20.まっさらな歩みを
春の風が、葉子が着ている紺色コットンのロングワンピースの裾を吹き流していく。
ギターのバンドを肩に掛け、葉子は構える。
「その、サングラス、貸して」
「え、これ?」
運転用に蒼が持ち歩いているサングラスを借りて、葉子は自分の顔にかけた。
「ハコチャンネル用に、撮影、いいかな」
「なるほど。いちおう顔出ししていない状態ってことか」
「心配かけたから……」
「うん。いいと思うよ。ライブじゃないから、撮り直しもできるしね。やってみよう」
まだ診察をしてみないと完治とは言えないかもしれない。でも、声が出ているいまのうちに伝えておきたい。葉子の急く気持ちは蒼もわかってくれたようで、いつもの撮影用のハンディカメラを構えてくれた。
ライブ配信の準備はしていないから、録画だけしていく。
二度目の、カメラの前にハコの姿を映す。
レエスの刺繍がある紺色ワンピースの裾が、潮風にはためく中、葉子はギターを肩に掛けた姿で口を開く。
「ハコ……で、す。やっと声が……出ました。皆様、ご心配をかけました。たくさんの、コメントも、ありがとうございました」
蒼が真剣な顔で、サングラスをしている葉子にカメラを向けている。
「今日は、瀬戸内海の、とある島に来ています。撮影はいつものカメラマン、ダラシーノさん。声が出ない私の外出をサポートしてくれています。先日、初めて……、北星がメートル・ドテルを務めていた神戸のレストランで食事をしてきました」
蒼が大沼で撮影をした時は、大沼の湖畔を抜けていく強い風の音が聞こえていた。
今日は瀬戸内の強い潮風が葉子に吹き付けている。
「そこで、北星の背中を見ました。行ってよかったです……。これから皆様に届ける遺作の写真から、皆様がどう感じられるかも自由です。でも、私は、あの人からもらった全てを握りしめて、生きていきます。遺作に込められたあの人の気持ちを責めた時もあったし、でも、そこで彼が私に遺した様々なもの、それのほうが勝っていた。私にはそれが『真実』。皆様の中の『真実』は、また違うものでもいいと思っています。また、唄います――。大沼に帰ったらまた、あの場所で――」
煌めく春の瀬戸内海を見つめる。ここはまったく違う水辺だけど、葉子は鬱蒼とした緑に包まれている優しい大沼を思い浮かべている。
ハコちゃん。いい声が出ていたね。なにか唄ってよ!
緑がきらめく散策道から、あの人の笑顔が現れる。カメラを担いで、毎朝、現れた人。
わたしたちだけの、名もない朝だった。
静かに波打ち際に立っている葉子がそのままなにも言わなくなったので、蒼から『また大沼で会いましょう』とコメントを入れてくれ、録画を終了してくれた。
彼が波打ち際で、潮騒の中、 ただ、ただ、抱きしめてくれる。
静かに包んでくれる彼のほうが泣いている。
---☆
「おかえり」
大沼に帰り、すぐにレストランへとふたりで帰宅の挨拶へ向かった。
厨房で父が腕組み、特に蒼を睨み倒している。
ふたりがいない間は給仕のシフトに大穴が空くので、レストランを臨時休業にしてくれていた。
でも父は厨房でもくもくと試作品を作って過ごしていたようだった。
「シェフ。ただいま帰りました」
そう伝えた蒼が、隣にいる葉子をそっと前へと促した。
「お父さん、……ただいま。ご心配、かけました」
声が戻ったことは、あの後すぐに母に電話をして報告はしていた。
母も泣いて泣いて、『やっぱりねー! ここを離れて、蒼君と一緒にいたら治る気がしたのー!』なんて、思わぬことを叫んでいて、葉子のほうが仰天した。
父も知っているはず。でも、父と母からの連絡はその後もなかった。
葉子の生の声を、やっと父に聞かせることができる。
だが父はまだむすっとした顔で、帰って来た二人を見ている。
だよね。やっぱり、いい歳の娘が男とふたりきりで、瀬戸内の島で二泊もすれば、勘ぐらないほうがおかしい。
「蒼君、俺に報告することがあるだろ」
「はい。神戸の人事のことですが」
「そっちじゃない!!!」
「あ、」
父が目を剥いて叫んだ。蒼もはっと気がついたようだった。
「お嬢さんについてですが、真剣に将来のことを考えています。これからも葉子さんのそばにいたいので、おつきあいをお許しいただきたいです」
「浮気とか、ぜーーったいに許さないからな」
「浮気なんてしたことないですしっ」
「ポルシェ乗っていたんだから、そりゃあ、もうー」
「あー、やっぱりシェフは俺のことを『チャラ男』と思っていたんですね!」
葉子もそう思っていたなと、懐かしくなってきた。
ほんっとにチャラいって感じだったもん――と笑いたくなってくる。
「男の趣味としては良いと思う。でも、女に見せびらかす根性はゆるさんっ」
「ポルシェは、子供のころからの憧れでやっとこさ手に入れたものだったんですよ。それをっ、僕はっ、あなたとお嬢さんと、このレストランで頑張りたいことを選んで、北国の暮らしに馴染むために、手放したんですけどっ」
「最初、葉子をポルシェに乗せようとしつこかっただろ」
「うっわー、四月になっても乗るなとか言ったの、まさか、パパガードだったんすか!!」
えー! お父さん。娘がしつこく誘われているの、察知していたんだと、葉子は驚愕。しかも、父と蒼がまだまだ言い合いを止めない。
「違う!! ほんとに君があぶなっかしいからだ! なんだか、脇が甘いんだよ。ほんっとあれこれ無防備でハラハラする。男前って自覚がなくて、それで、それで、それで……、あんなこととか、こんなこと、数えたらきりがないっ」
「ええっ、そうなんすか! 俺、けっこう、完璧主義ですけど」
「どこがっ、どこが!? びっくりするわ。いまのその言葉、秀星に聞かせてやりたいわ。絶対に言ってくれるわ。『篠田君、脇、甘い! もうちょっと落ち着いて考えてから動いて』――ってさ。安積様のことだって、秀星なら『ただいまデクパージュは承っておりません』ってきりっと冷たくはね除けていたわっ」
「うわ~~、やめてください~。絶対、言われるって、なんか、わかるし~、先輩の怖い目、思い出しちゃう~。給仕長になれたのに、いまも情けなくなっちゃう~」
ぽんぽんと本音で言い合う二人に、葉子はハラハラ。
だが、そこで父が急に「あはははっ、やっぱ秀星が弱み!」とふんぞりかえって楽しそうに笑い出す。
「はあ、ほんとうに。君って憎めないな。いい奴だよ」
父も秀星と同じようなことを言ったので、葉子は驚く。
蒼という男は、そう、きっと可愛げがありすぎて、年上の男たちは憎めなくて、そして、きっと明るくさせてもらってきたのだろう。葉子もそう思う。いつのまにか、蒼に……。
それに父と蒼も、けっこう息が合った言い合いをしていた。
本音でぶつかれる。それはもう、相棒だからこそ。葉子は改めて思う。父は秀星とはまた違う絆を蒼と築いている――。
そこで父が一度黙って、呼吸を整えた。
「今日、早くに矢嶋社長から連絡があったよ」
蒼とふたり揃って、葉子は息を止める。
矢嶋社長は『決定は篠田が大沼に帰ってくるころ、十和田シェフに伝える』ということになっていた。
せっかく彼と結ばれても、彼は神戸に帰ってしまうのだろうか……。
蒼がそっと、葉子の手を握りしめたのがわかった。
矢嶋社長の今年度の人事が言い渡される。
「篠田はそこで『一生メートル・ドテルをやれ』ってさ」
「……一生……?」
「君は、わかりやすすぎるんだよ。社長にバレてるって話だよ。『どうせそちらの大沼に帰ってきたら、篠田がお嬢様のこと云々と言い出すと思うから、お父様ご覚悟を、ですね』――って、笑っていたわっ」
「矢嶋社長には、葉子さんを連れて行った時点でそう思われることは覚悟していましたけれど、一生って……」
葉子も気になっていた矢嶋社長の人事の結果が『一生』という通達の意味がわからなくて、まだ落ち着かない。
なのに父がもう破れかぶれと言わんばかりに、蒼に負けない大声で叫んだ。
「俺も報告! 『フレンチ十和田』は、矢嶋シャンテグループの傘下に入りました。つまり、俺も、蒼君も、一生、矢嶋社長が雇い主。これからは、俺はオーナーのままだけど、君の直属上司で、同僚ってことだ。覚悟しておけ!」
「ぅぇえっ!? 社長からは、大沼に帰るころには、十和田シェフに返答しておくと聞いていたんですけど。ええ!!? どしてそんなことに」
葉子も『えええーっ!!』だった!
それって私も矢嶋シャンテの社員になるのかと、急な所属変更に、帰って来たばかりなのに目が回りそうだった。
「この一年。矢嶋社長と提携して、この人の配下でなら、もう一度『雇われシェフ』になってもいいなと思えたからだよ。しかも、俺が経営するより『予算』がつく」
「実は、俺もっ、神戸にいる時からそうすればいいのにと思っていたんですよ! 自営って大変じゃないですか! ただ、シェフの独立って、誰にも縛られたくないから独立するわけですから、十和田シェフもそうはならないだろうって思っていたんですよ。矢嶋社長なら、勝算あるところは予算をたくさんつけてくれるし……!」
「そういうことだ。つまり、今まで以上に自由に素材が使えるようになる。生産者にも今以上に還元できる。作り手なら、より腕をふるえる環境を選んで当然だろ」
「わー、それって! あの社長に相当気に入られているってことですよっ」
「そりゃそうだ。実力ってやつだ」
「さすが、十和田シェフ!!! うわ~、すげえ。俺、いま鳥肌立ってる!!」
また父が『あははは!! ほんっと君は楽しい』と大笑い。
父がまさかの自営を辞める決意をしていた。矢嶋社長の傘下にはいって、このお店ごと『矢嶋グループ』になってしまえば、蒼もおなじ社員でこの店を続けられる……ってこと?? 予想外の展開に、葉子はおろおろするしかできない。
「社長からの指示は、俺とメートル・ドテルの篠田で、この店を潰さないこと!」
そして、最後に父がぽつりと呟いた。
「これからは、俺と妻、娘と婿、家族で乗り切るぞ。いいな、蒼」
「シェフ……、いえ、お父さん。もちろんです!」
うそ、これで……もう……もしかして、蒼と離れなくていい?
また涙が溢れてきて、せっかく声が戻ったのに、なにも言葉がでてこなくなってしまった。
「あ~、葉子ちゃんが、また泣いてる。どうしたの、どしたの~」
「すまんな。手がかかる娘だと思うけどよ……。やっぱ、蒼君のような大人の男で安心だわ」
「すんません。ちょっと歳いっちゃってますけど」
「ま、いいわ。ポルシェより娘を選んでくれたからな」
「ポルシェと葉子ちゃんを比べたことなんて、ないっすよっ。なんの話っすか。ほんとにもう~。やっぱお嬢さんに婿ができて怒ってるんすよねっ」
「怒ってねえよ。五月に、広島のご両親がこちらに来てくれるんだって?」
「はあ、北海道北海道って浮かれていましたけど、よろしくお願いいたします」
「特別に腕をふるうって伝えておいてくれ。フルコースだけども気楽に来てくれって。両家でたのしい食事会にしよう」
小豆島を出た後、四国の海岸線を楽しんで、愛媛からしまなみ海道をドライブ、蒼の広島の実家へとご挨拶へ出向いた。
ご両親も、秀星のことをよくご存じだったので、葉子は驚く。それだけ、蒼が大好きな先輩だったということ……。むしろ、その秀星のために頑張って写真集まで辿り着いた女性として、受け入れられた感じでもあった。やっぱり、これも、秀星さんが運んでくれたことなのかなと葉子は思ってしまった。
そのご両親が、北海道までご挨拶にきてくれることになったのだ。
秀星が運んでくれ遺してくれたことが、いっぱい。
秀星さん。ハコ、しあわせになるよ。
ありがとう。
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