第86話 エピローグB  ベースボール・フォー・ミー

 女は寝ていた。

 タクシーの車内は眠くなりやすいとは私も思うが、それにしても早すぎる。私が試合中に肩を痛めた話のあたりから、既に鼾をかいていたのだ。さぞ、どうでもよかったのだろう。子守唄になっただけでもマシなくらいだ。

 車内は、女の飴色の香水の香りで充満していた。嫌いな匂いじゃなかった。

 外は土砂降りだった。(ちなみに、私も土砂降りはむらむらとする……一つ、答えたぞ?)

 時計は夜の十一時を指していた。私は、カー・ラジオをつけた。

『こんな投手が、よく200勝目前まできましたね。ビックバン以来の奇跡ですよ』

 私について、200勝を挙げ『殿堂入り』を果たしたとある先人が解説をしていた。

 もうしばらくは、ワイドショーの主役でいられそうだ。あの女と、肩を並べて。

『彼と一度飲んだことがあるんですが、他人の悪口ばかり言うし、ナッツをくちくちゃと汚らしい音で噛むんですよ……』

 もちろん、私は彼とまったく面識はない。

 自分の功績を引き立たせるため、絶賛ネガティブキャンペーン中ってわけだ。

 カーラジオを消した。ひどい渋滞だった。

 女の目的地である夢の島までは、まだしばらくかかりそうだ。私はぼんやりと考えた。

 もう一度現役に復帰し、200勝を狙ってみようか?

 そんな考えが浮かぶくらい、今の私の脳内は軽薄ポップだ。

 ま、とりあえずはこの女を送り届ける。

 それが今の仕事。

 女の寝顔は品位に欠けているが、どこまでも穏やかだった。少なくとも彼女が(あるいは『ゴドーなにか』が)夢を見ている間は、私たちはそこそこに平和なのだ。

 激しい土砂降りの雨が、窓を強く斜めに叩く。牛を撥ねてしまっても、気付かないだろう。

 今はあまり、牛肉ビーフの気分じゃないんだが。

                                        《了》

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ピタゴラス狂いの老兵 肯界隈 @k3956ui

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