僕と澪
3-13 嫌なことからは
日曜日の昼過ぎだった。
ソファに寝そべって灰色のスウェット姿がテレビを見ていた父さんが急に「そういえば翔、結局部活には入らなかったのか?」と今さら聞いてきた。
父さんは基本的に夜遅くに仕事から帰ってきてすぐに寝てしまうから、あまり学校のことを話していなかった。きっと母さんに聞かされたんだろうな。
「うん、まぁね」
「そうか。まぁ翔は昔からあんまり習い事も長続きしなかったもんな」
別に叱られたわけでもバカにされたわけでもないけれど、あまりいい気はしなかった。
昼食の片付けをしていた母さんが「何かやっとくべきよ、ねぇあなた」と会話に入ってきた。
「あぁまぁ、何かやっててもいいだろうな」
父さんは半分めんどくさそうに母さんの意見に便乗する。
「何かって、何?」
僕が尋ねると、母さんは手を止めて腕組みをして考えた。
「うーん、例えば野球部とかどう? 谷野くんのところ、野球部なんでしょ? 前はよく一緒に遊んでたじゃない」
野球部だって? それはないだろ、ないない、一番ない、あんなの陽キャの巣窟だよ。と思ったけれど、口にするとどんなことを言われるかわかったもんじゃないのでそれを飲み込んだ。
母さんはこうして僕に”母さんの考える普通”であることを強いてくることが多い。
小さい頃からそうで、いろんな習い事もさせてもらったりしたけれど、僕にはそれが窮屈に感じていた。
「まぁその気になったら考えるよ。さーて、ちょっと散歩にでも行ってこよっと」
僕は立ち上がって逃げるようにして強引にその場を去った。
ズボンにケータイと財布だけ入れて玄関で靴を履いてると今度は妹の由依に「翔、どこ行くの?」と呼び止められた。
「ちょっとそこらへん散歩しに行くだけ」
「いいなぁ翔は、中学生なのに部活もしてないし、暇があってさー」
こういう由依の嫌味にちょっと前までならイラッとしていたけれど、今は不思議と苛立たなくなっていた。
「いいだろ」
僕は笑顔でそう返してやった。
由依は今日は母さんの勧めで始めた習い事の習字に出かけるはずだ。
しかしあまり好きではないようで、いつも習字教室に行く前は機嫌が悪くなってこうしてさりげない八つ当たりをしてくるのだった。
面倒が嫌で親に何も言い返さないのは兄妹で一緒というわけだ。
「翔、どこに行くの?」
来なくていいのに母さんも続いて廊下に顔を出した。
「別に決めてないけど。何か用があるなら連絡してよ」
玄関まで歩きながらお決まりのパターンでそう言うと、母さんは今までにない渋い顔をした。
「翔、最近山本さんの家に行ってるって本当?」
スニーカーを履く僕の動きが一瞬止まる。
一体どこからそんなこと聞きつけたんだ、と思った。まぁコウゾウさんはご近所じゃちょっと有名だし、澪のこともあるし、別に隠していることでもないから知ってても不思議ではないのだけれど。
「そうだよ、澪に連れられてね。でもちょっと寄っただけ、別にいつも行ってるわけじゃないよ」
嘘、毎日入り浸ってるけどね。
「そう、ならいいんだけど。とにかく、あの人にはあまり関わらない方がいいわよ」
その理由は聞くに値しないもので、かつ僕の気分を害するだけのものだとわかりきっていたので、何も聞かずに「はーい」と上面だけの返事をしておいた。
バタンッと玄関のドアを後ろ手で閉める。
なんとか吐き気のするような空気の漂っている家から脱出に成功した。
深呼吸をしてみると、涼しさをはらんだ空気が胸に満ちる。
はぁ、なんて清々しいんだ。やっぱり三十六計逃げるにしかず、嫌なことからは逃げるに限る。
アスファルトに落ちた街路樹の葉っぱを踏んで歩きだすと、ひんやりした風が頬を撫でていった。
お天気キャスターの人は今日は肌寒いって言っていたけれど、これぐらいの気温が丁度良い気がした。
歩きながら、いつかの父さんの話をふと思い出した。
夏休みの時に『お前は父さんと母さんの子だし、何の才能もないに決まってるだろ』と言われたことだ。
そりゃ僕だって小さい頃は大雑把に「何か才能が開花して、有名になって好きなことして生きていきたいなぁ」と思ったことはある。
でも別に、野球選手になりたいわけでもピアニストになりたかったわけでもなく、のんべんたらりと生きてきた。
そうして僕は13歳になり、現実がそんなに甘くないこともちゃんとわかるようになった。
毎年誕生日を迎えるごとに、自分の可能性ってのがどんどんと狭まってきているような気もする。
テレビに出ている子役だって、みんな小学校に入る前の頃から両親がオーディションを受けさせたりするらしいし、ピアノの大会に出るような子は2歳や3歳から特訓するらしい。
その点で言えば僕はもう手遅れ、ということになる。
それに自分は、別に勉強ができるわけでもなければ運動神経がいいわけでも、芸術センスがあるわけでもない。
きっと、大人になったら父さんと同じようにどこかの会社で働いて、疲れて帰ってきて寝て、また起きて会社に行って……という”普通の”生活を送るんじゃないかなと、なんとなくだけどそう思う。だって大抵の人はそういう風にして生きているんだろうし。
だけど、時に「自分になにか特別な才能があればいいな」と心のどこかで思うのは、みんな同じだと思う。だからマンガやアニメの登場人物に憧れるし、魔法や超能力みたいな特別な力があればいいなと思う。
しかしそんな願いは届かない。普通の人として生きていく。それが現実ってやつなのだろう。
そしてコウゾウさんは、そんな僕のことを羨ましいと言っていた。
それは果たして、正しいことなんだろうか。
公園に立っている葉が少し黄色く色づき始めたイチョウの木を見上げて、僕は考えた。
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