然の出来事に樹の肩がびくりと震えた。
「何してんの?」
「
「……別に大丈夫だよ」
「そうですか」
綺麗な細い指の感触が額に伝わると、妙なこそばゆさを感じ、改めてこれが夢ではないことを実感する。
ゆっくりと、名残り惜しそうに指先が離れる。
これ以上寝たままで対応するのは失礼なのもあるが、何より風莉に何をされるこわからないので、ひとまず起きることにする。
「……あー、とりあえず着替えるから1回外に……廊下は寒いから、リビングに行っててもらっていいか?」
「わかりました」
風莉は聞き分けよく部屋から出ると、樹は頭を掻いた。
ベッドから立ち上がり、箪笥から服を取り出して、ジャージから着替える。
1つ、ため息を吐いた。
まさか、昨晩なかなか眠れなかった原因の、その本人が目が覚めたら居るとは思わなかった。
「はあー……」
着替え終わると、時間差で恥ずかしさが込み上げてきて、箪笥に手をついて項垂れる。
春休みが終われば2年生になり、クラス替えがある。
風莉とは違うクラスになる可能性もあるが、それもそれでいいのではないかと思う自分と、やはり嫌だと思う自分が心の中にいた。
後者の思いが少しずつ強くなるのを感じ、恋という感情がここまで人を狂わせるのか、あるいは自分がそういう人間なだけなのか、人としての本性が暴かされたようだった。
そんな気持ち悪さから逃げるように、風莉からも距離を取ろうとしている。少なくとも、恋を自覚したあの日から、その姿勢は既に現れていた。
「あいつは、本当になんとも思ってないんだろうな」
いつも通り、感情の読み取れない顔で見つめてきていた。
この間まではそのポーカーフェイスも慣れたものだったが、今は少し怖くなる。
「言っててもしょうがないか」
頭を掻いて、リビングに向かおうとする。
しかし、部屋の扉を開けて、向かいの壁に寄りかかる形で、風莉は待っていた。
「風莉……ずっとここにいたのか」
「はい」
「いや、なんで……寒かっただろ」
「はい」
「『はい』って、とりあえず中で待っててくれ……俺は顔を洗って──」
「どうして私を避けるんですか?」
すれ違いざまに言われたその言葉に樹は足が止まった。
「それは……」
「……避けていることは否定しないんですね」
「…………部屋で待っててくれ、ちゃんと話すから」
「樹さん」
樹が立ち去ろうとすると、風莉は呼び止める。
振り向けないまま、言葉を待つと短い沈黙の後に弱々しい声が聞こえた。
「いえ……部屋で待ってます」
その言葉を聞いて、樹は階段を降りる。
顔を洗って部屋に戻る。別に意識したわけではないが、その間に家族の誰とも鉢合わせることなく、自分の部屋に戻った。
扉を開けて中に入ると、風莉が机の前に立っていた。
振り返った赤い瞳に見つめられ、息が詰まる度に、自分がどうしようもなく恋に落ちていることを自覚してしまう。
なんとかそれを表情に出さないように振る舞うが、それが以前と同じような接し方を出来てるかは定かではない。
「なにか変なものでも見つけたか?」
「いえ、少しぼっーとしてしまって」
「お前の方が熱でもあるんじゃないか?」
「樹さん」
「……わかってるよ。別に誤魔化そうとしてない」
樹はベッドに腰掛けると、深呼吸をして息を整える。
「座らないのか?」
「……少し、どうすればいいかわからなくて」
「え?」
「いえ、失礼します」
樹の言葉を聞いて風莉は床に座る。
以前は勝手にベッドに寝転がっていたのに、今は座ることも遠慮していた。
敬語なのはいつものことだが、何故か、それが今は落ち着かなかった。
距離があった。
手を伸ばせば届く距離なのに、手を伸ばすことが出来ない。
重苦しい空気に覆われていた。
(だとしても、何から……どう話すべきだ?)
風莉を避けてしまうのは、単純に風莉を好きになってしまったからだ。それが一方的な好意だと思いこんで、知られるのを怖がっている。
それを今、本人に言ってしまうのか。
今ここで恋を告白してしまって、風莉の方から避けられてしまったら、嫌われてしまったら、そう思うと言葉が出なかった。
言い出せずにいると、風莉の方から言葉が出た。
「樹さんは、私のことが嫌いになりましたか?」
「そ、そんなこと!」
慌てて顔を上げて否定すると、風莉と目が合う。
「やっと、目が合いましたね」
風莉は表情を変えなかったが、その『やっと』には今日以外のことも含まれているように思えた。
「嫌いじゃない……むしろ」
「むしろ?」
もう逃げられない。否、逃げることが許されない気がした。許せない気がした。
「風莉……」
「はい」
「俺は、お前のことが……」
風莉から目を背けて下を向いてしまうが、意を決して、思いの丈を打ち明けようとする。
その時だった。
「風莉ちゃん? 樹は起き──あっ……」
母の遥が部屋の扉を開けて覗いてきた。
風莉と樹の顔を見て、遥は刹那にして状況を理解──しきれずとも、明らかに間が悪いことを把握した。
「ご、ごめんねぇ……もうお昼だから風莉ちゃんも家で食べないかなー……とか、本当にごめんね……」
消え入るような声で、遥はそっと扉を閉じるが、もう手遅れな程に部屋の空気が抜けてしまって、樹も静かに頭を抱えた。
「うそだろ……」
母にはいつも感謝しているが、今日ばかりは少しだけ嫌いになりそうだった。
昼まで眠っていた身体は正直なようで、1階から登ってくる昼食の匂いに樹の腹が鳴った。
「樹さん。ひとまずご飯食べに行きましょう」
風莉は立ち上がって、部屋の扉に向かって歩き出す。
樹も立ち上がり、風莉の後ろについていこうとして──風莉の手を掴んで引き止めた。
「樹さん?」
少し驚いたように、風莉の目が開いた。
樹の目は今度こそ赤い瞳を捉えて離さなかった。
母の介入で出鼻は挫かれてたかもしれない。それでも、樹はやはり止まるわけにはいかなかった。
「……好きだ。風莉」
真っ直ぐに、ただ、真っ直ぐにその言葉を伝えることしか出来なかった。
「私も、ですよ」
「多分、風莉が思っているのとは違う」
「それはどういう」
「友達としてじゃなくて、異性として好きなんだ」
「そう、ですか」
風莉の反応はなんとも言えなかったが、それでも樹はもう後戻り出来なかった。
「だがら……もしお前がよかったら……つ、付き合って欲しい」
最後の言葉はたじろいで目を逸らしてしまったが、言うべきことは言った。
「はい。いいですよ」
「本当か!?」
風莉の答えはすぐに返ってきて、樹は顔を上げて風莉の顔を見る。
その顔はいつもと変わらないフラットな表情で、先程から感情が錯綜して百面相を繰り広げていた樹とは対照的だった。
「……本当か?」
「? 本当ですよ」
「そ、そうか……」
こんな状況でも変わらない風莉に呆れて、樹はジト目で疑ってしまう。
「付き合うってのは……つまり、そういうことだぞ?」
「別に『ご飯ですか?』とか『買い物ですか?』とか、そんな付き合うジョークで誤魔化すつもりはありませんよ」
「じゃあ、その……」
樹は頬を掻いて恥ずかしがりながら言う。
「恋人……ってことでいいんだよな?」
改めてはっきりと言葉にすると、背中が熱くなる。
何より、風莉が平然としていることがに、現実性を感じられなくて警戒してしまう。
「はい。そういうことになりますね」
あっさりと、風莉は認める。
ただ、その表情からは笑みが読み取れて、肯定的なことがわかると、樹は少し胸が軽くなった。
にやけそうになったが、ここは堪えて、紛らわしい風莉に八つ当たりする。
「お前、ほんと表情が読めなくて怖いわ」
「怖いですか?」
「ああ、生きた心地がしなかった」
「そうですか……樹さんには伝わってたと思いましたが」
「……確かにちゃんと顔を見てればわかったな」
目を逸らさずに見ていればわかる。それは今実感したし、それが出来なかったから最近は風莉が怖かったのだ。
「もう目を離さないで下さいね」
微笑みながら悪戯っぽい口調で、そんなことを言われる。
挑発的な態度に、樹は今までの失態を払拭するかのように正面から向き合う。
「望むところだ」
およそ恋人らしい会話とは言えないかもしれない。
それでも2人らしい会話ではあるだろう。
まずは改めて風莉と向き合えたことに安堵しつつ、樹の中にはまだ靄がかかっていることがあった。
「お腹が空きましたし、ご飯食べに行きますか」
「そうだな。そうす──」
そこで樹は言葉に詰まる。
「付き合ってることは隠したほうがいいか?」
「いいえ? 私は別に問題ありませんよ」
「まあ、そうだよな」
どうせ普段から噂されているのだから隠した所でバレるだろう。
だから言ってしまってもいいのだが……樹には思うところがあった。
「まあ、言いたくなったら言うことにするか」
「『言いたくなったら』ですか、それはどういう時なんでしょうか」
「言いたくなる時」
「それは……いえ、わかりました」
そんな曖昧な答えをしたのには理由があった。
風莉の口からは、まだ『好き』という言葉は聞いていない。
風莉の性格を考えるなら、恐らく自分から付き合ってることは言うだろう。
これはまだ一方的な恋かもしれない。樹にはそんな不安が確かにあった。
とはいえ、こちらからの好意をぶつけても否定されなかったことには安堵していた。
(なら、これからだろ)
風莉が今、どんな思いで付き合ってくれたのかはわからない。
本当に好きなのかもしれないし、ただ、同情しただけなのか、恋というものを理解していないだけかもしれない。
「行きましょう樹さん」
「ん、ああ」
返事をして、風莉の後ろをついていく。
彼女の背中は樹を起こしに来たときよりも──いつもよりも、機嫌が良さそうに見えた。
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