『からの渡し舟』

 底のない闇夜のなかから、男がぬうっ、と現れたので、私はいっしゅん肝を冷やしました。男は全身ずぶ濡れで、乱れた着物がずしりと水を含み、重く垂れています。私はすぐ舟客とわかりました。渡し舟へ乗るよう促すと、男は眠ったような挙措で、音もなく舟に乗り込みました。舟がかすかに揺れ、川面に波紋を広げます。

 竿を岸へと押し込むと、舟はぎこちなく動き出します。穏やかな川を割きつつ、渡し舟は向こう岸へ進んでゆきます。ちら、と男を見やると、血の気が失せた顔を伏せ、魂の抜けたようにぼうっとしていました。月光に照らされてみると、彼は思いの外ずっと若く、青年と呼び得るほどの顔貌です。なぜこんな青年が、と私は気になり始めてしまいました。私はいったん何かを考え出すと、答えが見つかるまで何事も手がつかない質なのです。私は意を決して、訊ねてみることにしました。

「お客さん、ずいぶんお若いようですね。失礼ですが、どうしてこんな所にいらしたんです。」

 すると青年が、蝸牛の如くゆっくりと顔をあげたのが、なんとなく気配で察知されました。数秒間か、それとも数十秒ほどのあいだ、あたりには渡し舟が水をかき分ける音と、ジー、ジー、と鳴く秋虫の声だけが響いていました。

 僕には想いを寄せるひとがあったんです、と青年が言いました。川流れに消えてしまいそうな、か細い声でした。青年が深刻な面持ちで語った事情というのは、ありふれた情死にすぎませんでした。私は、心底がっかりしました。そんな話、ここでは山のように溢れているのです。自分でもあんまり酷薄とわかってはいるのですが、彼の話に、私はすっかり興味を失ってしまいました。青年が言葉を詰まらせ、落涙さえするものですから、私は彼が滑稽でならなくなり、たまらずふき出してしまったのです。

 とつぜん、青年の言葉が途切れました。私の背を、つうっと汗が伝い落ちてゆくのを感じました。私が恐々と振り向くと、青年は私の方でなく、どうやら川上に気を取られているようでした。視線の先を追ってみると、そこには私と同じ、渡し舟が浮かんでいます。私とは正反対に、岸へ戻ってゆくようでした。舟には客もあるようです。一面の闇に映える、淡い紫の着物をまとった女でした。女は一点の曇りも無いかのように、向こう岸を真っ直ぐに見つめていました。

「キヌヨさん、待ってくれ! 僕をおいて行かないでくれ!」

 青年は声を荒らげ、身を乗り出し、女に向かって叫びます。しかし、女はまるで耳に入っていないかのように正面を向いたまま、澄ました面持ちでいるだけです。青年は女をこの手で捕まえんとばかりに乗り出して、繰り返し絶叫しました。私が押しとどめようとしても、いっこうに聞く耳を持たないのです。


 とぷん。


 青年のからだは、あっさりと闇のなかへ沈んでゆきました。渡し舟は左右に大きく傾きつつ、川面を激しく揺らめかせます。やがて、あたりは水を打ったような静謐に包まれました。女の乗った渡し舟が、滑るように遠ざかるのが見えます。空っぽの渡し舟は、ゆるやかな川の流れに乗って、虚しく進んでゆきました。

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