第2話 ㈡
この日は、近鉄線下市口駅からバスに揺られて、大儀山の登山口にある同州温泉までやって来た。一時間半ほどバスに乗り、ビビも狭いショルダーバッグの中にいて、退屈していた。
七月の末、夏の盛りだったが、それ程暑くなく、爽やかな微風が吹き、気持ちがよかった。例によってコリー犬のランは、奈良県警の警部と一緒に目的地の同州温泉まで送ってもらっていた。ある目的でやって来ていたが、急ぐ旅ではなかったから、同州温泉で一泊した。
この日、大儀山の登山口を一番早く通過したのは、一人の男で、歳は四十を超えているように見えた。一見、東洋人風だが、日本人にみえないこともなかった。登り口には、女人禁制の立て看板がある。手には杖というより、木の棒を持っていた。脇目も降らずに、後ろを振り返ることもしない。何の目的で大儀山に登るのか、彼の風貌からは判断できず、今の所誰だか分からない。余りにも軽装で、そこいらの街角を歩いていてもおかしくない。
少年と龍作たちの十分くらい前には背の高い男が登って行った。この男も、登山にやって来たふうでなかった。彼の名前は、前川和典。三十三歳。みどりと赤のチェック柄の半袖のシャツを着て。藍色のジーパンという出で立ちだった。とても、これから登山をするような服装ではなかった。登山口でちょっと立ち止まり、深く吐息をし、空を見上げた。そして、ゆっくりと歩き足した。
そして、龍作たちの少し後に、二人の男が付いていた。
二人とも警視庁公安部の刑事である。
「前川は、なぜ、こんな場所を選んだのでしょうね?」
糸田警部補が吐き捨てるように言った。
もう一人の男は松川義男警部といい、三十五歳だった。
「さあ、俺にも分からんね。相手側が、ここを指定したのかもしれないな。それなりの理由があるのさ。そんなことは、どうでもいい。何処で接触するのか・・・目を離さないでいよう」
と、いった後、彼は胸を抑えた。
松川警部は、循環器科の医師から、不整脈に気を付けるようにと注意されていた。時々胸が締め付けられるような発作に襲われることがあった。
「はは・・・まだ気になさるようなことはありません。けっして無理をしないように・・・」
と、その医者に笑いながら、念を押されていた。
そういえば・・・松川の父が、彼が二十歳の時に心筋梗塞で亡くなっていた。そのことは、糸田は知らない。
(知らなくていい。また、知る必要もない)
松川は思う。
でも、糸田は・・・警部の時々見せる苦しそうな表情が気になるらしい。
「大丈夫・・・ですか?」
「何が・・・?」
松川は怪訝な眼をし、糸田を睨んだ。
「課長から、この命令が下った時・・・こんなことを言って何ですが、警部が一瞬嫌な表情をされたような気がしましたから・・・」
「・・・気にするな」
「は、はい」
「行こうか・・・」
「はい」
「前を行く男と犬と黒猫が気になるな。奇妙な組み合わせだな」
松川警部の顔が和む。
「俺は猫好きなんだが、あの黒猫の毛が輝いていて、美しすぎるな」
黄色味を帯びた松川の歯が口一杯に見えた。
「ええ、そうですね。今日大儀山に登山に来た観光客には、けっこういい登山日和りになるかも知れませんね」
糸田警部補がいう。だが、松川はそれには何も答えず歩いている。
(頂上まで・・・行くのか!)
それは、松川警部にも分からなかった。だが、彼はそれを覚悟していた。そこでしか、誰か分からないが接触する場所がない・・・筈である。それを考えると、彼は気が重くなった。
この時、前を歩いている男が急に振り返った。驚いて、二人とも止まった。犬も振り向いた。ほんの数秒だが、時間は止まった。
犬が二三歩戻り始めた。
「ラン・・・気にするな。あの二人の素性については、その素振りで想像は付く」
男の声に、犬は止まった。
ビビは少年の傍から離れない。余程気に入っているようだ。
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