第3話 休日にはドライブでも


 ひもじい……、彼女はリビングのソファーに横たわりながら親指を咥えて空腹を紛らわせていた。

 親からの仕送りをスマホゲームの課金に使って食費が無くなった、というわけではない。仕送りの金額が純粋に減ったのである。

 振り込まれた金額を見るなり即座に母親に電話した彼女だが、『パパのお給料が減ったの。文句はパパにどうぞ』と言われて切られた。大本の収入が減った関係で娘の仕送りに割ける金額も減ったらしい。

 文句はパパにと言われてもだ。実家に居た時から馬車馬のごとく働かされていたパパに文句を言えるほど親不孝者でもない。そもそも必要経費以外にお金など彼女は滅多に使わないから多少仕送りが減ったところで生活にいきなり支障が出る、というほどではないのだが、それでも地味に影響は出る。収入が減っても物価は上がるという世の全ての主婦が直面していそうな問題に彼女も直面していた。

 最近はもっぱら、庶民の味方である5玉100円、1食20円という驚異のコスパである冷凍うどんを食べて飢えをしのいでいる。解凍して麺つゆで食べるだけで美味しいのだから、世の中便利になったものである。とはいえ、1玉だけのうどんでサイドメニュー無し、というのは食べ盛りの彼女としてはお腹が減るのである。

 動かない、ということで消費するカロリーを最低限に抑えていると、テーブルに置いているスマホが震えた。ん? と目線だけで通知画面を確認すると彼からのメッセージだったので無視しようと思ったが、いや待て? お昼ご飯奢ってもらえるかもな、という下心で起き上がってメッセージを開いてみると、残念なことにお昼の誘いではなかったが、まぁ、似たような誘いかもしれない。最悪、お腹減ったー、とただをこねれば奢ってくれるだろう。

 新しいショッピングモールができたから行かない? という話らしい。今食費以外の嗜好品にお金を割く余裕など彼女には無いが、見るだけタダなので行こうかな、とも思ったが、いや待て、往復の交通費が怪しいな、と交通費を調べた後に交通系のアプリにチャージしてある金額を確認すると、微妙に足りないことが発覚した。一駅前で降りて歩いていけば平気っぽいが、計6キロくらい歩くことになりそうなので憂鬱である。

『交通費足りないんで行けません』、と返信したところすぐに、『大丈夫。交通費掛かんないから』と返信が来た。

 最初、交通費を出してくれる、という意味かと彼女は思ったが、その場合、『掛からない』という表現を果たしてするだろうか? 文字通りの意味だとすると、交通費の掛からない徒歩で行く気かもしれないと彼女は一抹の不安を覚えつつも出かける準備をすることに。徒歩で行く、とか言い出したら昼飯だけねだって帰ってくればいいのだ。



 結果として、徒歩で行く、ということにはならなかった。

 が、こうなるのであれば、徒歩の方がまだマシかもしれない、と彼女は憂鬱な気分を隠しきれない。

 連れて来られたのはレンタカーショップ。どうやら最近免許を取ったので車を運転したい、とのことだった。彼女は思った。死ぬなら一人で死んでくれ、と。

 いや、もちろんちゃんと筆記と実技の試験を合格して免許を取っているわけなのだから、運転して問題無いと言えば問題無いのだが、運転する権利があると、その車に乗りたい、というのはまた別の話である。誰しも初めは初心者、というのは分かっているが、免許取りたての人間の車の助手席に乗せられるのは中々恐怖である。しかも、運転席に座っているのが、自転車の運転さえ危なっかしいと思う人間なのだからなおさらである。

 初心者マークを車に貼って彼は運転席へと乗り込んでくる。免許取りたての人間らしく、車を細かくチェックしている。そういえば、初心者ドライバーの事故って意外に少ないんだっけかな、と彼女が教習所で習ったことを思い出して少し安心しようとした時、

「………………(どっちがブレーキでどっちがアクセルだっけな?)」

 おい。コイツ今凄い怖いこと言わなかったか? 運転を久しぶりにするペーパードライバーなら忘れてもまだ百歩譲って許さないこともないが、免許取りたての人間が何で分からなくなってるんだ。

 アクセル全開に踏み込んだ状態でエンジンを掛けられたら間違いなくどっかに突っ込んで夕方のニュースに載ってしまうので、

「面積広くて踏みやすい方がブレーキですよ」

「ああ、なるほど。あれ? 免許持ってるんだっけ?」

「持ってますよ。レンタカー乗ってまで運転する用事は無いので、運転するの実家に帰った時くらいですが」

「ああ、じゃあ先輩じゃん」

「そうですね。運転代わりましょうか?」

「大丈夫、大丈夫。助手席でゆっくり眠っていたまえよ」

 そのまま永眠することになりそうなので絶対嫌です、と言葉に出さずに彼女は曖昧に微笑む。助手席に乗ってこんな緊張したの初めてかもしれない。

 運転席に座っている人間がぎこちなく操作しているので、それを恐ろしい目で彼女が見ていると、突如車が動いて彼が叫んだ。

「げっ、やばっ、動いたっ!?」

 そりゃアクセル踏めば動くだろ、などと言っている余裕は彼女には無い。

「がふぅっ!?」

 初めて車に乗った人間がアクセルの踏み加減が分からずによくやる、急発進・急ブレーキ。それによってシートベルトの可動域限界まで前に身を投げ出された後、慣性の法則に従ってシートに後頭部を強打する彼女。

 ぐぅ……っ、としばらく悶絶した後、

「…………代わりましょうか?」

 恨めしそうに彼を見る彼女。半分くらいはもう怖いから運転代われ、って感じである。

「だ、大丈夫、大丈夫。…………多分」

 ああ、こんなことなら昨日の晩御飯、ステーキにすれば良かったな……、と下手すれば最後の晩餐がうどんになりかねない彼女は割と真剣に後悔した。



 誰だ? コイツに免許証を発行した奴は。今すぐに出てこい。そして責任持って助手席に乗れ。もしくはこの車に教習車のように助手席にブレーキとハンドルを付けてくれ。

「中央線はみ出てる! 中央線はみ出てるっ! 対向車にぶつかるぅっ!!」

「おおうっ!!」

「ハンドル切り過ぎ! ハンドル切り過ぎっ! ガードレールに激突するぅっ!!」

「ぬおうっ!!」

「どこ行くの? どこ行くのっ? そっち一方通行進入禁止っ!!」

「ぎえいっ!!」

 事故に遭っていないのは日ごろの行いのおかげなのではないか? と彼女が初詣以外に初めて神に真剣に感謝するほどに、事故に遭っていないのが不思議なレベルであった。初めての教官の同席無しでの公道での運転で緊張しているのは分からんでもないが、ちょっと免許発行を疑うレベルである。自分はコイツの運転に乗らないからって教官適当に合格を出したのではあるまいな?

「げっ、やばっ、黄色だっ!?」

「だから急ブレーキはうげふぅっ!?」

 もう何度目か分からない急ブレーキ。これ、後方に車が居ないからまだいいが、居たらトラブルになりかねない行為である。黄色信号で急ブレーキを掛けられるとは後ろの車も思っていない。下手すれば後ろの車にそのまま突っ込まれている。急ブレーキとクラクションはみだりに使ってはいけないと教習所で習わなかったのだろうか? おまけに急ブレーキを掛けた割には停止線の大分手前で止まっている。

 停止位置はともかく、車が止まったので少しは落ち着けるかと思ったが何故だろう? 胸の変な動悸が止まらない。吊り橋効果、という言葉があるが、あれ、絶対嘘だと思う。この体が必死に出していそうな命のSOSのような鼓動を恋と勘違いするのは無理があると思う。吊り橋よりも怖い目に合っている、というのはあるかもしれないが。

 小学生の時以来の車酔いでもしたのだろうか、いや、絶対何か別の要因だとは思うが、彼女は大分グロッキーである。ちょっと油断するとこの場で戻してしまいそうだが、エチケット袋なんか都合良く持っていないし、これが彼の車なら最悪シートにまき散らしてもいい気がしないでもないが、レンタカーのシートにまき散らすわけにもいかない。

 胃から混み上がって来るものを堪えるように、彼女が窓の外の景色でも見て落ち着こうとすると、窓のガラスにガッチガチに緊張して脂汗まみれになっていそうな彼が映った。不安だ……、運転手にあんな顔をされてはその助手席に座らなければいけない人間なんてもっと不安である……。

 ショッピングモールまでは大体1時間弱掛かる。この調子でこのまま生きて辿り着くことができるのだろうか? 彼女は一抹どころではない不安を覚えた。



 長旅(運転してからまだ15分)で運転手も助手席に乗っている人間もお疲れのため、コンビニに寄って一旦休憩を取ることにした。他の車が一台も停まっていないというこれ以上無いほど車を停めやすいシチュエーションにも関わらず、駐車場で無限切り返しを行い、その割には最終的にすんごい斜めって停車することになったが、まぁ他の駐車スペースに侵入しているわけではないからギリギリセーフだろう。

 彼女は車の外に出るとゆっくりとその場にしゃがみ込む。新鮮な空気を吸って、吐いてを繰り返して早まっている胸の鼓動と胃から込み上げて来ようとするものを落ち着かせる。彼が気を利かせてコンビニでお茶を買ってきてくれたのでありがたく貰ってお礼を言って飲む。奢ってもらっておいて、コーヒーが良かった、などと贅沢は言わない。今は不自然に乾いている口と喉を潤せれば何でもよい。口から胃へと正常な流れでものが入ったおかげか、摂理を無視して逆流しようとしていたものが落ち着いてきた。

 ふぅ……、と彼女は息を吐く。乱れていた呼吸と早まっていた鼓動も落ち着いてきた。どうにか駐車場でリバースという事態は免れたが(早くトイレに行けよ、と思うだろうか? 残念。気持ち悪すぎてトイレまで行く元気も無かったのである。店内でリバースしても問題だし)、この後またこの車に乗るのか、と思うと彼女は憂鬱だったのだが、

「…………?」

 お茶を渡してくれた彼がその場から動こうとしない。気持ち悪そうに座っていたのだから背中くらい擦ってほしいものだが、何もせずにその場で棒立ちをしていた。

 何だ? と思っていると彼は恐る恐る口を開く。

「あのぅ……」

「はい……?」

「免許、持ってるんだよね……?」

「持ってますね……」

「運転も、よくしてるんだっけ?」

「実家帰った時にたまに運転するくらいですね……」

「………………」

「………………」

「運転、変わってもらってもいいです……?」

「喜んで……」

 さほど車が好きでもない、身分証が欲しくて免許を取った彼女だったが、今日ほど自分で運転したいと思ったことはなかったかもしれない。

 彼は、全ての力を使い果たしました……、という感じで助手席でグッタリしているがよく言う。グッタリしたのはむしろこっちである。まぁ、一応無事故で辿り着いたことは褒めるか、感謝すべきかもしれないが、と思いながら彼女は運転席に座ってハンドルを握る。

 手汗凄いなこれ……、彼女はハンドルをハンカチで一通り拭くと、車をゆっくりと発進させる。斜めに止められているせいで大分出づらくはあるか、何回か切り返せば問題は無い。駐車場を出る時、左右に気を付けて車道に合流する。

 中央線? もちろん超えない。超えたら対向車と正面衝突するから。

 ガードレール? もちろんぶつからない。キープレフトである。

 進入禁止? もちろん進入しない。だって進入禁止なのだから。

 という感じで彼女が運転していると、

「………………運転上手いね?」

「普通だと思いますが?」

 最近の車はサポート機能も充実しているから、故意に危険な運転でもしない限り誰でも安全に運転できるものだと思っていたがそんなことはない。車とは便利ではあるが、一方で怖い乗り物でもあるのだ。ということを、良くか悪くか彼女は再認識したのだった。



 運転手が代わってからはスムーズなもので、渋滞に巻き込まれることもなく無事にショッピングモールに着き、買い物を終え(彼女は基本的に見るだけのつもりだったが、色々と後ろめたいことがあるらしく、彼が色々買ってくれた)、彼女だけトイレに寄ってから車に戻ってくると、彼は先に車に乗っていた。堂々と助手席に。

「何か普通に助手席に乗ってますが? お兄さん」

「井の中の蛙、大海を知る。僕にはまだ公道を走るのは早かったようだ」

 いや、免許持ってるんだから早くはないだろ、とは思ったが、正直、助手席に乗っているよりも大分ラクなので、彼女は運転席に乗って彼を送り届けることにした。

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