詰め込む僕と足りない彼女

サトウ サコ

詰め込む僕と足りない彼女

  ネオンサインに塗りたくられた、ビルの一室。

  耳を劈くビート。

  部屋を埋め尽くす男女の、怒声、狂乱、卑猥な交わり。

  俺はひたすらに目を瞑っていた。ここは、俺の地獄だ。





 青山 景子を始めて見たのは、中学三年の始業式の時、だった気がする。彼女は特に印象に残らない人間だった。

 後々に知ったことだが、その頃の彼女は、合唱部に入り、委員会は図書委員に所属し、特に功績も残さなければ、表彰をされる様な事件も起こさなかったという。クラス内でも、ギャルでもオタクでも無い女の子達──彼女曰く“世界で一番詰まらない人種”──のグループに属していて、何のときめきも無い学校生活を過ごしたそうだ。

 俺の記憶の片隅にいる彼女も、それぐらいだった。濡れ羽色の、真っ直ぐで長い髪の毛が綺麗だったという姿しか、残っていない。


 そんな彼女と再会したのは、高校一年の五月だった。中学の頃の友達と入った、近所のカラオケ店で、俺が便所から出たら、そこに彼女が立っていた。

 俺は、男子便の隣に位置している女子便の扉を覗いて、鍵がかかっていないことを確認した。

「あの、女性用のトイレ、隣ですよ」

 教えてあげると彼女は、「久しぶり、藤岡君、私、私」と、自らの顔を指差して言った。

 焦げ茶色のアイラインで、大きく縁取られた目。紅梅色に染められた唇はぷっくりと光を反射していた。短く切り揃えられた髪の毛は、片方だけ耳に掛けられていて、控えめに輝く白いピアスを印象的に見せていた。

 すっかり大人の女性になってしまった彼女であったが、唯一、変わらないところがあった。

 濡れ羽色の、髪だ。


「青山さん? 」変わったね。

「ふふふ。藤岡君は、変わらないね」


 そう言って俺を見上げる彼女の、胸元の大きく開いた服の隙間から、桜色の下着が見えた。俺は彼女の言葉に後頭部を掻きながら、奥歯を軋ませた。



 彼女からお願いされて、連絡先を渡した。女の子から連絡先を聞かれたのは初めてだった。

 最初の内は逐一携帯電話を確認していた俺だが、その度に何の変化も無い待ち受け画面を見るのも次第に馬鹿らしくなり、遂には、彼女の事さえ忘れてしまっていた。


「藤岡今日暇? 」

「今日はバイトがある。どうした? 」

「橋井がさ、放課後、有志集めてボーリング大会するらしいんだけどさ」

「ああ、例のアレか。最下位チームが試合後に、参加者全員分の焼肉代奢るって、あのえげつないヤツだろ? 俺はパス。ボーリング下手だし、金も無いし」

「俺とチーム組めば良くね? 」

「だから今日はバイトあるんだって」

「そっか。じゃ、また誘うわ」

「おう。まあ、行かねえけど」


 昼休みの教室。俺は目の前に座る、クラスメイトの成瀬からの誘いを断った。

 成瀬は高校で知り合った男だ。特に席が前後だったという訳でもなかったこの男だが、高校に入学してすぐにアルバイトを始めたという共通点から、意気投合した。俺もこの男も、親が妙にケチな性格をしていて、自分で稼いだ金の中から交通費を出し、遊ぶ金も捻出している。

 それに比べて他の奴らときたら、労働の苦しみを知らないで、やれ小遣いが少ないやら、やれ新作のジュエリーが欲しいやら。俺達はそういう奴らを見ては、鼻で笑っていた。「全く、恵まれた奴らだな」と。俺達は、お前等よりずっと大人の世界にいるのだと。小さな優越感に浸っては、睡眠時間を蝕むばかりのアルバイトに、週に四日、二十時間、身を捧げるのであった。

 そんなこともあって俺は、橋井のその、“ボーリング大会”というのが、気に食わなかった。一方で、成瀬は橋井とは小学校時代からの仲らしく、「くだらない」と笑いながらも、毎度、趣味の悪い遊びに付き合っていた。


 

「てかさ、橋井って彼女どうしたの? 最近ボーリング行く頻度多くね? 」


 俺のさり気ない問いに、成瀬はコーヒー牛乳のパックに刺さったストローから口を離して、顔を近付けてきた。如何にも、重大な話をしようという雰囲気だった。


「望月 美悠だろ? あいつら別れたんだよ」

「別れた? なんていうか、あのふたり、痛々しいくらい熱々だったじゃんか」

「それが別れたんだよ。話によると、寝取られたんだと。三組の、えっと、誰だったかな。んで、橋井、ブチ切れたらしくってさ」中学から約四年間続いた恋の逃避行は、呆気なく撃沈ってワケ。

「まじか」


 顔を引いた成瀬に小声で感想を言うと、「望月、清楚っぽくて良いなって思ってたけど、とんだ糞ビッチだったな。女子からの評判も悪いんだと」成瀬は肩を竦め、「でもさ、男子の間では人気急上昇中」と、にやにやして付け加えた。

 俺は不快な感情を抱きながらも、「何でだよ」と、尋ねた。

 成瀬は待ってましたと言う様な態度で、ふんぞり返って答えた。


「頼んだらヤらせてくれんじゃねえかってさ」


 口の端を大きく引き上げ成瀬は、「俺でもイケると思う?」と前髪を撫で上げた。

 俺は机を蹴り上げたい衝動を、必死で食い止めた。


「成瀬はイケねえよ。顔に“短小”って書いてあるぜ」


 とだけ言った。

 俺の言葉に成瀬は満足そうに笑っていたが、俺が咥えたストローの先は、醜く歪んでいた。



 彼女が高校に進学していなかったことを知ったのは、それから暫くたってからだった。連絡を交換して一か月後、彼女から突然、デートのお誘いが来たのだ。

 デートの場所は例によって、ふたりが再会した、近所のカラオケ店だった。

 部屋をノックしてきた店員からそれぞれ飲み物を受け取り、扉が閉まると、彼女は俺の肩に擦り寄ってきた。「今日は来てくれてありがとう」だそうだ。

「来ないとでも思ったの?」と俺が聞くと彼女は、「だって、忙しいでしょう?」と、甘ったるい声で囁いた。そこで彼女が、学校に通っていないことを知ったのだ。


「青山さんは普段何してるの? バイトとか? 」


 俺が尋ねると、彼女はひっそり微笑んだ。


「景子って呼んでよ。もうトモダチなんだから。私の事より、藤岡君のこと、話そうよ。学校は楽しい? 」

「なら俺の事も、玲一って呼んでいいよ。俺の事聞いたって、詰まらないと思うよ。普通の、高校生だから」

「部活入ってる? 」

「入ってない。バイトあるし、帰宅部だよ」

「何のバイトをしてるの? 」

「コンビニ」

「楽しい? 」

「楽しくは無いね。大変だよ、毎日オーナーが五月蠅くってね。でも放課後にくだらないクラスメイトの遊びに付き合うよりは、有意義だと思ってる」

「ふふふ、面白い考え」

「景子は? バイトとかしてるの? 」

「オーナーさんはどんなこと言ってくるの? 仕事が鈍間だとか、そういうこと? 」

「違うけど。俺って、そんな鈍間に見える? 」

「ふふふ、どうだろう」


 彼女は頑なに自分の話をしたがらなかった。俺の事ばかり、根掘り葉掘り聞いてきて、俺が質問すると会話を逸らした。でも俺は深入りしようとは思わない。話したくない事情があるのなら、無理に聞き出す必要もない。俺もそこまでして、彼女のことを知りたいとは思えなかったからだ。

 今思えば、俺の本能が、彼女によってこれから落とられることとなる地獄の存在を、警告していたのかも知れない。


 会話の途切れた俺達のする事といったら、ひとつだけだった。

 自らズボンの釦を外した彼女は、俺に執拗に恥部を触らせようとしてきた。

 俺が拒むと膝の上に乗ってきた。

 唇を舌で舐め上げられ、ズルズルと口内を侵される。

 彼女は俺への愛撫を堪能しながら、脚の上で激しく腰を揺らした。

 官能の息を漏らしながら、ひとりで果てた。


「キス、下手だね。はじめて? 」

「いいや。今は、したくなかっただけ」

「意地っ張り」


 唇を俺の耳に沿わせてそう言った彼女は、喉の奥でくつくつと笑った。窓の外では、夏を告げる雨がパタパタと、景色を濡らしていた。


 俺のファーストキスの記憶。



 彼女の舌の感触が頭から離れない。ぬらっとしていて、意外に冷たくて、口の中で蠢く。


「まるで蛇だ」


 何度目を通しても意味を咀嚼できない本を閉じて、俺は浮遊する様にリビングを抜けトイレに入った。俺の他に誰も居ないのに鍵を掛けた。ズボンを下し、便器の中に、やり場の無い欲望をぶつけた。

 久し振りに出た。

 トイレットペーパーで左手のそれを拭き取った。その時だった。


「うっ」


 身体の底から込み上げてくる物があり俺は、そのまま全てを吐き出した。


「何してんのよ、あんたは! どうしていっつも汚すのよ! トイレの中に吐けって言ってるじゃない! どうしてできないのよ! 」


 お袋の喚き声が家中に散乱した。

 買い物袋をリビングに放り投げたお袋は、スーツも脱がずに、自らの後始末に追われる俺に近付くと、キンキンとヒステリーを起こした。

 「早く片付けてよ! 」と、怒鳴る母親に俺は、「今やってんじゃん」と、言い返したが、タイツを履いた足が頬に飛んできた。


「早くやれよ! 」


 お袋はそれだけ言うと、俺をゲロ塗れのトイレに突き飛ばし、扉を閉めた。

 リビングで冷蔵庫を開ける音が聞こえる。俺は作業に戻ろうとして、頬がズキズキするのに気が付いた。風呂に入った俺は鏡を見て、やっと赤く擦れているのに気が付いた。この日のシャワーはやけに沁みた。


 時間が経ってもお袋は不機嫌だった。夕飯の席に着く俺に舌打ちをし、商店街の肉屋で買ったコロッケを取り皿に落としながら、「乞食野郎」と呟いていた。俺が無視を決め込んでいると、遂に、女は我慢の限界がきたようだ。


「食うなよ! 出ていけ、出ていけ! 」

「突然なんだよ。近所に迷惑だから黙ってくんない? 」


 俺が味噌汁を啜りながら言うと、お袋は俺の茶碗を弾いた。カーペットの上で茶碗と味噌汁が混ざり合った。


「親に向かってその口の利き方は何だ! 乞食が! 」

「食いもんが勿体無い」カーペットも汚れるし。

「あたしの金で食ってるくせに! あたしの金で学校も通えてて、あたしの金で生活してんだろ! 」

「それがあんたの義務じゃないの? 放棄したいなら児相行って来いよ、すぐそこだぜ」


 冷たく突き放すと、お袋は、擦り傷ができた頬を、今度は平手で打った。そのままドタバタと家を飛び出して行った。

 何も痛く無いくせして、瞳いっぱいに涙を溜めて。



「へえ。お母さん、大変だねえ」

「うん、精神病なんだよ。いつも発狂してる」

「で、お母さん何処に行っちゃったの? 」

「知らない」きっと、男の所だと思う。


 俺のお袋には幾つもの、都合の良い宿があった。股を開けばタダで泊めてくれる場所だ。大好きなセックスもできて、大嫌いな俺の顔を見なくて済む場所。お袋にとっては、人生への疲れを癒してくれる、オアシスなのだろう。その代償として、死ぬ程の傷を残すとしても。

 俺はお袋を、嫌いではないのだ。ひたすらに憎いだけで。


 俺の孤独を見計らったかのように携帯電話を振動させたのは、他でもない、彼女だった。飄々とした彼女の態度が気に入らなかった俺は、彼女に母親の病気を話した。

 彼女に、「お前と違ってこっちは苦労しているのだ」ということを、教えてやりたかったのだ。こんな惨めな方法でしか、俺は彼女の上に立てないのだと、知った為だった。


「ねえ、今暇? 外に出れる? 」

「どうして」

「うちのパパはね、玲一のお母さんと逆なの。今家にね、女の人が、来てるんだけど」

「そう」

「声が五月蠅くってね、目が覚めちゃったんだよ。ふふふ、ねえ、聞いてみたい?玲一、AVでしか聞いたことないでしょう?」

「聞かない……」

 

 俺の返答も聞かないで、彼女は受話器を耳から外したらしい。女の発するはしたない声が、俺の鼓膜を震わせた。

 彼女はそのまま暫く、何も言わなかった。

 携帯電話のスピーカーは、苦しそうな女の喘ぎ声と、男の、暴力的な言葉を俺の耳に垂れ流した。


「もっと締めろ、もっと締めろ、ババア」


 破裂音が響く。その度に、はしたない女が叫ぶ。


「ああ、いい、いい! 」


 ふたりはそのまま果てたようだ。数秒後、乱れた呼吸音だけが、空間を支配していた。俺は本のページを繰りながら、その音に、耳を澄ませた。

 がさごそという音がして、聞きなれた彼女の声が聞こえた。


「ねえ、どうだった? 」

「何が」

「興奮しちゃった? 」

「別に」

「意地っ張り」


 彼女が甘ったるい声で囁いた。


「今何しているの? 」

「本読んでる」

「今から外出れる? 」


 俺は、ページを捲ろうとする手を、止めた。


「出れるよ」

「本当?それじゃあ、いつものカラオケ店の前で、待ち合わせね」

「うん」


「明日、学校大丈夫? 」

「明日はバイトも無いし、オールでいける」

「そ。なら良かった」


 夜の街で見る彼女は、より一層、卑猥に見えた。


「ズボン、履いてるの? 」

「履いてるよ。何で? 」

「見えないから。履いてないのかと思った」


 彼女は男物のシャツを着ていた。ホットパンツを履いていると主張していたが。


「まるで、売春婦みたいだな」


 伝えると、彼女は微笑んで、「触りたくなっちゃった? 」といつもの余裕で言ってきた。


「お前、まともな大人になんないよ」

「そうかな? 私、良いお母さんになりそうって、色んな人に言われるのにな」

「“孕ませるのに丁度良いビッチだ”って言いたいんだよ、そいつらは」

「何それ、そんな酷いこと言う人なんていないよ? 」

「逆。俺がお人好しなんだよ」

「ふふふ」

 

 彼女は笑って、俺の手に自分のを絡ませた。俺の甲を太腿に擦り付けさせている。

 

「ねえ、公園行こう」

「いいよ」


 俺たちは暗い、大人の街を歩きだした。

 初心な俺の心臓は高鳴るばかりだったが、彼女はどうだっただろうか。彼女は何度、この道を歩いたのだろうか。誰と。


 翌日俺は、学校を休んだ。



「どこ行ってたのよ」


 まだ空が白い明け方、リビングのテーブルに突っ伏していたお袋が俺に言った。尋ねたのではない。その表現の通り“言った”のだ。


「お前こそ、どこ行ってたんだよ」

「五月蠅い」

「言え」

「五月蠅い」


 俺はその女の茶色に染めた長い髪の毛を、静かに見つめた。


「お休み」

「ええ、お休みなさい」


 そう絞り出して母親は、細やかに泣き出した。肩を揺らして、息を殺して、女らしい、いやらしい、泣き声だった。

 俺はわざと、大きな音を立てて、扉を閉めた。



「なあなあなあなあ、藤岡、何で昨日来なかったんだよ」

「寝坊したんだよ」

「寝坊したからって来ないかねえ」


 朝、俺が席に着くと、早速成瀬が飛びついてきた。

 成瀬の話によると、俺が学校をサボったことは、クラス内でのトップニュースであったらしい。

 入学して二カ月。それぞれ個性も見え始めた時期ではあるものの、お痛をするには早すぎたのだ。

 大体は橋井みたいなボス猿が悪の手本を見せてから、俺ら取り巻きが倣うのが普通なのだが。俺はボスより先に、実行してしまった。運が悪ければ友人の編成も、クラスでの立ち位置も大きく変わってしまうところであったが、俺はどうやら無事だったらしい。

 その件に関して、この成瀬の存在が大きく関わっていることは確かだ。俺はこのお調子者で世渡り上手な男に、感謝するべきなのかも知れない。


「ビッグニュースがあったのによ」

「ビッグニュース? 」

「望月がさあ」

「また望月か。今度は何だよ」

「中退するらしい」

「は? 」

「いじめがすげえんだってさ」女子同士のは陰湿だからなあ、仕方ねえよなあ。

「んで、今登校してんの? 」

「してる訳ねえじゃん。不登校だよ、不登校」

「成瀬は何処でその話聞いたんだ? 橋井か? 」


 俺の問いににやけたのは成瀬だ。この男はチューブに入ったゼリーを吸いながら、人差し指で自らの耳朶を弾いた。


「風の噂よ」

「なんだそりゃ」

「情報通なんだなあ、俺は」

「敵に回したくねえな。成瀬は将来、情報屋になれよ」

「俺は良いパパになるのが夢」

「は、気持ち悪り」


 成瀬は、そう言った俺の肩を冗談交じりに殴った。くず入れに空になったチューブを捨てに歩き出したが、途中で橋井に呼び止められ、教室の外へと消えた。



 一緒に一夜を過ごしたあの日から、彼女からの催促は激しくなった。その度に俺は彼女の期待に応え続けた。


「へえ、玲一のママもなんだ。うちも」

「景子に手を上げるの? 」

「当たり前だよ。逆に、玲一の方が珍しくない?息子に手上げるなんて」

「そうか? 」

「そうだよ。女って生き物はね、どんなに気に食わなくたって男を愛しちゃうんだから。女は許せる生き物なんだよ。男と違ってね」

「俺だって、女の色々なことを許してきてる」

「本当に? だって玲一、私のこともママのことも、その望月って子のことも、軽蔑してるでしょう?」

「してない」

「してるよ」

「してない」

「してるよ。でもね、良いんだよ。男の子はそれで。だって愛するのは、女の役割なんだから。男はさ、何にも考えないで、胸張って生きていれば良いんだよ」


 そう言って彼女は、俺の瞼に吸い付いた。相変わらず、彼女の右手は自らの膣の中を行き来している。その熱い音が、夜の便所に反響する。


 公園内の、清掃員からも見捨てられたこの便所は、行き場の無い俺たちふたりの最高級ホテルだ。男女の境が無い、様式か和式かに区切られただけのふたつの個室は、塵と排出物と悪臭までサービスしてくる。最低最悪の、憩いの場。


「私のパパね、本当のパパじゃないんだ」


 激しく呼吸を刻みながら、彼女は俺に打ち明けた。


「私はね、ママの、連れ子で。でね、ママ、再婚から半年で、病気で死んじゃって。だからね、ママと、今のパパの間に、子供は生まれなかったんだよね」

「うん」

「それがね、私が中学二年の時。でね、それからパパは、変わったの」

「うん」

「私ね、三回、三回」

 

 ねえ、触って、と強請られ、俺は仕方なく、左手を差し出した。彼女は俺の指を口に含んで唾液を吐くと、その指を自らの恥部に侵入させた。柔らかい、熱い。

 彼女の本能が発する甘い香りが、便所の悪臭に交じり始めた。俺は吐き気を奥歯で食い止めた。


「ね、玲一、ね」

「何」

「私、良いお母さんに、成れると思う?」


 その瞬間、俺の指が、びくびくと締め付けられるのを感じた。

 初めて触れた、欲望の形。



「んでよお、その女優が最悪なわけだよ」

「顔が? 」

「いや、顔は良いんだよな。声よ、声。喘ぎ声がガン萎えなワケ」

「変だったのか? 」 

「違う違う。なんかこう、演技がかっててさ」

「ああ、そういうこと」

「そうそう」萎えね? そういうの。「俺はそれにばっか気が削がれて、ぜんっぜんでさ」

「他のに変えりゃ良かったじゃん」

「それがさ、顔が超タイプだったんだよなあ」そういう時、どうするか知ってっか?

「いいや」

「音量ゼロにすんのさ。脳内で音をさ、作るのよ」

「いいね。今度やろ」


 手を洗って、俺と成瀬は廊下に出た。

 成瀬が橋井から声を掛けられ、教室から出て行ったあの日。あの日以来、成瀬は何故か孤立していた。

 そのせいか、成瀬は公共の場でも、話題を選ばなくなった。


「てかさ、藤岡って、彼女いんの? 」

「いないよ」


 俺は即答した。頭には、彼女の顔が浮かんでいた。


「本当か? 」

「嘘吐いてどうすんだよ」

「藤岡ってさ、変な女に好かれそうだよな」


 成瀬に横目でそう言われて、俺の心臓がギュッと脈打った。


「変な女って? 」

「重たい女とか」でもさ「お姉さんとかにも、好かれそうだよなあ」

「お姉さん? 」

「そうそう。肉体が性欲で形成されてる感じの女よ」

「どんな女だ」

「でも藤岡、ピロートーク下手そうだよなあ」

「そういうお前はうまいのかよ」


 この男から何の枷が外されたのだろうか。最近はこういう話題ばかりだ。俺はその度に、彼女の声や歪んだ顔、体温を生々しく思い出して、辛い。



 彼女から夜の店への誘いを受けていたのは、その頃だ。


「ゲームセンター? 」

「そ。今度一緒に行かない? 」

「行かない。俺ゲーム下手くそだし」


 断ると、俺の指を咥え込んだままの彼女はクスクスと笑った。


「もしかしてだけど、玲一さ、何か勘違いしてない? 」

「勘違い? 」

「ゲームセンターって」隠語「皆こういうことしに来るの。最初は確かに仲良くカードゲームとかするんだけどね」それは最初だけ「後はヤりたい放題ヤるだけ」

「景子は行ったことあるの? 」

「うん。何回も」楽しいところだよ「私たちみたいな人が沢山いるの」


 心も体も淋しい人間。


 オアシス、ということか。


「どうする? 嫌ならひとりで行くけど」

「ううん。行く」


 俺はその夜初めて、彼女の前でズボンを下した。



「藤岡もさあ、気づいてると思うけど」


 不思議な前置きで話し始めた成瀬と、俺は学校近くのカラオケルームにいた。

 「特に歌いたいって訳じゃねえんだけど、カラオケ行きたいんだよね」というこの男の表情は、いつもと違っていた。俺は「今日はバイトじゃないから」と嘘を吐いた。たぶん成瀬は見抜いていたのだろう。「すまん」すまんと、繰り返した。


「最近、俺さあ、橋井たちから無視られてんじゃん? 」

「そうだね」

「聞いた? 」

「何を」

「その理由」

「特に」でもクラスの奴らは、お前とつるむの止めた方がいいって言ってる。


 成瀬が橋井に呼ばれたあの日以来、俺は橋井の周囲にいる人間たちから逐一忠告を食らっていた。「成瀬はやばい。信用しない方がいい」そう言うくせして、理由を聞いてもはぐらかすばかりのそいつらの言葉を、俺が聞くはずが無かった。


「俺だったんだよ」


 成瀬は唐突に言った。


「何が」

「望月寝取ったの」

「は? 」

「俺、橋井と付き合ってた望月とさ、ヤっちゃった」

「お前、三組の誰かっつってただろ」

「ごめん嘘ついてた」


 ごめん、成瀬の口調はそうは言っていなかった。


「望月からせがまれて断れんかった。橋井ほら、付き合い広いからさ、相手してくれなかったらしくって」股が寂しかったんだと。

「とんだ糞ビッチだな」

「だろ。その糞ビッチのこと孕ましちゃったんだよ」

「は? 」


 テレビ画面から流れる能天気な広告が、俺たちの空間を震わせた。

 耳障りだ。恐らく成瀬も同じ気持ちだったのだろう。立ち上がると、電源を落とした。


「今三ヶ月」

「産むのか」

「勿論」

「育てられんのか」

「られるだろ」でもさ、血って、争えないもんなんだな。


 成瀬の両親も、高校生の頃にこの男を宿している。


「記録更新って感じだよな。俺の親父たちは十八だったけど、俺なんて十五だぜ」

「学校はどうする」

「辞めようと思う。望月だけに背負わせる訳にいかねえだろ」

「親は何て言ってる」

「何とも」

「お前のじゃねえよ。望月の」

「ああ、あいつね」


 そこで俺は、彼女さえも歪んでいたんだということを知った。成瀬と望月、両者の間に流れるのは、深い深い川だ。底なしの、荒川。しかし俺はお前らと違う世界の人間なのだとは、言えなかった。俺の住む世界の方が、穢れていて、もっともっと深い。


「橋井は思い違いをしてるみたいだな」俺を真面だと思ってる。


 俺は成瀬に言った。成瀬は俺に親しみの笑みを見せた。


「たぶんそうだろ」藤岡は橋井みたいな綺麗な人種ではねえよな。

「お前とも違う」

「知ってる。お前は変な女に好かれそうだもん」

「いつ辞めんの」

「一学期終わったらすぐ」

「望月は? 」

「もう辞めてる」

「これからどうすんの」

「お前はどうすんの」


 答えられなかった。



 彼女に連れてこられたのは、夜なのに不快に明るい店内だった。ピンク色のネオンライトに塗りたくられた、ビルの一室。欲情から出る生臭い汗の臭いが充満している。


 成瀬、俺はお前を羨ましく思う。ここは、俺にとっての地獄だ。


「僕、いくつ? 」


 隣の女は俺の股間に手を置くと、にやにや醜い表情で話し掛けてきた。


「いくつに見えます」

「十六か十七かな」

「十五。あなたは」

「二十五。十個も違うね」

「萎えた? 」

「どうして? 」私は僕みたいな初心そうな男の子が好みなのに。

「俺には彼女がいるから」

「あの子? 」趣味悪いね「あの子知ってる。この店の常連だよ」毎回違う男侍らせては金巻き上げてる女「僕みたいな子には釣り合わないよ」

「俺、あの子から誘われてきたんだけど」

「そうなんだ」可哀想に。


 女はそう言うと、俺の股間から手を引いた。


「帰った方がいいよ」僕はここに来るには早すぎる「何も言わない、黙ってここから出て行った方がいい」

「始発はまだ先だよ」

「近くにカラオケ店があるよ。この店の裏」有名な売春通り「女抱きたいなら、道に立ってる子に声掛ければいい。日本語通じるかは怪しいけど。少なくとも」ここに僕の居場所はないよ。


 俺は彼女を見た。

 強力なネオンでも塗りつぶせない、暗い部屋の隅。彼女は多数の影に埋もれていた。口には煙草の様な、「ナニカ」を咥えている。白目を剝き、時々狂った雄叫びを上げる彼女の姿は、この世の物とは形容し難い。「醜さ」それに群がるハイエナだちは、彼女が落ちてゆくのを止めない。寧ろ、お釈迦様が最後に垂らしたご慈悲を求める罪人たちのように、彼女の白い肌に貪り付いていた。

 何が彼女をここまで陥れたのか。俺はこんな闇、知らない。

 忠告した女はいつの間にかいなくなった。


 俺が出口を見つめていると、突然、肩に手を置かれた。


「ねえ、ひとりですか」


 たどたどしい喋り方。


「あの、私もひとりなんですけど」


 俺と似た様な女の子が、そこに立っていた。

 着飾っているだけの、ちぐはぐな人間。


「一緒に出てくれませんか」

「いいよ」

「本当ですか」

「うん」俺も、ここにいたくない。


 無差別に噴出される欲望の塊。卑猥な取引。無意味な結果。

 俺たちはそんな世界から脱出した。


 そこは、俺たちみたいな人間を拒絶するような、清々しい朝日で輝いていた。


「じゃあ、私、これで」

「うん。気を付けて」


 閉ざされたドアの向こう、彼女たちは、夜の底で舞っている。


 後日知ったことだがその日、店は警察により検挙されたらしい。

 彼女の行先は、知らない。





【完】

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