第229話 フィーエル、悩む

 まだ春が訪れる気配さえしない、冷たい風が吹き荒ぶ王宮のテラスで、フィーエルは一人頭を抱えていた。

 手の中に収まる黒い粒を見つめたまま、いったいどれくらいの時間が経ったのかわからない。

 捨てようと思えばいつでも捨てられる。

 しかし、既のところで何度も手が止まっていた。


「どうして捨てられないんだろう……」


 答えはわかっていたが、それでも口から零れた。

 ずっと耳から離れない言葉。

 過去の自分が望んでいたかもしれないとは、一体どういうことなのか。

 以前の記憶が今より辛いものであるのなら、そんなものを望む道理などないはず。


「何、ぼ~っとしてんのよ」


「……アイネス」


 名を呼ばれたアイネスの視線は、フィーエルの手に握られたものへと向けられる。


「私はどうすればよいのでしょうか……今の記憶に不満なんてないのに、この薬のことも信用なんてできないのに、体が捨てることを拒絶するんです」


 フィーエルの苦渋に満ちた顔を見て、アイネスは頭をポンポンと叩く。


「いくらでも迷いなさい。アタシも記憶が戻ってるわけじゃないから強くは言えないけど、アンタは迷うべきだと思う。迷って、迷って、迷った先に出した答えなら、アタシは支持するわ」


 フィーエルは恨めしそうな目でアイネスを見上げる。


「アイネスが教えてくれれば、迷う必要もないんですよ?」


「それだけ軽口を叩けるなら、まだ大丈夫そうね」


 二人の笑い声が風に乗り、冬の王都の空に消えてゆく。

 仮にフィーエルが飲まない選択をしても、きっとウォルスといい関係が築ける。

 アイネスが確信したその時、背後で強烈な違和感が出現した。


「フィーエル下がりなさいッ!」


「あら、何をそんなに警戒してるのよ。敵意がないことくらいわかるでしょ?」


 空間の裂け目から姿を現したのは、怠惰竜イグナーウスだった。

 以前と変わらぬ少女の姿で、前回会った時の言葉を無視するように目の前に立っていた。


「まだこの世界に留まっているのね……今日は何の用事なのかしら。ここにはウォルスはいないし、場所を間違えてんじゃないの」


「間違ってないわよ。だって、用があるのはそこにいるエルフだから」


 アイネスが警戒レベルを最大に引き上げた瞬間、フィーエルの手によって遮られた。

 理由はすぐに理解できた。

 裂けたままの次元の裂け目から、信じられない人物が姿を現したからだ。


「アンタ……」


「アル……ス、さま……」


 穏やかな表情を見せるアルス・ディットランドは、二人の記憶にいるアルスそのままだった。

 微笑みかける笑顔は、生前のアルスと寸分違わず、フィーエルは思わず一歩踏み出した。


「止まりなさい! あれはアルスじゃないわ」


「アイネスの言うとおり、私はアルスであってアルスじゃない。正しくはアルスの錬金人形だ」


 目を見開くフィーエルの目が、アイネスへと向けられる。

 自分が知らないことを知っている事実。

 アルスの錬金人形も、それを当然のように受け入れている。

 それらの事実は、脳を強く揺さぶるような衝撃を与えた。


「どういうことですか、アイネス!」


「…………」


 何も言わず、顔を逸らすアイネスに、猜疑心に満ちた目を向けるフィーエル。

 しかし、この空気に似つかわしくない温和な声が、二人を止めた。


「フィーエル、アイネスを責めてやるな。悪いのはすべて私であり、私を生み出したアルス・ディットランドなのだ」


「どうしてアルスさまなのですか……錬金魔法をアルスさまが使えるわけがない!」


 目尻に涙を浮かべたフィーエルは、膝から崩れ落ちてしまいそうになるのを必死に耐えていた。

 目の前の錬金人形が言っている意味がわからない。

 錬金人形を生み出した元凶は、アルスとイルスが命を賭して倒したはず。

 しかし、錬金人形にアルスの記憶があるのなら嘘をつく意味がない。

 そんな混乱する思考の中で、冷静に答えを出していたものが一つだけあった。

 ウォルスが使った王都全体を覆う魔法、あれならこの錬金人形をアルスとして復活させられる。

 その想いだけがフィーエルを支配していた。


「皆が黙っているのなら、それはフィーエル、お前を傷つけないためだ」


「……わかりません。何が私のためなんですか……目の前のあなたにはアルスさまの記憶があるのなら、あなたもあの人の魔法で、人として生きれば全てが丸く収まります……」


 酷くうわずった声が、風にかき消される。


「そんな選択肢がないことは、もう理解できているんだろう? 私の記憶はフィーエルの記憶にあるアルスとは違う。私は罪を背負いすぎているのだ」


 錬金人形へ近づこうとしたフィーエルに向けて、イグナーウスの魔力が放たれる。

 暴食竜や憤怒竜に遠く及ばないにしても、その禍々しい魔力はフィーエルや今のアイネスの手に負えるものではない。

 恐怖で硬直する体に、フィーエルは唇を噛み締めた。


「私が魔力を放ったことで、彼にも私の存在を知られただろうし、早く話を終わらせてくれると助かるわね」


 イグナーウスの言葉に、錬金人形であるアルスは黙って頷くと、次元の裂け目へと歩き出す。


「フィーエル、私はアルスとしての想いを伝えるためにここへ来た」


 孤独を背負った後ろ姿からは、決して顔は見せない、という覚悟が滲む。

 フィーエルはあえて返事をせず、言葉を待つことにした。

 数瞬だが無限とも感じられた時間は、アルスの姿を目に焼き付けるには十分だった。


「お前の記憶にある私は本当の私ではない。真実を知るためにも、お前はその手の中にある薬を飲まなければならない――――いや、どうか飲んでほしい。それがこの事態を招いてしまった私の贖罪であり、最後の願いだ。偽りではない、本当の幸せを手に入れてくれ、フィーエル」


 錬金人形は言い終わると、そのまま次元の裂け目へと歩き出し、漆黒の闇に溶け込んで消える。


「そういうことだから、これで本当にお別れよ。じゃあ彼によろしくね」


 イグナーウスはその魔力に似つかわしくない、投げキッスをして次元の裂け目に溶け込んだ。

 裂け目が閉じるなり、動けなかった二人の時間が再び動き出す。

 手のひらの粒を見つめるフィーエルの表情は晴れない。

 アイネスはそんなフィーエルに言葉をかけることなく、ただ寄り添うように肩に座るだけだった。

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