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 お風呂から出てリビングに戻ると、窓の外には朝焼けが広がっていた。重たい雲の合間、陽の光が美しいグラデーションを創り出している。朝が来た——と、心の中で呟くと、心に安心感が湧いた。寝不足の頭も、お風呂に入り幾分かすっきりしている。


 壁際の大きな薄型テレビからは朝の情報番組が流れている。朝六時を告げる女子アナの声。カイリ君はリビングのガラステーブルの上に二台のパソコンを置き、テレビではなくパソコン画面を熱心に見ていた。


 ——意識をなくして倒れたままゲロゲロゲーって感じで。


 ラブちゃんに聞いた話を思い出す。ゲロゲロゲー。つまり、わたしは胃の中の物を吐き出して、この綺麗な部屋の床を汚してしまった。ラブちゃんはわたしをお風呂に運んだと言っていたから、その掃除はカイリ君がしてくれたのだろうか——。


 ——恥ずかしすぎる……。


「カイリ君、ごめんなさい。なんかまたご迷惑をかけたようで——」


 わたしの声に気づいたカイリ君は「あ」と、パソコンから顔をあげた。その顔はどこか疲れていて、幼く見える。ラブちゃんにカイリ君の本当の年齢——十九歳——を聞いたからかも知れない。


 冗談混じりの声で「ラブちゃんに襲われませんでしたか?」とカイリ君に尋ねられ、すかさず「もちろん!」と答える。


 別になにもなかった。ただ、裸で一緒にお風呂に入っただけ——。だけなのに、気恥ずかしい気持ちが湧き上がるのは、ラブちゃんの何かがわたしの腰にさわさわと触れていたから——。


「なにも、別に、なんともなかったよ〜」と、変な明るさで取り繕うように付け足すと、背後からラブちゃんがわたしに飛びつき「女同士、裸の付き合いで親睦を深めたわよね〜!」と大袈裟に言った。


「あは、ははは。そういうことかな……?」

「それにしても貧弱な——」


「ストーップ!」とラブちゃんを制し、それは言わなくていいことだと首を振る。それを見てカイリ君は「兎にも角にも、真矢ちゃんが普通に戻って良かったです」と笑った。


「お騒がせしました」とカイリ君に頭を下げる。その後で、カイリ君に近寄って腰を下ろした。頭にタオルを巻きつけたラブちゃんはソファに腰を下ろし、お顔のメンテナンスを開始する。特大の化粧ポーチを開け、高そうな化粧水を手に取るとパタパタ顔に叩く。違う種類を何本か念入りに付けた後、ピリッと銀色のパックを破り、白いパックを顔に貼った。わたしの視線に気付いたラブちゃんは「なによ」とこちらを向いた。


「あんたもちゃんとやらなきゃ、アラサーなんだから」

「はいはい。ラブちゃんもアラサーでしょ」

「アラ、そうね。だから言ってんのよ?」

「分かった分かった」


「で?」と、カイリ君の方を向く。テーブルの上には二台のノートパソコン。一台はゆららさん——中嶋さんの娘、美咲さん——のパソコンで、もう一台はカイリ君の物。「何か見つかった?」と聞くとカイリ君は「全然」と首を横に振った。


「人形の購入履歴以外、あまり成果がありません」

「そっか——」

「でも思いついたことがあります」


「なに?」とカイリ君の顔を見る。カイリ君は自分のノートパソコンを操作して登録している小説サイトを立ち上げ、「真矢ちゃんのアカウントでログインしてみてください」と言った。


「え? カイリ君の百鬼花入なぎりかいりでログインすればいいじゃん?」

「でも真矢ちゃんはマヤ魔界として、ゆららさんとコメントのやりとりしていたんですよね?」

「うん。そうだけど——」

「僕はしてないので」


「え? そうだっけ?」と記憶を辿る。カイリ君のアカウント——百鬼花入なぎりかいり——通称花さんは、わたしと同じようにゆららさんの書いた『公衆電話の太郎くん』をフォローしていた。でも、そういえば花さんのコメントをゆららさんのコメント欄で読んだ記憶はない。


 ——というか、人の書いたコメントまであんま読んだことなかったしな。


「分かった」と、カイリ君のノートパソコンから自分のアカウントにログインした。久しぶりに見る自分の編集ページ。右上の小さなベルマークには小さな赤い丸が付いている。きっと誰かが新作を出したとか、過去のお葬式エッセイにコメントが入ったとか、そういう通知が来ている。


「なんか、すごく久しぶりで——。ちょっと見てもいい?」

「どうぞ、もちろん」

「ありがと。えっと通知が——」


 小さなベルマークをクリックすると、ずらっと縦に横書きの升目が並んだ。水色の升は既読していない通知。マウスをずっと動かしてもなかなか水色は終わらない。


「すごい通知の数。今はコンテスト期間中だしね。そっか、そういえばもう一ヶ月以上ログインしてなかったかも」


 今月に入ってから女子高生のお葬式が立て続けにあって、とてもお葬式エッセイを書く気になれなかった。それに昨年の鈴木一家惨殺事件のお葬式の後からは、余程感動的なエピソードがない限り、更新していない。


「どうかしましたか?」

「ううん、別に——。で、ゆららさんのコメントだよね? それって一年以上前になるよね。てことはえっと、その頃のエッセイのページを見ればいいのかな? というか、アカウントが消えた人のコメントって残ってるかな……?」

「分かりません。他の小説サイトは残ってるものもありましたけど。このサイトは消えるタイプかどうか。とりあえず見てみてください」


「分かった」と過去のエッセイのコメント欄を確認する。でも——。


「ダメだ。やっぱり消えてるよ」

「そうでしたか」

「うん。あ、でもちょっと待って」


 キリンのアカウントで京子が書いている子育てエッセイ。その中に、近況ノートのコメントやり取りを記録して書いているものがあったはず——。


「キリン、キリン……。あった。これだ。それでえっと——」


 一年前の子育てエッセイ。その中にある『近況カフェでおしゃべり冬の陣』のエピソード。確かここにゆららさんのコメントがコピペしてあった気がする。


「これは?」

「これね、京子の子育てエッセイなんだけど、あいつシーズン毎に一回、こうやって近況ノートを使って『近況カフェ』っていうのやってるんだよね」

「近況カフェ?」

「そうそう。コメントのタイムラグが三分くらいあるけどね、チャットみたいにリアルタイムでやりとりできて——って、あれ? その近況カフェに花さんいつも参加してたことない?」


「え?」と一瞬カイリ君が固まる。「そうだったかな」と白々しい声で言うのを聞いてピンと来た。


「カイリ君、本当に百鬼花入?」

「そうですよ」

「本当に?」

「はい——」


「それ、花ちゃんが書いてたんでしょ?」ソファからラブちゃんが会話に参加する。パックを貼り付け真っ白な顔のラブちゃんは「ごめん、花ちゃんのこと話しちゃったから」とカイリ君に向かって吐き捨てた。


 ——あれ、ラブちゃんなんか言い方がきつい?


 わたしの横でしばし沈黙したあと、「ふう」とカイリ君が息を吐く。


「そうです。姉さんが百鬼花入なぎりかいりです」


「やっぱり」と言った瞬間、花さんとのコメントやり取りが一気にフラッシュバックした。丁寧なコメント、『お身体ご自愛くださいね』と最後に必ず労いの言葉を書いてくれた人。『大変なお仕事ですが、素晴らしいお仕事だと思いました』とコメントをいただいたこともある。次から次へといただいたコメントを思い出す。花さんは、お葬式エッセイを読んだ時は毎回コメントをくれる人だった。


 頂いたコメントの数々——。

 優しい言葉の数々——。


 思い出せば出すほどに、文字だけの繋がりだった花さんがわたしの中でどんどん形を成していく。鼻の奥がつんと痛み始め、じわじわと熱い刺激が目頭に移動した。


「花さんが、カイリ君のお姉さん……?」

「そうです」

「花さんは、九月に亡くなっていたの?」

「はい……」


「ごめん」と顔を手で覆う。カイリ君の大事な人は、全然知らない人じゃなかった。何度もコメントでやり取りした、仲良しの作家さんだった。お花の写真を近況ノートに載せて、花言葉と共に美しい言葉を紡ぐ人だった。


「わたし、全然知らなくて——。ごめん。花さんといままでコメントのやりとりしてたのに、そんな、亡くなってただなんて思わなくて。わたし——」

「いえ、ネット上の繋がりなんて、普通は分からないですし。でも、ありがとうございます。姉さんのために泣いてくれて——」


「本当よ全く」ラブちゃんが割り込む。ラブちゃんは語気を強めてカイリ君を叱る。


「なんで大事なこと言わないの? 大人ぶっちゃって。カイ君のことは大事なところに毛が生える前から知ってるのよ、あたし。それなのに、花ちゃんがどうして亡くなったのか言わないなんて。事故だなんて嘘ついて」

「だって、姉さんの知り合いには、姉さんが誰かに恨みを買うような人だったと思われたくなくて——」

「ばっかみたい! この世界生きてりゃ妬み僻みなんてザラにあるわよ! それも目立つ人ほど妬まれる。花ちゃんが悪いんじゃなくて、出る杭打とうとする輩が多いのよ。特にこの日本って国はね、成功者に拍手を送るんじゃなく、成功者を妬んで重箱の隅を突き始める。そういう人が日本人には多いんだって。一般論だけどね。だから花ちゃんはそういう実力のないくだらないやつの被害に遭ったのよ。そういうくだらない奴ほど、変な噂を信じるし、匿名でバッシングして人を陥れようとするのよ。きっと花ちゃんを恨んだ奴もろくな死に方してないよ。あたしがそれを保証するね!」


 ラブちゃんの言葉に猛烈に共感する。わたしも同じことを思ったことがある。自分では書かないくせに、人が書いた作品にアンチコメントを送る輩。それで落ち込んでいた作家友達に、『気にしないでブロックすればいいよ』とコメントを送ったこともある。


「それで——」と、ラブちゃんは白いパックを顔に貼り付けたまま煙草を咥え火をつけた。


「言いたいこと言ってスッキリしたし。メンテナンスが終わったら早速動き出すよ」


「「動き出す?」」カイリくんと声がかぶり顔を見合わせる。ふう〜と長い煙を吐き出してラブちゃんは言った。


「八時にトシちゃんが迎えに来るから皆んなで人形の家に向かうのよ」

「え? でも棚橋さん今日は仕事って——」

「ふっ。カイ君あたしを誰だと思ってるの?」


「これを見ろ!」と見せられたラブちゃんのスマホ。LINEのメッセージ画面にはトシちゃん——刑事の棚橋さん——との、なんだかラブラブなやり取りが何通か映し出されていた。「うわぁ」とつい声が出る。ハートマークがいっぱいのメッセージ、その最後はこう締め括られていた。


《明日の朝八時にお迎え。御意! 自分、ラブちゃんの為ならどこへでも飛んで行きます!》



 


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