第230話 奴隷、フィーエルを取り戻す

 王宮のテラスに立ち、辺りを見回す。

 先日、確かにこの場に巨大で禍々しい魔力が現れたはずなのだ。

 俺が到着した時には、フィーエルとアイネスが立っていただけだったが。


「この場所で何があったのか……」


 二人の様子は声をかけられるようなものではなく、咄嗟に姿を隠した俺には気づいた気配はなかった。

 あれからフィーエルが部屋に引きこもり、アイネスもそれにつきっきりとなっている。

 あの時、俺が姿を隠さず出ていれば、何かわかったのかもしれない。


「今更言っても遅いか」


 自嘲気味な言葉に、自然と肩の力が抜け、笑みがこぼれてしまう。

 魔力の質から考えても、厄災の誰かであるのは確実。

 しかし、問題の本質はそこではない。

 何をするために、なぜフィーエルたちの前に現れたのかだ。


「フィーエルたちに危害を加えた形跡はない。俺ではなく、フィーエルに接触する必要があったということか?」


 そもそも、どうやってフィーエルの位置を特定できたのか。

 奴らと関係あるもの、あの薬で位置を把握していたとすれば、あの薬自体に何か細工をしておいたのかもしれない。

 あの薬を回収でもしたのだろうか?

 だとすれば、フィーエルが部屋に引きこもるのは少し引っかかる。

 薬に関することで何か言われたのか?


「所詮はただの推測にすぎないか」


 いくら考えても、こればかりは想像の域を出ない。

 直接話せればいいのだろうが、今のフィーエルは俺の言葉など聞くことはないだろう。

 せめてアイネスが出てきてくれればいいんだが。


 テラスから見える山脈にはまだ積雪があり、まだ暫くは融けそうにはない。

 あれがなくなるまでには、この状況を改善できればいいのだが。

 室内に戻ろうと振り返ると、テラスの入り口に俯いたフィーエルが立っていた。

 思いつめたような表情は、今までのフィーエルとは別人のようだ。


「フィ…………」


 喉まで出た言葉を抑え、呑み込んだ。

 今の俺にかけてやれる言葉はない。

 近くにアイネスがいる様子はなく、ここでフィーエルと口論にでもなれば収拾がつかなくなる恐れがある。

 それだけは避けなければ……。


「……申し訳ありません」


 涙声のフィーエルは、俯いたまま幾つもの涙の粒をこぼす。

 とめどなく床に落ちては滲む涙の跡。

 乾くことなく広がってゆく様を見せつけられると、このまま見過ごすわけにはいかなくなってしまう。


「どうしたんだ、何があった」


「……二度と離れないと、あんなに誓ったのに、私は破ってしまいました」


 顔を上げたフィーエルの顔は、記憶が改竄されてから一度も見たことがないほど感情が入り乱れていて読み取れない。


 悲しみ、歓喜、後悔、嫌悪、様々なものが同時にあふれ出しているらしく、自分でも抑えようがないのだろう。

 それでも、涙でぐちゃぐちゃになった顔は、俺がよく知る感情豊かな、あのフィーエルに一番近かった。


「まさか、記憶が戻ったのか?」


 フィーエルは何も言わず、俺の胸に飛び込んできた。

 大泣きするフィーエルの頭を撫でることしかできない。

 これで落ち着いてくれればいいんだが。


「……アルスさまと過ごした幸せな時間が偽りだということは、理解できています。正直……あれが全て嘘だったなんて信じたくありません。でも、本当の記憶を取り戻せてよかった。同時にこれまでウォルスさんを疑い続けていた自分が憎い……どうしてもっと早く、自分の意思で気付けなかったんだろうって」


「俺は気にしていない。記憶が戻ったのなら、それが一番だ」


 今までのフィーエルなら、飲まない選択をする確率が最も高かったはずで、この変化は先日の件と関係があるのだろう。

 改竄された記憶の中で過ごしたアルスとの時間、それが偽りだったことに相当ショックを受けているのは、辛そうに語る口調から伝わってくる。

 偽物だと理解していても、実際に過ごした記憶として強く残っているのなら当然のことだろう。

 完全に忘れてしまっていたほうが、フィーエルにとっても楽だったことは否めない。


「偽りの記憶であっても、残って本当によかった……偽物だとわかっていても、本当に幸せな時間でしたから」


 俺が転生魔法を使ってから、あのアルスと過ごした時間がろくでもなかったことを考えれば、偽りでも幸せな時間を過ごした思い出が存在しているのはフィーエルの救いになっているのだろう。


「記憶が戻ったことはセレティアに伝えたのか?」


「アイネスは知っていますが、セレティアさまはまだです……」


「それなら早く教えてやってくれ。あいつには今回の件でかなり無理をさせたからな」


「そうですね……ウォルスさんが大変な時に側で支え続けたのは私ではなく、セレティアさまですから……」


 フィーエルは自分を責めるように、声のトーンが一段下がる。

 こればかりは誰のせいでもなく、単純に魂を共有していたことが要因でしかない。


「自分を追い詰めなくていい。確かにセレティアには助けられたが、あれは血契呪で繋がっていたから記憶の改竄が影響しなかったにすぎないんだ。それに今回の原因は、俺自身の罪によるものだからな」


「それでも、私が支えていたかった……」


 フィーエルは自分で決めたことを曲げることはない。

 たとえ本人の意思によるものでなくとも、それが捻じ曲げられたことが受け入れられないのだろう。


「その気持ちだけで十分だ。確かに最初は絶望の二文字が頭をよぎったが、それでもセレティアの記憶が改竄されなかったこと、ネイヤやアイネスが俺の話を受け入れてくれたことで救われたからな」


「どうして、私には話をしてくださらなかったのですか……」


「記憶が戻せるかもわからない状態では、お前を苦しめるだけだと判断したまでだ。戻せるとわかってからも、偽りの記憶でもお前が幸せなら、あえて傷つくことを選択しなくてもいいんじゃないかとな」


「それでも……傷つけてでも言ってほしかったです……これでは、あの時と同じじゃないですか……」


 フィーエルが指摘しているのは、きっとウォルスとして初めて会った時のことだろう。

 転生してから一度も王宮に行くことなく、出会ってからも他人のフリをしてやり過ごそうとしたことが気になっているとしか思えない。

 つまるところ、俺はフィーエルが傷つかないことを優先して行動していただけで、フィーエルの気持ちを汲んだ行動はしていなかったということに他ならない。


「すまなかったな」


「今の私にとって一番辛いことは……ウォルスさんを忘れてしまうこと、ウォルスさんが悲しい顔をすることなんです。――――――――だから、今は笑って迎えてください」


 顔を上げたフィーエルの目尻からは、まだ大きな涙がポロポロと零れている。

 それでも懸命に笑う姿は、どこまでも健気でいじらしい。

 こんな顔をされて応えないわけにはいかない。


「おかえり、フィーエル」


「ただいま帰りました」


 涙を拭ったフィーエルの笑顔が痛いほどに眩しく、それが俺の胸を締め付ける。

 フィーエルに二度もこんな辛い思いをさせたという現実、ただただそれが重くのしかかってくる。

 もう決して禁忌に手は出すまい、そう胸に刻み、頬に残っていた涙の跡をそっと拭ってやるしかなかった。

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