第225話 奴隷、波乱の予感に震える
ヴィーオが言っていたことを鵜呑みにするつもりはなかったが、翌朝、ヴィーオを含む四人はユーレシア王国を発っていた。
エルフであるフィーエルやリゲル、ガルド以外には挨拶することもなく、ひっそりと姿を消したようだ。
元々ユーレシア王国に用があってやってきたわけでもなく、キースまでいるとなれば、人間に挨拶して帰るなんて選択肢は最初からなかったのかもしれない。
「もう嫌だわ、アタシにも挨拶なしなんて! 一度ヴィーオとじっくり話し合わないといけないわね」
息が白く染まる王都を散策していると、無理やりついてきたアイネスがぶつくさ文句を言う。
街の様子は初めてここへ訪れた時より活気があり、あきらかに人の数が多くなっていた。
錬金人形が王都に溶け込み、普通に暮らしていけている証左でもある。
「錬金人形の半分はユーレシア王国に残るそうよ」
「ああ、それはセレティアから聞いている。信頼できる国に残りたいんだろう」
残りの半分は、各国が受け入れる形で話がついているらしい。
ユーレシアが抱える数万の錬金人形も、しばらくはクロリアナ国から支援があるため問題はない。
あるとすれば、ユーレシア王国の急激な台頭に頭を悩ませる近隣諸国、といったところか。
「それにしてもさ、フィーエルは全然アンタに寄り付かないわね」
「ヴィーオがいらぬ置き土産をしていってくれたからな。フィーエルが俺を怪しむのも仕方のないことだ。イグナーウスにまだ動きが見られない以上、こちらとしても変に勘ぐられるよりはいい」
「本当に記憶を戻せるのかしら。もしかしたら、数十年後だったりしてね」
あの場では期限を設けることはできなかった。
最悪何年かかろうとも、記憶さえ戻れば言うことはない。
今回の錬金人形の件に関しても、結局は
「せっかく来てあげたのに、随分酷いことを言ってくれてるじゃない」
人混みから聞こえた、透き通った少女の声。
強烈に記憶に残っている、忘れようにも忘れることができない声でもある。
その声がした方向へ向き直った瞬間、そいつは嬉しそうに口角を上げた。
「どうしてお前がここに……」
「理由なんて決まってるでしょ。あまり私の機嫌を損ねないほうがいいわよ。これを今すぐ握りつぶしてもいいんだから」
突然現れた怠惰竜イグナーウスは、指に摘んだ丸くて黒い粒を見せつける。
「それがどうかしたのか」
「あなたが欲している、記憶を戻すための薬が完成したのよ。流石に私の力は使えなかったから、こういう形にするしかなかったってだけ」
手にしているのは一粒だけで、その一粒を脅しに使っているように見える……というか、完全に脅している。
「まさかとは思うが……薬はそれだけしかないのか」
「そうよ。記憶を戻せるのは一人だけ。この一粒だけが、唯一成功したものよ」
「もっと作れないのか。それだけじゃ全然足りないんだ……」
頭が真っ白になるのと、少し声が震えて動揺している自分自身が嫌になる。
目の前のイグナーウスはそんな俺を見ても、何も読み取れない、無感情な表情で首を横へ振る。
何を言っても無駄だということを、この態度だけで思い知らされた気分だ。
「……記憶が戻ると、今の記憶はどうなるんだ?」
「わからないわね。消えるのか、残るのか、これしか作れなかったし試しようがないの。確実なのは、記憶が戻るということだけ。試すのが怖いのなら、捨てることをお勧めするわ」
無造作に投げられた粒。
受け取らない選択はなく、しっかり左手で掴み取る。
手にしてわかる、何とも表現のしようがない違和感。
どこまでも落ちていくような、不思議な感覚が手のひらを通して伝わってくる。
これはただの薬ではない、こいつが言うように奇跡によって得られたものだと理解できる。
「私の用は済んだし、これで失礼するわね」
「いつこの世界を離れるんだ」
俺の言葉に、後ろを向きかけたイグナーウスの足が止まる。
「そうね、今すぐじゃないけど、数日以内には出発するわよ。そのせいでヘルサント王国は崩壊するでしょうけど。これからは大変ね」と、イグナーウスは“原因は俺たちにある”とでも言いたげな楽しそうな表情を見せ、クスクス笑い出した。
「残念だが、後始末は教会に任せてある。何も問題は起きないぞ」
「……それは残念ね」
道端の石ころを見つめるような興味を失った瞳。
やはりこんな姿をしていても、思考は厄災そのものというわけか。
王都に厄災が侵入している、それだけで王都は大混乱に陥るというのに、目の前のイグナーウスからは厄災から発せられるべき気配が微塵も感じられないのが幸いだ。
「まあいいわ。楽しみが一つ減っただけだし」
不穏な言葉を残して背を向けたイグナーウスは、こちらの反応を確かめることなく人混みに紛れてゆく。
俺もアイネスも止めることができず、その姿はすぐに見えなくなった。
◆ ◇ ◆
人の気配がない静かな一角に入った瞬間、何かを思い出したようにアイネスが怒り出す。
民衆に見られるのを避けていたのか、一気に感情が爆発したらしい。
「なんだったのよアレ! 突然現れたと思ったら、たった一粒しかよこさないし、言いたいことだけ言ったらいなくなっちゃうし。記憶が戻るのはいいけど、今の記憶とどうなるか賭けなんてメチャクチャじゃない」
「アイネスの分も必要だったか?」
手に持った粒を目の前に持ってくるなり、両手で粒を押さえつけられる。
「アタシはいらないわよ。今の記憶が消えたら、それはそれで困るもの。アタシは頭の中で切り替えができてるからいいの。問題はフィーエルよ」
「――――そうだな」
やはり以前から考えていたとおり、フィーエルに飲ませるのなら、今の記憶がなくなるかもしれないことは最低限伝えておかなければならない。
騙して飲ませるのは論外で、後々問題が起こるのは予想がつく。
記憶が共存した場合、一番ショックを受けるのはフィーエル自身だからだ。
詳細は話さなくとも、相応の覚悟を持って飲んでもらう必要がある。
今の記憶がなくなった場合でも、記憶が改竄された当時に戻るのか、それとも現状との齟齬を違う形で埋めるのか……。
それ以外にも、厄災である怠惰竜が作ったこの薬を本当に信じて大丈夫なのか、という疑問も付きまとう。
「一粒しかない以上、渡すとすれば、ネイヤかフィーエルの二択か」
アイネスは渋い表情を作るが、何も言ってこない。
アイネスの中ではフィーエル一択で不満もあるのだろうが、俺の考えも尊重してくれているのだろう。
ベネトナシュたちには悪いが、最終的な判断はネイヤに任せるのがいいだろう。
「それじゃあ、アタシはフィーエルを呼びに行ってくるわ」
「俺はセレティアとネイヤに声をかけよう。フィーエルには警戒されないように気をつけてくれ」
「任せときなさい! 陽が落ちてからセレティアの部屋に連れていくから、準備頼んだわよ」
最後は精霊の形を留めず、水柱になってそのまま地面へと溶け込んだ。
「誰になるのか、上手くいくのか、ここからが正念場だな……」
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