ドライブ・マイ・カ ー2022.2.1.16.
監督:浜口竜介
「『わたし』という閉鎖空間」
原作未読。
村上春樹の作品は「ねじまき鳥クロニクル」と「1Q84」が好きだ。
まずは、そこから感じ取れる村上節が映画にもにじみ出ていたように感じ、村上作品の映画化として違和感なかった。
それだけでも成功している作品ではないかと思っている。
ゆえに物語は一筋縄ではゆかない点が「大衆向け」とはいい辛く、
ここをどうとるかで評価、好き嫌いが分かれるに違いないと考える。
さて、他者を理解するためには、自身の中に深く潜らねばならない。
なぜなら他者の理解を試みる自身と音信不通ではどうしようもなく、十分に通じ合っていることが前提だからだ。
その「自身」を「愛車」「演劇」という閉じた空間に投影させた主人公は
そこにあらゆる人を出し入れし、自らもさらけ出してゆく。
だが最後、自身が閉じられていることを理解した主人公は、そうした空間からも開放される。
そうなるまでの葛藤の物語と観た。
はたして、いかに。
村上春樹の物語にちょくちょくあらわれる、
どこか知れない深い深い穴の中へ孤独と共に潜りゆき、
突き抜けたところに現れる原風景は象徴的で、
ふまえて、たどり着いたラストシーンにうまく再現されているのでは、と思った。
あの摩訶不思議、抽象的な文章を、と思えばやはり力作と讃えずにおられない。
また岡田さんの危うげな演技にも引き込まれる。
果たして物語を書く自分を自分は理解しているのだろうか。
たとえば、なぜ書くのか、そんな問いが常套句となっているように。
果たして「物語」も確実にひとつの閉鎖空間だと考える。
なら本作のように、突き抜けた向こう側に広がる景色とは何なのか想像せずにはおれない。
おそらく物語をつづることは劇中の「演劇」や「愛車」空間と同じで、自分の登場しない物語をつづりながら、書き手は自身についてを深めている。
抜けたその先に広がる景色はだから結末として、誰より書き手にとってのカタルシスを伴っており、カタルシスと昇華する限りは自分の皮を一枚、脱ぎ去った証しと考える。
つまり想像だにしていなかった。
そんな「おしまい」こそ誠実なものといえよう。
自分を越えた自分のひねり出す「おしまい」。
作中の主人公が目にしたような、還るべき場所。
予定調和を越えた、真実の場所。
純文でなくとも、エンタメだろうとなんだろうと、そういうものだと思っている。
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