銀杏並木で消えましょう

城間ようこ

銀杏並木で消えましょう

「ファイッオー、あと5周ー!」


「はいっ!」


楠果奈は聖白百合女学院の高等部1年だ。陸上部で長距離をやっている。


走るのは好きだった。足が自然と前に出て、耳には自分の呼吸しか聞こえなくなる。走ることが全てになる。


けれど、ある人物の姿を目の前の数メートル先に見いだして、我にかえる。


美術部の画材が入ったバッグを両腕に押し包んだ立ち姿が儚くて美しい。


あっという間に距離がなくなる。


すれ違いざま、囁きを聞いた。


「……はじまりの」


それだけで分かった。繰り返された合言葉。


──はじまりの銀杏並木で会いましょう。


* * *


「おね……遥香さま!」


校内の銀杏並木のベンチから立ち上がって約束の相手に駆け寄る。それを、ふわりと微笑んで受けとめる表情はどこまでも優しい。


「ごめんなさい、待たせたわね。……ところで、果奈?」


「なあに? 遥香さま……」


「さま、は止めてって言ったでしょう?」


くすりと笑い、細く白い手を伸ばして頬に触れてくる。言われて紅潮した顔の火照りをなだめるように。


「だって……二人きりの時に“お姉ちゃん”って言いたくないんだもん」


「ええ、だからね……呼び捨てでいいのよ、二人きりの時は」


ほら、呼んでみて。──甘い声で促される。


「恥ずかしいよ……」


「だめ。……誰も聞いてないから……ね?」


「……遥香……」


躊躇いがちに、消え入りそうな声で口にすると、笑みが深まって愛おしそうに見つめられる。そうなると、頭の芯がとろけそうになってしまう。


「良い子ね、果奈……大好きよ」


「……私も……大好き」


「……嬉しい」


そっと抱き寄せられて、心地よい香りに包まれる。同じ家で、同じボディーソープと同じシャンプーを使っているのに、違う。清涼な花の香りがする。


「遥香のこと、世界で一番大好きなのは私なんだからね」


上目使いに見上げて言い募り、照れくささから遥香の肩に頬を押しつけて抱きつく。背中をさすってくれるのが切ないほど気持ちいい。


「分かってる。……私達は世界に二人きりの共犯者だもの」


そう。──世界を欺く共犯者。


実の姉妹でありながら愛しあう、罪を共有している共犯者。


* * *


二人の関係は、秋に入ったばかりの頃に始まった。


ある日、遥香が「今日のお弁当は銀杏並木のベンチで一緒に食べましょう」と果奈を誘ったのだ。


ここしばらく、お互いの部活動ですれ違いの生活だったので、果奈は喜んだ。小さい時から自分の事を可愛がってきてくれたお姉ちゃんは、優しくて綺麗で穏やかで自慢のお姉ちゃんだった。


果奈は張り切って母のお弁当作りを手伝いまでした。


「ママ、お姉ちゃんの好きな生ハムのサラダは私が作る」


「果奈は本当にお姉ちゃんが好きねえ」


「だって、お姉ちゃんと一緒にお弁当食べるの何年ぶり? 嬉しいんだもん」


「そうね、果奈が中一の時以来かしら? それにしても、二人とも良い子に育ったわね。小さい頃から、おねだりして泣いたりぐずったりする事もなかったけど」


母が懐かしそうに目を細める。果奈は心のなかで、私にはお姉ちゃんがいたから、と呟いた。おもちゃでもおやつでも、欲しいものは何でも遥香が先読みして譲ってくれた。だから、おねだりする必要もなかった。


「今日は良いお天気になるから、外でお昼を食べるのも気持ちいいでしょうね」


「うん!」


母の言葉に破顔して頷く。


けれど、遥香は。二人きりになるお昼に、覚悟を決めていたのだ。


唯一無二の存在を失う覚悟を。


「お姉ちゃん、サラダは私が作ったの!」


「わあ……美味しそうね。嬉しい」


銀杏並木のベンチで一緒にお弁当を広げる。遥香はサラダから食べた。そっと口にして、顔をほころばせる。


「美味しい。ありがとう、果奈……大好きよ」


「私も、お姉ちゃん大好き」


「そう……でも私の方が大好きよ、きっと」


「そんな事ないよ、だってパパよりママより大好きだもん」


「……そう」


てっきり、遥香は笑ってくれると思っていた。けれど、遥香は俯いて、睫毛が瞳に影を落とす。


「……お姉ちゃん?」


「ええ……分かってる。果奈の気持ちの意味は。でも……」


遥香がまばたきをして顔を上げる。黒く澄んだ瞳が真っ直ぐに果奈を見つめた。


「大好きよ、果奈……世界で一番、愛してる」


もう、姉妹としてだけでは収まらないほど。──その言葉は苦しそうで、果奈は言葉を失った。


「答えは、いつでもいいの。……ごめんなさい、果奈……こんな罪深いお姉ちゃんで……」


風が吹いて、色づき始めた銀杏の葉が目の前をかすめた。


* * *


……それから、果奈は遥香を避けて毎日考えた。


朝練があるからと早くに家を出て、大会が近いからとギリギリまで学校に残って走り込んだ。遥香は何も言ってこなかった。


果奈には、姉である遥香がなぜ急に告白してきたのか分からなかった。ただ、戸惑った。


──大好きなお姉ちゃん。でも。


寂しかった。避けてしまっている毎日が。


「果奈、今日も遅かったのね。部活動とはいえ、帰り道は物騒でしょう。もう少し早く帰れないの?」


ある日、母が溜め息混じりに訊いてきた。


「ごめんなさい。大会が終わったら早くに帰れるようになるから」


「大会、ねえ……長距離っていうのは、大変なんでしょう? 女の子がこんなに痩せて……遥香みたいに文化部には変わる事はできないの?」


「……」


言われたくない事だった。俯いて唇の内側を噛む。こんな時、遥香がいてくれたら、きっと庇ってくれたのに。


部活動に打ち込める事は、将来のプラスになるわよ。そう言って。宥めてくれただろうに。


「……お夕飯、部屋で食べるね」


逃げるしかできない。そう言ってしまえば、遥香からも逃げているばかりだ。


二階に上がり、隣の部屋のドアを見つめる。物音は漏れてこない。静まり返っている。遥香は静寂のなかで、どうしているだろう?


果奈は部屋に入り、遥香にLINEを送った。

 

──明日のお昼休みに銀杏並木に来てください。返事をします。


どう返事をするかは考えていなかったけれど、遥香の存在がない毎日に、その心細さに疲れていた。


眠れない夜をすごして、翌朝、早くに家を出た。大会が近いのは嘘じゃない。


「果奈、顔色悪いよ? 朝練は休んだ方がいいんじゃない?」


先輩に声をかけられる。果奈は笑顔を作って「大丈夫です」と元気そうな声を返した。


初秋の空気は、走る前には心地よく、走りだすとすぐに暑くなった。汗が止まらない。呼吸が乱れる。……おかしい。いつもと違う──。


「──ちょっと、果奈?!」


視界が狭まってゆく。足がもつれて、膝をついてグラウンドに倒れた。もう走れなかった。


「果奈……果奈!」


意識を手離す直前、遥香の声が聞こえたような気がした。


──お姉ちゃん。お姉ちゃん、お姉ちゃん……。


ただ繰り返す。それは、言葉になっていたのだろうか?


誰かが頭を抱いた。膝枕の感触が心地よくて泣きたくなった。


* * *


「……あ」


「……果奈!」


目を覚ますと、白い壁が映った。


そして、遥香の顔が。今にも泣きそうな。


「お姉ちゃん……」


「果奈、ごめんね、ごめんなさい……! 私があんな事を言ったから……いくら果奈にお見合いの話が出ていたからって……」


「……お見合い?」


初耳だった。遥香ならまだしも、まだ高校1年の、とりたてて美人でもない自分にお見合い?


「果奈が中学三年の時の全国大会で走ってる姿を見て……一目惚れしたって……お見合いは十六歳になるまで待つって……」


遥香は言いにくそうに教えてくれた。


「私も、最近になってお父様から聞いたの。だから、焦って……でも」


遥香が椅子の上で手を握りしめる。その手は震えていた。


「それで果奈が損なわれるくらいなら、私なんて消えてしまえばいい……!」


静まりかえった保健室に、痛切な声が響く。俯いた遥香の目から、はたりと涙が落ちた。


「……お姉ちゃん……」


ベッドから手を出して、遥香へと伸ばす。


「……消えないで」


「果奈……?」


手を伸ばしても、遥香へは届かない。めまいを抑えて半身を起こし、握りしめられた遥香の手に自分の手を重ねた。


「果奈、まだ横になっていないと……」


「大丈夫。……ねえ、お姉ちゃん……消えたら嫌だよ」


遥香は本気で言っている。ここで拒絶したら、きっと本当に消えてしまう。


そんなのは嫌だった。


大好きなお姉ちゃん。それが、初めて自分に心情を吐露して涙をこぼしている。


自分が欲しいと。


それは、目の眩むような感覚だった。


「お姉ちゃん……大好きだよ」


心臓が高鳴る。ぎゅっと締めつけられたように苦しいのに、心は今、羽が生えたように軽かった。


「大好き。……お姉ちゃんは特別なの」


「でも……私は実の妹に……こんな」


「いいよ……私も、同じだよ」


多分、それが恋に落ちた瞬間だった。恋に恋をしているだけだと思われるかもしれない。でも、恋に落ちるのに定義なんてない。この想いを、喜びを、偽物だなんて言わせない。


「お姉ちゃん……大好き」


「果奈……許してくれるの? こんな私を……」


迷い子のような眼差しを真っ直ぐに受けとめて笑みを浮かべる。遥香の手を取って、押し包んだ。


「私もだよ。私達は同じ罪に落ちるんだよ。……いいの?」


答えは狂おしい抱擁だった。


* * *


……それから、二人での付き合い方を模索して、昼休みに学校の銀杏並木で一緒にすごすようになった。銀杏の実を嫌がって、他の生徒は来ないからだ。


初めての口づけも銀杏並木だった。


お互いに初めてだったから、ぎこちなく触れ合うだけの口づけ。柔らかく優しい感触に、心がほかほかして照れてしまい、額をくっつけて顔を見合わせて笑った。


「……ねえ、遥香」


「なあに?」


その日は、遥香が膝枕をしてくれていた。朝練で疲れたと話したら、お昼休みはゆっくり休みなさいと言って、申し出てくれたのだ。果奈は恥ずかしいよと躊躇ったが、嫌なはずはない。誰も見ていないわと言われて、甘える事にした。頭を撫でてくれる手が気持ちよくて幸せを噛みしめた。


……けれど。

忘れるわけにはいかないのだ。二人が気持ちを通じ合わせた、そのきっかけとなった事実を。


「……私の、お見合いの事だけど」


「……果奈」


頭を撫でる手が、ぴくりと止まった。


「パパは、本当にお見合いさせる気なのかな? 嫌だよ……」


「そうね……私も嫌よ。でも……お父様のお仕事の関係の方の息子さんらしいわ」


「私はパパのお仕事のためにお見合いさせられるの? 断れないの?」


ベンチに手をついて体を起こす。遥香の苦しそうな表情が、二人にとって辛い現実を表していた。


「お父様に、訊いてみたらどうかしら。その上で、果奈の気持ちを話すの。いくら何でも、果奈に縁談は早すぎるわ。会ってみるだけでいいのかもしれないし……」


「遥香も一緒にいてくれる?」


「ええ、援護するわ。大切な果奈のため、二人のためだもの。……だから、今はもう少し休みなさい。また倒れたら……」


遥香の手が、そっと果奈の頭を包んでから肩に移動する。いざなわれて、果奈は抗わず遥香の膝に頭を預けた。


「……絶対、傍にいてね。約束だよ?」


「ええ、約束。果奈の望まない事なんて私は許さないわ。果奈を守りたいの」


「うん……ありがとう、遥香……大好き」


「私も大好きよ。愛してるわ……私の初恋」


遥香が微かに笑みを含ませて囁く。果奈は顔を巡らせて遥香を見上げた。


「本当? いつから?」


「そうね……物心ついた時には、もう果奈は特別だったの」


「そうだったんだ……私、遥香の初めての人なんだね、何か嬉しい」


照れくさそうに笑うと、遥香は頬を染めて笑い返してくれた。


* * *


その夜、父の帰宅を待って二人は話を切り出した。


「パパ、私にお見合いの話があるって本当?」


「ああ……遥香から聞いたのか」


父は水割りのグラスをテーブルに置いて二人に向き直った。


「私、嫌だからね。絶対にお見合いなんてしないよ」


先手を打って果奈が言い切ると、苦りきった顔をして、「悪い話じゃないんだ」と言い訳する。


「何も、すぐに婚約するわけじゃない。とりあえず会ってみて、交際をしてみて……」


「勝手な事言わないで! 私の気持ちはどうなるの?」


思わず声を荒げると、父がむっとして「お前にとっても良い話だと思うから受けたんだ。それともお前、もう付き合ってる相手でもいるのか?」と詰問してきた。


果奈は、言葉に詰まった。付き合っている人ならいる、両思いだと言ってしまえば、父は許さない、会わせろと言うだろう。本当の事は絶対に言えない。


「……片思いだけど……私にだって好きな人くらいいるよ。もう高校生だよ?」


「それはどんな人間なんだ? 夢見がちな幻想より現実を見なさい」


「なっ……パパひどいよ!」


「……お父様、果奈の心は無視ですか? 正直に話したらいかがです? お仕事のために必要なお見合いだと」


身を乗り出して激昂する果奈の肩に手を置いて、黙っていた遥香が口を開いた。辛辣な物言いに、今度は父が言葉に詰まる。その後、水割りをあおってグラスを乱暴に置いた。


「生意気な事を言うんじゃない! 誰のおかげで何不自由なく学校に通えていると思ってるんだ! 第一、子供のためを思わない親がいるか!」


「お父様、子供のためを思うのでしたら、本人が望まないお見合いなんて無理強いなさらないでください。果奈が可哀想です。果奈はまだ、全てがこれからなんです」


「揚げ足を取るんじゃない! 二人とも部屋に戻れ、顔も見たくない!」


「申し訳ありません。果奈の意思を無視したお見合いを止めてくださるのでしたら部屋に戻ります」


「うるさい! この縁談は良い話なんだ、果奈も将来的には分かるだろう。今は我儘を言っているだけだ!」


「……パパ、つまりは私に婚約しろって言ってるようなものじゃない。私は家の道具じゃない!」


「口ごたえするな! いいから部屋に行け!」


「遥香、果奈……今はお部屋に戻りなさい。お父さんだって考えがあるのよ。頭に血も昇っているし……」


「ママ……だって……!」


「お父さんも色々あるのよ、子供の幸せを願わない親はいないの。今はお互い冷静になる時間が必要よ。二人とも部屋に戻りなさい。果奈は明日も朝練があるんでしょう?」


母がとりなしてきて、父は母に水割りを作るように言いつけ、遥香が果奈の肩を抱いて「私の部屋に行きましょう」と促した。果奈は感情が昂って非難する言葉も浮かばないまま、遥香の手に従って階段を昇った。


遥香の部屋に入り、静まり返ったなかで遥香の胸に飛び込む。


「遥香……私、嫌だよ……!」


「私だって、こんな卑劣な方法で果奈の心が無視されるのは嫌よ……許せない」


けれど。父の口ぶりでは、会うだけのお見合いでは済まないだろう。明らかに婚約、婚姻を望んでいる。


どうすれば断れるだろう? どうすれば遥香とずっと二人でいられるだろう?


「遥香……逃げられないのかな」


「果奈……」


おそらく、家出しても数日で連れ戻される。そうして、監視されるようになる。二人で逃げれば、引き離される。容易に想像がつくのが悲しい。


「……遥香……私の事、どれくらい好き?」


「……愛してるわ、世界で一番」


果奈はその言葉を噛みしめて、遥香にしがみつく腕に力を籠めた。遥香も固く抱きしめてくれた。


……いつか、きっと来る。どちらかが、奪われる。果奈に降ってわいたお見合いの話は、そのうちの一つにすぎない。


失うだなんて、若い二人には耐えられなかった。生まれた時から寄り添ってきた。想いが通じあって、まだ僅かな時間しか共にすごしていない。


全てはこれからだと思っていたのに。現実は容赦なく突きつけられる。


果奈は顔を上げて遥香を見つめた。


「遥香……私も、愛してるの。引き離されるくらいなら……一緒に……」


「果奈……?」


「一緒に……消えて」


「果奈……!」


遥香が打たれたように果奈を見つめる。果奈は眼差しでもすがりつきながら遥香を見上げた。


視線が絡み合う。互いの気持ちを読みとる。果奈は追いつめられている。


「いつかは……私達には、訪れる時だったのね……」


遥香が呟いて、そっと果奈を抱きしめなおした。そして、耳元に囁く。


「明日、はじまりの……」


「遥香……遥香、ごめんなさい……! 私がいなければ、遥香の未来はこんな形で……」


続くはずの悔やむ一言は、重なる唇に吸い込まれた。


「果奈……今夜は一緒に寝ましょう?」


「でも……パパやママに見つかったら……」


遥香が宝物を包むように果奈の頬に手を添える。決意をたたえ、涙を堪えた笑顔が艶然として美しい。


「大丈夫よ。お父様が部屋に来たら嫌だから私の部屋に避難したって言えばいいわ」


「うん……そうだね。実際、嫌だもんね」


「そうよ。……今夜はずっと抱きしめているから、ゆっくり休みなさい」


「嬉しい……最後の思い出になるね」


「ええ……地獄に堕ちても生まれ変わっても忘れない」


「私も……生まれ変わったら、絶対に遥香を見つけるね」


涙混じりに笑うと、遥香が小さな音をたてて濡れた目元に口づけた。


その夜はシングルベッドに寄り添い、もし生まれ変わったらどんな二人で出逢いたいかを語り合って、いつの間にか果奈は遥香の温もりが優しく気持ちよくて眠りについていた。


遥香はその安らかな寝顔を見ながら夜を明かした。見守る目つきは、いつしか愛を貪るように変わり、それを自覚してきつく目を閉じ、気持ちを入れ換える。果奈を起こさないように気をつけながら額に唇を寄せた。


朝、果奈が目を醒ますと、遥香はベッドから出て着替えていた。白い肌が朝日を受けて真珠のように輝いている。うっとりと見とれていると、視線に気づいた遥香が振り向いて微笑みかけてきた。


「おはよう、果奈」


「うん、おはよう……いつの間にか寝ちゃってた」


「可愛かった、果奈の寝顔」


「もう……ずるいよ、遥香だけ……」


果奈が体を起こしてベッドに座り込む。遥香は甘やかす表情で笑って、「じゃあ、部屋に戻って着替えてらっしゃい。朝練があるでしょう?」と言った。


最後はなるべく一緒にいたいと思ったものの、実行するその時までは普段通りに振る舞わなければ怪しまれるし、二人で授業を欠席などしたら探し出されて計画は水の泡となる。果奈は仕方なく部屋に戻ることにした。


「じゃあ、お昼休みにね。……私は準備があるから、もう出るけれど……」


「うん……お昼休みに」


「朝練では思いっきり走ってらっしゃい」


最後に、という言外の言葉に、果奈は大きく頷いた。


遥香は二十四時間営業の薬局に行くという。学校とは反対の方向にあるため、早くに出る必要があった。


果奈は朝練に出て、とにかく走り、仲間と笑い、精一杯にすごした。


──誰も知らない。私が最期の時を迎えようとしている事は。


そう思うと、やるせなさに泣きたくなったが、果奈は努めて明るく振る舞い、学校の日常の全てを眩しく見た。


そして、昼休みのチャイムが鳴ると、すぐに席を立って銀杏並木に向かった。


「……遥香!」


「果奈……来たのね」


遥香はすでにベンチに座っていた。立ち上がり果奈を迎える。ベンチにはスクールバッグが置かれていた。


「……遥香、どうやって……?」


訊ねると、遥香はスクールバッグから薬の入った小さな瓶を四本取り出した。


「これ……蕁麻疹の薬?」


果奈が手に取ってラベルを見る。遥香がその手を包んだ。


「市販の睡眠導入剤と同じ成分が含まれているの。果奈に片思いをしていた頃、眠れない夜に使っていて……どれだけ飲めばいいのか分からなかったから、多めに用意したのだけど……」


「そうなんだ……」


遥香は少しでも苦しまずに逝けるように考えてくれたのだろう。正直、首や手首を切ったり心臓を刺したりするのは怖かった。でも、薬を飲むのも、どんな苦しみがあるのか怖い気持ちはある。


「スポーツドリンクも買っておいたの……でも、果奈……本当にこれでいいの? あなたには未来が……」


「遥香と離れる未来ならいらないよ」


遥香の迷いを遮って言い切る。勢いで薬の蓋を開けた。手のひらに薬を出す。それを見て、遥香もそれに続いた。


「急ごう、遥香。お昼休みが終わっても教室に戻らなかったら探されるかもしれない」


「そうね……果奈、あなたには生きて幸せになって欲しかったけれど……叶わないなら、せめて一緒に……」


二人でベンチに並んで座り、薬を喉に流し込む。二人一緒というだけで、怖さは感じなくなった。


だんだんと胸苦しくなり、頭がくらくらしてくる。体がふらついて、座っているのも難しくなった。


「はる……キスし……」


呂律が回らないなかで、最期の口づけを求める。遥香も同じような状態なのだろう。歯が当たる口づけだった。


そのまま、互いにもたれあう。ぐらりと重心が傾いて、ベンチに折り重なって倒れた。


「果奈……あい……てる……」


「わた……も……」


うわごとのように、遠ざかる意識のなかで言葉を交わしあった。


黄金色の銀杏の葉が、不意に吹き抜けた風に舞い散って二人に降り注いだ。


最後の視界で、果奈はそれを綺麗だと思った。


* * *


……声が、聞こえる。


果奈は辺りを見渡した。


真っ白な世界。何も見えないなかで、慟哭だけが聞こえる。


──見合い話なんて断ればよかった……!


──あの子は嫌がっていたのに、庇ってあげられなかった。


──悩んでいたはずなのに、気づいてあげられなかった……部活でずっと一緒に走ってきたのに。


色々な人の、悲嘆に暮れる声が聞こえて、けれど一番聞きたい声が聞こえない。


「遥香……? 遥香……!」


そこで、世界が消えた。


「楠果奈さん? 聞こえていますか?」


「あ……」


白い天井、機械の規則的な無機質の音。看護師の制服を着た女性。


「遥香……遥香、お姉ちゃんは……」


うわ言のように問いかける。看護師は痛ましそうに──低い声で答えた。


「あなたのお姉さんは……ここに運ばれて来た時には、もう……」


果奈は吐血していたという。それによって薬が吐き出されていたのだと。


「嫌……遥香……遥香……!」


果奈は起き上がろうとして暴れ、ベッドにテープで固定された。退院までは地獄だった。


銀杏並木は、生徒の立ち入りが禁止された。お見合いの話は立ち消えとなった。


退院して、果奈は真っ先に夜の学校に忍び込んだ。両親の監視があったが、夢中になれば容易かった。学校には警備員がいたが、離れた隙を狙って銀杏並木に走った。


──はじまりの……。


亡骸さえ見せてもらえなかった遥香の、微笑みが恋しい。


「遥香……先に逝かせてごめんね」


手には途中で購入したカッターがある。あの時は怖かったけれど、遥香を一人で逝かせた事を思えば何が怖いというのだろう。そんな甘い考えは、とうに捨て去った。


いつものベンチに座って、夜の学校の冷たい空気を吸い込む。散りはじめた銀杏の葉の甘い匂いは遥香の匂いを思わせて、果奈は目を閉じた。


「今行くよ……遥香」


巡回する警備員に見つかる前に。両親が気づく前に。


遥香と一緒の、無の世界へ。


「……大好き……」


囁いて、果奈はカッターを首筋にあてた。


黄金色の銀杏の葉が、紅に染まった。


* * *


「……果奈……果奈」


「……遥香? 遥香なの?」


熱い痺れのような痛みの後に、泣き求め焦がれた声が聞こえた。


「果奈……来てしまったのね」


目の前に、遥香が立っていた。迷わず抱きついて頬をすり寄せる。


「そうだよ……あの時、一緒に逝くはずだったじゃない。遥香は望んでないの? 遥香なしの幸せなんてないんだよ」


すると、遥香が優しく抱き返して背中をさすった。


「そうね……ごめんね、愛してるから……」


「ずっと一緒だよ、遥香……」


口づけは、最期に感じた甘い匂いがした。

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