3-9 家庭教師

 姫は昨日の今日でもう8の段まで完璧に暗記していることをドヤ顔を決めながら教えてくれた。


 どうやら昨晩寝る前に1人で九九の表を見て復習をしながら寝たらしい。

 恐るべし、姫のやる気と記憶力。


 結局その日は九九の残りをした後、僕が作った計算問題を解いてもらうことにした。


 問題を作り終わるのをまだかまだかと待っている姫に自作のプリントを渡すと、鉛筆を器用にくるくると手で回した姫は次々に問題を解いていった。


「できた!」


「オッケー、合っているか見てみるね」


 僕は先生みたいに赤鉛筆で丸をつけていく。


「あーそうか、しまった」

「どうしたの?」


「実はここがちょっと違うんだ。でもこれは僕が悪い、まだ教えてない問題だったよ」


 僕は[1+2×4=12]となっている式を指さした。


「間違ってる? 1+2は3でしょ、さんしじゅうにで、合ってるんじゃない?」

「実はね、足し算よりも掛け算を先にしないといけないってルールがあるんだよ」


「へぇ、そうなんだ。なんで?」

「なんで? ってそりゃそういうルールだからだよ」


「ふうん。でもなんでそんなルールがあるの? 掛け算を先にするってことは掛け算の方が偉いの?」

「そんなわけないけど。あれ、なんでなんだろう」


 そういうルールだからとしか教えられていなくて、それで納得していた僕にはよくわからなかった。


「へっへっへ、翔にも知らないことがあるんだね」

「そりゃあるよ。でもうーん、これは気になってきたぞ」


 自分が勉強していた時は全然気にならなかったのだけど、姫から疑問を投げかけられると無性に納得できる答えが知りたくなった。


「明日までに調べとくよ」

「ありがとう!」


 姫の期待に満ちた笑顔を向けられ、なんとかして納得してもらいたいと素直に思った。


 その日はちょうど塾の授業だったので、帰る前に思い切って植松先生に尋ねてみることにした。


「めずらしいね、冨田くんが質問に来るなんて」


 授業が終わった後、教室の掃除をしていた先生に話しかけると嬉しそうな顔で答えてくれた。


「実は今習ってることとはあまり関係がないことなんですけど」


 そう前置きしてから、知り合いの小学生に勉強を教えているというていで質問を伝えた。姫の素性なんかや教えるまでの経緯はもちろん黙っていた。


「へぇすごい、家庭教師みたい。それにしてもその子すごく良い質問するね、教えがいがあるでしょ」


「ええまぁ。頭の回転がすごくいいなと思います」


 そう言うと、先生はなぜか満足そうな顔をした。


「いやぁ富田くん、青春してるねぇ。いいねぇ」


 また始まったぞこの話、と思って僕は「そうなんですか?」と苦笑いを顔に貼り付けて返した。


「そりゃ目を見ればわかるよ。頑張ってるね」


 植松先生は親指をびしっと立てた。冷やかしや冗談なんか含まない真剣な顔だった。


 僕としては早く答えが知りたい気持ちもあったけど、なんだか少し嬉しかった。


「それでさっきの話だけどね、難しい話は置いておいて、掛け算は足し算の繰り返しをまとめたものって説明がわかりやすいんじゃないかな。例えば1+2+2+2+2=9ってのは式が長いから1+2✕4=9と書いてるって考えるの」


「あー、なるほど! それで掛け算を先にするのか」


 ホワイトボードに書いてくれた式は単純で、どうしてこれに気づかなかったんだろうと思った。昔習ってて忘れちゃってたのかな。


 さすが数学の先生だ、と感心していると「ところでさ、冨田くん最近何か運動でも始めたの?」と訊いてきた。


「え、どうしてですか?」

「別になんとなくだけど。で、何か部活でも始めたの?」


 植松先生がめちゃくちゃ鋭いので怖さすら感じてしまう、ボディシートの匂いだろうか。

 コウゾウさんのことも八極拳のこともあまり他の人に言いたくないのだけど。


「部活じゃないんですけど」

「でも何かはしてるんだよね」


 被せ気味にそう言われて、こっちが何を言っても墓穴を掘る気がして、嘘だとばれる前に一部分だけ正直に言うことにした。

 そうした方が嘘がバレにくいってこないだどこかで聞いたからだ。


「八極拳を習い始めたんです」

「八極拳?」


「中国拳法です」

「中国拳法?」


 植松先生から笑顔が消えて、とにかく怪訝そうな顔になった。

 そりゃそうだ、部活でも始めたのかと思って聞いたらよりにもよって中国拳法だもんな。


「それってどこで習ってるの? 誰が教えてるの?」

「えーっと近所なんですけど……。おっとそろそろ家に帰らないと門限超えちゃう。それじゃ先生ありがとうございました、さようなら」


 いよいよ問い詰められているような雰囲気になってきたので僕は脱出を図った。


 でもいきなり後ろからリュックをぐいっと引っ張られた。


「それってもしかしてヤマモトコウゾウって人じゃない?」

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