3-14 河川敷にて
さっき母さんにはああ言ったけど、実は今日の僕には行くあてがコウゾウさんの家以外に1つだけあった。
それはこの近所では一番大きな川の河川敷だった。
川にたどり着くと下流に向かって川沿いを歩いた。今日は来ているだろうか、いないかもしれない。
15分ほど歩いたところで、遠くからトランペットの音が聞こえてきた。
何度も同じフレーズを繰り返していて、練習しているのがわかる。僕の予想通りだ。
フォルティスクエストの検証のために1度だけここに来たことがあって、澪はいつもここで練習をしているというのを聞いていたから、冷やかしに行くことにしたのだ。
近づくと橋の下からかなり大きな音がしていた。
澪は土手からさらに一段低くなったところに立っていて、川の方に向かって楽器を鳴らしていた。
そこに続く階段を降りていくと、本人の近くまで来たところでちょうど演奏が途切れた。
僕の足音に気づいたのか、澪がこちらを振り返った。
「よっ」
「な……なんで」
僕が手を挙げて挨拶すると澪は驚いた顔をしたまま口をぱくぱくさせていた。
「え、なんで?」
よほど予想外だったのか同じことを訊いてくる。
「暇つぶし的な感じで来てみた」
「え、普通にめちゃくちゃ迷惑なんだけど。帰ってよ」
一も二もなく非難された。けれど、ここで引き下がってはせっかくここまで来た意味がなくなってしまう。
「いやぁそれにしてもだいぶ遠くまで来てるんだね」
なのでわざと澪の非難をスルーした。
「あ、え……いや、はぁ。だって近くに家があったりしたら迷惑じゃん?」
「じゃああれだ、カラオケとかはどうなの?」
「ここら辺のカラオケ店って楽器演奏禁止なところ多いんだよね。楽器の音ってマイク通した声よりもうるさいし。あとお金がかかる、これが一番の問題」
澪は僕を鬱陶しそうな目で見つつも答えてくれた。
「お金さえあれば練習用のサイレンサーってやつを買ったりもできるんだけど、この子がけっこういいお値段したから、さすがにそこまではお母さんたちにねだれなかったの」
澪は持っていたトランペットを大切そうに撫でながら言った。
「なるほど、楽器を練習するってのも色々大変なんだなぁ」
僕は大きめのごつごつした石の上に腰を下ろした。
「え、何?」
澪は逆立ちするペンギンを見つけたかのような顔でこちらを見ていた。
「何って、何が?」
「まさか翔、聞くつもり?」
「え、だめ? というか来る途中にも聞こえてたけど」
僕がそう言うと、澪は「いやいやいやいや」と手を振って否定した。
「違うんだよなぁ。そういうのじゃないんだよ」
何も知らない素人を言いくるめるエセ芸術家みたいに澪は言うけれど、僕にはなんのこっちゃかわからない。
「何が?」
「聞かせるための音と、練習の時の音は違うの」
「じゃあ聞かせるための音を聞かせてくれたらいいよ」
「全然……もう全然、全く、これっぽっちもわかってない。今はね、練習の音しか出せないの」
「なんだよそりゃ。まぁいいや。じゃあ練習の時の音で頼むよ」
そう言うと、澪は露骨に眉間にシワを寄せて困った顔をして「別に選んでほしいわけじゃないんだけどなぁ」とぶつくさ言いながら。それでもトランペットを口元に構えた。
「じゃ……じゃあ、ちょっとだけだからね。あと、吹いてるときの顔は見ないでね、フリじゃないからこれ、絶対だからね。やったら絶交だから。いい? マジでやめてね」
これでもかというぐらい念押しした後、すぅっと息を吸って澪はマウスピースに息を吹き込んだ。
少し歪んでいるけれど弾けるような心地よい音がして、ぎこちないメロディが流れ始めた。
が、吹き出して3秒もしないうちに”パヒョ〜”という力の抜けるような音が聞こえて、演奏が止まった。
ちょっと笑ってしまいそうになる自分を、真剣な澪のことを考えてぐっと奥歯を噛みしめて耐えた。
澪の方を見ると、川の方を向いたままで何も言わなかった。耳が少し赤くなっていた。
「……今のは、無し」
「お、おう」
唇をブルルルと震わせて「よし」と気合を入れ直した澪はもう一度トランペットを構えた。
今度は1音目から”プヒョ〜”とかすれた音だけが聞こえた。
ちょうど橋の上を電車が通っていき、雷のような轟音が向こう岸に流れていってしまうと、なんともいえない静けさが後を引いた。
「練習の音だもんね」
とフォローしたのに。
「うっさいバーカ!」
なぜか怒られてしまった。
「あーあ、これだから人前で吹くのはまだ嫌なのにさー。もう、無茶言わないでよ」
怒りつつも、澪はほんの少しだけ自嘲するように笑った。
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