3-5 何のために

 しかしさすがに1時間経つと疲労が見え始めたので「姫、そろそろ休憩しようか」と提案した。


 僕も誰かに勉強を教えるという慣れないことをして思った以上に疲れていた。


 姫は真剣な顔で「ろくにじゅうに、ろくさんじゅうはち……」と6の段をブツブツ言っていたけれど、途中でふっと息を吐いて仰向けになった。


「なるほどね、これが学校の勉強ね」


 しばらく風鈴の音だけが聞こえる時間が流れた。


「あれ? 楽しいじゃない、皆は何がそんなに嫌なの?」


 姫は寝転んだまま率直な疑問を投げかけてきた。


「いや、うーん。そう言われるとよくわからなくなってきたな」


 確かに知らないことを知ったり、できなかったことができるようになるのは楽しいはずだ。

 ゲームだって同じようなものなんだし。


「これはたぶん、なんだけどさ。やらなきゃいけない、とか、いい成績取らなきゃいけないってのが嫌なのかも?」


 そう言うとさらに姫は不思議な顔をした。


「どうして勉強したりいい成績とらなきゃいけないの?」 

「そりゃぁ……そういう風にこの国がなってるからなんだよ」


「どういうこと?」

「えーっと、いい成績とらないと、ちゃんとしたとこで働けないんだよ」


 僕は大人の受け売りでそう言った。


「ふぅん。いい成績を取らないと職につけないのか」


 しかしなんだか微妙に違った風に伝わってしまった。


「いや、そういうわけじゃないんだけどさ。いい暮らしができない、みたいな」

「いい暮らしってどういうこと?」


 純粋な目を向けられて、きちんと説明できない罪悪感のようなものを感じつつも僕は答える。


「おいしいものを食べたり、きれいな服を着たり……とか、かな?」

「なるほど、翔は将来そういう生活をするために頑張っているんだね」


 そう言われると、ものすごく違和感を感じる。


「いや、僕はそういうわけじゃないかな」


 そう答えると姫は首を傾げた。頭に「?」マークが浮かんでいるのが目に見えるようだ。

 しかし何も弁解できない。


「まぁなんかさ、ややこしいんだよ、この国は。とにかく子どもの間は勉強はしなくちゃいけないんだよ。大人が仕事してるのと同じなんだ」

「ふーん?」


 姫にうまく説明できないことが、ほっぺたの内側にできた口内炎みたいに気になったけど、これ以上うまく説明する自信がなかったので何も言わずにおいた。 


「じゃあ翔は今はどんなことを勉強しているの?」


 起き上がった姫は四つん這いのまま僕の学生カバンを指さして言った。


「前に澪がやってた数学でしょ、理科と社会と、国語、英語と、あと音楽とか美術とかかな」


 僕はいくつかカバンから教科書を出して姫に見せた。


「すごいな、翔は毎日たくさんのことを勉強しているんだね」


 腕組みをした姫は心底感心したように頷いた。


「いや別に普通なんだよ、皆やってるもの。それに姫だって十分にすごいよ、あんなにすぐに6の段まで覚えちゃうなんてさ」


 褒められて満更でもないような顔をしている姫に僕は時計を見て言った。


「それよりコウゾウさんっていつ頃帰ってくるかわかる? 実はこの後塾に行く予定なんだ」


 実際のところ、今日は授業がない日だったけど、あの塾は授業がない日でも好きなだけ自習室に通えることになっている。


 だから家にいて家族と過ごすよりも塾にいた方が心が落ち着くので僕はほぼ毎日塾に行って宿題や予習をしていた。


「塾……?」


「えーっと、勉強するところだよ。学校以外にもあるんだ」


 姫は目を丸くした。


「今日朝から学校で勉強してきたんだよね? ちょっとやりすぎなんじゃない? 頭爆発しちゃうかもよ」


 心配そうな目を向ける姫に「これもしょうがないんだよ」と苦笑いをしてみせて、僕は出していた教科書をカバンにしまった。


「そうか。いや、翔にもっとこの国のことをいろいろと教えてほしかったけど、しかたないね」


 この国のこと、か。

 めちゃくちゃ流暢な日本語を話す上に昔のことはよく知っているはずなのに日本のことは知らないという設定でいくつもりなのだろうか。


 一旦家に帰らずに直接塾に行けばまだ時間に少しばかり余裕があるかもしれないけれど、それは言わずにおいた。


 すると姫はいいことを思いついた、というようにポンと拳を打って尋ねてきた。


「あ、そうだ澪は? 澪に教えてもらうのはできないかな?」

「あいつは部活。まだ学校で練習中だよ、きっと」


「ブカツ?」

「あー、部活ってのは、学校が終わった後に芸術とかスポーツとかを何人か集まってやることだよ。ほら、前に澪がトランペットって学期をやってるって言ってたやつ」


「へぇ、そういうのもあるんだね。翔はそのブカツってのはしていないの?」


 この質問は色んな人に何度もされてきたけれど。まいったな、姫をうまく納得させられるような理由が思いつかない。


「スポーツ系も芸術系も苦手だから、かな。何やっても皆の足を引っ張るだけだよ」


 なんとかそう絞り出した。


「なるほどね。まぁ私の経験から言うと、そういうのってやってみたら案外楽しいかもしれないけどね。何事も経験、案ずるよりやってみちゃうがやすしだよ」


 姫はどこかで聞いたことのあるようなセリフを口にした。


「うん。まぁでもさ、僕はあんまり無駄なことはしたくないんだ。将来役に立つことだけやって、省エネに生きていたいよ」


 情けない強がりを返したのと同時に「ただいまー」と声がしてジャージ姿のコウゾウさんが帰ってきた。

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