第143話 奴隷、泣きつかれる

 記憶を改竄する魔法など、聞いたこともなければ試したことすらない。

 部屋に戻り、理論を組み立てては見るものの、全く違う記憶を作り上げ、それをあらゆる人間に施すなど人智を超えた所業であり、すぐに不可能だと悟った。


 魂から記憶を切り離した転生魔法ですら、膨大な魔力と、繊細な魔法力を必要としたのだ。

 記憶を完全掌握するなど、到底人間にできる芸当ではない。

 たとえ俺が万単位でいようと、実行不可能だ。

 ともすれば、今置かれている状況は魔法によるものではない、ということになる。

 これはアイネスの意見とも合致する。


「どうすれば、こんなことになるんだ……ヒントと言えるのは、フェスタリーゼとダラスの、あの一瞬の出来事か」


 あれは、記憶の上書きとの狭間だったのだろう。

 もう少し遅ければ、あれを見逃すところだった。

 十中八九、今では完全に俺の存在などなかったことになっているだろうが……。


「原因はわからないが、一度記憶から俺が消えても、二度と戻らない、というわけでもなさそうなことが救いか」


 何が要因なのかは不明だが、少なくとも俺の記憶が弄られているわけではない。

 もう一人の俺、アルスが過去に飛んで禁忌を犯し、そのアルスを倒したことで、何か異変が起こっているのか、それとも、アルスが最期に残した言葉、俺も禁忌に足を踏み入れたということに関係があるのか……。


 静かな部屋に、扉をノックする乾いた音が響く。

 もうすぐ日付が変わる時間で、窓の外は真っ暗だ。

 こんな時間に俺の部屋に訪れる者なんて、そうそういない。


「誰だ」


 しばらく待ってみるが、返事はない。

 魔力感知で捉えた魔力は、俺がよく知る人物だ。

 だが、普段よりも乱れ、ただ事ではないことが見て取れる。

 徐に扉を開くと、そこには涙を限界まで溜めたフィーエルが立っていた。


「どうしたんだ、フィーエ……」


 フィーエルは俺の言葉など聞こえていないのか、無言で俺の胸に飛び込んできた。

 直後、廊下に響きわたるほどの嗚咽を漏らす。


「フィーエル、何があったんだ!」


「うぅ……ひっく、イヤです……わたしは、ウォルスさんを忘れたくありません……やっと、一緒に同じ時間を過ごせるようになったのに」


「まだ記憶がなくなると決まったわけじゃないだろ」


「なくなったんです……兄さんも、ガルド・オベックも……夕刻までは覚えていたんです。なのに……さっき尋ねた時には、何もかも……」


 進行が早すぎる。

 どういう基準で進行しているのか……今のところ、関係が浅い人物から進行しているように思えるが、そうすると、フィーエルやセレティアは最後ということになる。だが、この進行速度では二人に影響が出るのは時間の問題だ。


「落ち着け、何かあっても、俺がどうにかする」


「でも、一時的にでも、何もかも忘れてしまうなんて……」


 フィーエルはそれだけ言うと、再び涙を溢れさせ、俺の胸に顔を押し付けてくる。

 どうにか落ち着かせたいが、今のフィーエルには何を言っても聞きそうにない。

 いくら呼びかけても泣きじゃくるだけで、駄々をこねる子供のようだ。


「悪いな、フィーエル……」


 フィーエルを抱きしめたまま、風属性誘眠魔法を使う。

 次第に落ち着くフィーエルはそのまま意識を失い、俺に体を預ける。


「そこにいるんだろ、アイネス」


 開けっ放しの扉に向かって言い放つのと同時に、アイネスがひょっこり顔を覗かせた。


「もう、完全に気配は消してたのに」


「この一連の現象は魔法ではない、そうだろアイネス。お前なら、もう何かに気づいてるんじゃないのか」


「どうしてそう思うのかしら」


「簡単なことだ。さっき記憶を改竄する魔法理論を考えてみたが、転生魔法や死者蘇生魔法以上に無理があり、人の手に負えるものじゃないという結論に至ったからな。そうなると人智を超えた力、必然的に人間以上の存在の力が働いてるということになる」


 アイネスは目を細め、俺をジッと見つめてくる。


「アタシが人間以上の存在だというのは正解ね! アタシなりに答えを出してはみたものの、本当にこの考えが正しいのかもわからないのよ。この状況、今のアンタに伝えてるのが最善なのかもわからない」


 アイネスは複雑な表情を浮かべたまま、フィーエルの体に水をまとわりつかせ、俺からその体を離れさせる。


「それは心当たりがある、と思っていいんだな?」


「たぶんだけどね。今日のところはフィーエルを寝かせるから、明日、部屋に来なさい。その時までに話すかどうか決めておくわ」


「ああ、いい返事を期待しておく」


 静かに閉じられた扉を前に、アイネスの言葉の意味を、躊躇した理由を考える。

 不確定要素が強いとしても、話すことがマイナスに働くことは考えにくい。

 精霊のアイネスが出した答えが正しいかわからないレベルとなると、そもそも精霊が関与していないのかもしれない。

 しかし、それではなぜ俺に話すのを躊躇うのか――――都合が悪い、もしくは誰かのため。


「答えは単純な理由か……」


 アイネスの言っていた言葉、この状況、今の俺に伝えていいのか、この二つそのものが答えといっていい。

 俺に伝えることで、フィーエルか俺に悪影響が及ぶのだろう。

 アルスが言っていた、禁忌に足を踏み入れたということが脳裏をよぎる。考えられるのは俺が知ることで、この状況がさらにマズくなるのかもしれない。


「今夜は大人しくしておいて、明日聞かせてもらうのがいいか」


 今動いて、不測の事態に陥るのが最もよくないだろう。

 アイネスから核心じゃなくとも、何かきっかけでも聞ければ突破口を見いだせるはずだ、と俺はベッドに横になり考察することを拒絶した。

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