第46話 ピ/タ/ゴ/ラ/ス

「帰るよ。なかなかうまかった」

 私が言うと、男は妙に人のいい笑顔を浮かべた。

「そらぁよかった」

「ま、会うことは二度とないだろうが」

「そういうなよ。また、いつか会えるさ。生きている限りは」

「……生きてる限りは、な」

 私は言った。

 順調にいけば、きっと私の方が先に死ぬだろう。

 それも、悪くはない。

「あぁ、じゃあ例の医者の住んでいる住所を教えるよ」

「住所? 病院の場所を教えてくれよ」

「おれの兄貴なんだ。連絡入れておくからさ、家で直接診てもらえよ」

 ばくちを打つと決めた熱い衝動は、すっかり消え失せていた。

 わずかな後ろめたい気持ちと、(しかも、妻に対してではなく、まるぽちゃに対する気持ちだ)肩すかしをくらったときによくある特別な爽快感が残った。

 私は男が座っている椅子の足に掴まり、よろよろと立ちあがった。背中の筋が張り、山のように盛り上がっているような感覚がある。

 テーブルに手をつき、男に話しかけた。

「さっきの合言葉ってなんだ?」

 どうして私はこんなことを尋ねてしまったんだろう。

 きっとまだ酔いが残っているのだ。

 胸がざわざわする。

 誰かが背中を押す。

なにかTHING』?

 バカな。

「うん?」

 男は怪訝そうに声を上げた。

「さっき映画館の便所で言ってたろう。女に電話したら……」

「あぁ、あれか。なんだ、気になるのか?」

「いや……」

「教えてやるよ」

 男は私に顔を寄せた。低い声で、はっきりとこう言った。


 ピ/タ/ゴ/ラ/ス。


 その響きは、宇宙のものに思えた。

 チェンジアップよりも、遥か遠い。

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