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 ——温かい……。


 ゆらゆらと身体が浮遊する。

 ぴちゃんぴちゃん。

 ぴちゃんぴちゃん。

 これは、水の音——?

 水分量の多い空気が肺に入り込む。


 ——ここは……どこ……?


 わたしの髪を誰かが撫でている。優しく、大きな手が、わたしの髪を撫でている。背中にあたる柔らかい感触。ふにゃふにゃ揺れる物体が腰に触れては離れてを繰り返している——。


 ——ここはどこ……? この感触は……


 ぴちゃんと水滴が鼻先に落ちる。

 はっと意識を取り戻し目を開けた。

 刹那。

 視界に飛び込む白い泡と、耳元で聞こえる低音ボイス——。


「起きた?」


「え?!」と、声のする方を振り返り、脳が舜座に理解した。広いバスタブ。白い泡。フローラルな甘い香り。背後には、頭にバスタオルをぐるぐる巻いた裸のラブちゃんの姿——。


「やっ、なになに?! どうしてこうなってるの?! あ、い、いやっ、へんたい——」


 弾かれるように離れ立ち上がる。

 でも——。

 肌を流れ落ちる白い泡。

 落ちてゆくほど見える自分の裸体。

 腕で身体を抱き「見ないでぇ」とバスタブに潜った。


「ばっかね〜、見たくないわよ、そんな貧弱な胸。それになによ。ゲロまみれのあんたを洗ってあげたのにその態度は!」

「げ、ゲロまみれ……」


 ——そういえば、気持ち悪くて限界で、それで意識がそこで消えて……。


「えええっ?! 洗ってくれたの?!」

「そうよ。カイ君は男だし、あんたも嫌でしょ?」

「い……や……。いやいや、ラブちゃんも男でしょ?!」

「ばっかねぇ〜。あたしは性別上は女よ!」

「お、女……」


 生物学上は女と言われ、頭が混乱する。


 ——それはどういう意味で? ニューハーフだからということ? それとも心がってこと?!


 首を捻りながら泡の中に顔を埋めると、ラブちゃんは「ばっかね」と笑った。


「自意識過剰なんだから。ほら、こっちおいで。髪の毛まだ汚れてるよ」

「いや……自分で洗うから……、大丈夫……」

「いいからおいでって!」

「きゃっ」


 腕を引っ張られ思わず声が出る。ラブちゃんの胸に背中が吸い込まれ、ぴったり密着すると何故か安心感が湧いた。


 ——いや、安心感って。


「大体あんたのその貧弱な身体。発情なんて絶対しないから大丈夫よ〜」

「なっ、しっ、失礼な……」

「本当よ。それにこうして身を清めて少しでも憑物が取れたらいいじゃない」

「つ……きもの……」


 ぶるぶると身体を震わせて、また泡に顔を半分埋めた。バスタブに泡がいっぱいで身体を隠せるのは有難い。背中に柔らかい感触を感じながら、恐る恐るラブちゃんに尋ねる。


「わたし、どうなったの……?」

「穢れをゲロと一緒に吐き出したって感じかな〜」

「げ、ゲロと一緒に……」

「そうそう。意識をなくして倒れたままゲロゲロゲーって感じで。でもダメだね」

「ダメ……?」

「そう。一時的な応急処置。あんたの中に入り込んだ、カイ君曰く恐怖ウィルス。その大元を絶たなきゃ何度でも同じような目に会うと思う」

「同じような……」

「そうだね。間違いなく」


 適温の湯船が一気に冷めていく。また、同じ目に遭う。その発言に身構えた。ラブちゃんに身体を洗われたことよりも、また同じ目に合うと言われたことの方がショックで、気が滅入る。また同じ目——、夢か現実か分からなくなるあの感覚と恐怖。また、得体の知れないモノがやって来る——。


「ほらほら。ちゃんと最後まで話を聞いて」

「うん……」

「対処法は多分ある。あんた次第だけどね」

「対処法……? わたし次第って?」

「あんたの目的を果たすことかな」

「わたしの目的?」

「そう。あんた『ゲイバー シンデレラ』の個室で話したときに言ってたじゃない。娘を探してくれって頼まれたんでしょ?」


 ——そうだ。


 ラブちゃんに言われ思い出す。わたしは中嶋さんに娘を探してほしいと頼まれて、東京までやって来た。中嶋さんはもう一年も娘さんの帰りを待っている。


 ——あのテレビのない薄暗い部屋で、ただ一人で——。


 ラブちゃんの問い掛けに「うん」と短く答えた。ラブちゃんはわたしの髪をゆっくり撫でながら、話を続ける。


「それをなんとかした後で、あたしがあんたの記憶を消してあげる」


 ——記憶を消す。


 思いもよらなかった言葉で思わず振り返り「記憶を?」と尋ねる。ラブちゃんは「こっち向かなくていいから、そのまま聞きな!」と、わたしの顔をグイッと押して元に戻した。


「あんたの頭の中に入り込んでる恐怖ウィルスを完全に取り除くにはそれしかないよ。だからその探している美咲さんだっけ? その娘を見つけ出して、あんたが目的を達成したら、わたしがあんたからこの変な都市伝説の記憶を消す」

「都市伝説の記憶を消す——」

「そう。この件に関する全ての記憶をね」


 ——全ての記憶……。


 急に寂しさが込み上げ、「それはつまり、カイリ君やラブちゃんのことも忘れちゃうってこと?」と、静かに聞いた。


「そうなるよね〜。なになに、寂しいの?」ラブちゃんはわたしの髪の毛をぐしゃっと手で揉む。「そんなことは」と反射的に言葉が出た。でも——。


 ——そんなことはある。


 この胸に湧き上がった寂しさは本物。カイリ君に巻き込まれ、ここまで来た。夢の中に入り込まれ、怖い思いもした。美琴ちゃんの死顔をいつまでも思い出し、恐怖に心が支配される。手放したい恐怖。


 でも——。


「それしかないんだよ——、ごめんね」


 ラブちゃんが耳元で優しく囁き心が震えた。胸がさらにきゅッと縮こまるのが分かる。記憶を消す。それはやっぱり、全てのことを忘れるということ。


 ——確かに恐怖ウィルスは消してしまいたいよ、消したいけど……。カイリ君やラブちゃんだけじゃない。美琴ちゃんのことも、中嶋さんのことも消えてしまうということだよね……。それって、わたしの中には最初から存在していなかったことになる……。


 名前のない感情。わたしの気持ちが読めたのか、ラブちゃんは背後からそっとわたしを抱きしめた。もう一度「それしか手はない」と囁かれ、押し寄せる切なさに反応して、身体がびくんと反応する。


「この案件わたしには手に負えないかもしれない。そもそもあたしは、自分で修行して取得したできる範囲のことしかできない。アニメに出てくるような能力者でもなんでもないんだよね。でも関わった以上、全力で対応するから。それにね、花ちゃんはあたしの大事な友達だったんだ」


「花ちゃん?」と聞き返す。


「花ちゃんはカイ君の十歳年上のお姉さんで、あたしの大事な友達。花ちゃんもその公衆電話の太郎くんに殺されたんだって、さっき、カイ君から聞いた。あの子、そんな大事なこと言わないから知らなかった。花ちゃんが亡くなったのは事故だって聞いてたし」


 ——カイリ君の被害に遭った大事な人って、お姉さんだったんだ……。






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