『寄宿舎・氷塊・鍵』
朝靄のような窓を指でなぞると、透明な道の最後尾から水滴が生まれて、自ずと新たな道をするすると引きつつ舞い落ちていき、木枠のなかへ消えていった。人差し指の腹はヒヤリと濡れていた。僕はスツールの上で膝立ちになり、雪が音も立てず落下していく様を眺めていた。暖炉から薪の燃えるパチパチという音が絶えず聞こえていて、窓硝子の上の手のひらに、雪の冷たさを感じていた。石塀に沿って植わった木々は丸裸で、どれも焦げ茶色の枝に混じり気のない白を乗せている。木々を見下ろすような門扉もまた白く染まっていたが、堅く閉ざされたままであることは変わらなかった。僕が視線を滑らせていくと、数えて六本目の木の根元に、やや不格好に傾いた雪だるまが佇んでいるのを見つけた。頭に被せられていたバケツは脱げてしまい、転がったバケツにも雪が薄く降り積もっている。僕は窓の把手に手をかけ、押し開けた。
刺すような冷気が部屋に雪崩れ込んできて、一瞬息が詰まる。視界一面に乳白色の幕が降り、寄宿舎のぐるりを囲う石塀の外には何も見渡せない。窓外からひとひらの雪が迷い込んできて、僕の手の甲へ落ちた。体温にじわりと溶け、すぐに輪郭を失って、一粒の水滴に帰する。顔を上げると、はらり、はらり、と、いくつもの雪片が舞っていた。僕は、そのまま部屋のなかに雪が降り積もり、寝台や机、カーペットを真白く染めてしまうところを思い浮かべていた。しかし、暖炉の火が、雪片の悉くを溶かしていってしまうのだった。
僕はスツールから降り、机の方へ向かった。椅子の背もたれに掛けられていた手袋を摘み上げて、かじかんだ手にはめる。見ると、外に面した窓枠には、四センチほどの雪が積もっていた。そこから半分をかき集めて、拳大の雪玉を作った。力いっぱい押し固めていると、白銀の鉱物のようにゴツゴツとした氷塊になっていた。氷の塊を片手に、机の下に押し込めていた革のトランクを引っ張り出す。手のひらにずしりとした重みを感じた。僕は振り返ることもせず、窓を開け放したまま部屋を出た。
階下へ降りると、どの部屋の扉も閉め切られており、廊下の端まで、シン、と澄んだ空気が張り詰めていた。だが、その方が却って好都合だった。僕は迷わず玄関口へと歩いてゆく。空っぽの花瓶や明かりの灯っていないキャンドルが、コンソールテーブルの上で暗い影を被っていた。鳶色に煌めく木立のようなコートラックには、大小さまざまなコートが吊り下げられている。雪玉をテーブルへ置いておいて、自分のコートを探す。ふと、雪玉の脇に、一本の黒ずんだ鍵が放り出されていることに気がついた。それは、門扉の鍵だった。コートの右ポケットに鍵を、左ポケットに雪玉を仕舞い、僕は影になったように玄関扉を閉めた。
先程よりも風雪は強さを増していた。風に吹かれた雪が顔や耳に突き刺さり、凍るような冷たさを覚える。僕はコートの襟をかき合わせ、足跡ひとつない深雪へ踏み入っていった。ザク、ザク、と柔らかい雪を踏み固め、時折足を取られそうになりながら、ぎこちなく歩く。門扉はすっかり雪に埋もれていた。手で擦るようにして雪を払い除けていくと、ようやく鍵穴が姿を現す。ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込むが、どこかで突っ掛かって動かない。力を込めて回転させると、今度はあっさり開いた。鍵を抜き、僕は墨色の把手をしっかと握り込んだ。門扉はびくともしなかった。トランクを置き、門扉を体で押しにかかる。
すると、目線の先に、子どもの上背ほどもある白い塊を見つけた。雪が積もって形を崩しているが、窓から見えた雪だるまだった。地面と一体になりつつあって、雪だるまだと言われてもすぐにはそれと判らない。いずれ誰からも忘れ去られ、静かに死んでいくのだろう、と僕は考えていた。路上の雪を押しのけて、人ひとりが通り抜けられるくらいの隙間ができる。トランクを持ち上げ、改めて寄宿舎を見渡してみると、ひとつだけ窓の開いた部屋がある。僕は、ポケットのなかの雪玉のことを思い出した。雪玉は未だ元の形を保っており、研磨されていない石英のようだ。手袋で雪玉をギュッと握りしめると、窓を目がけて思いきり放り投げた。雪玉は吹雪を鋭く切りつつ弧を描き、銀白色の海に沈んで見えなくなった。雪玉の行方を見届けると、僕は門扉に体を滑り込ませ、寄宿舎を出ていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます