第28話 いやいや期
部屋に、監督の妻がトレイを持ってやってきた。
クランブルがたっぷりのアップル・パイと(手作りのようだ)ミルク・ティーだ。
二、三言、息子に「よかったわね」「サインももらいましょうよ」と声をかけた。息子はむっつりと黙ったままだった。
「ゆっくりしていってね。よろしかったら、このあたりのお店をお教えしましょうか?」
彼女は空気を取り繕うように、私に微笑みかけた。
「とっても美味しい牡蠣を出してくれるレストランがあるんですよ」
「お願いします。私は、食に関してはさっぱりで」
「そうなの? ベースボール畑の方は、みんなグルメだと思っていましたわ」
「いえ。妻もほとんど料理もしませんし、毎日似たようなものばかり食べていますよ」
「まぁ。じゃあ、今日くらい贅沢してくださいな。お店の名刺を持ってきますね」
監督の妻は嬉しそうに手を合わせ、去っていった。
しばらく沈黙が続いた。
私はパイを一瞥し「食べよう。美味しそうじゃないか」と息子の肩を叩いた。彼は小さく首を横に振った。
いらないということだろうか。幼い子どもみたいに、なにもかもを拒むのだ。
一口つまんだ。クランブルのざくざくとした触感が心地よい。
こんなにうまいものが食えるのに、何が一体不満なんだろう?
パイを一切れ食べ終わると、空気に耐えきれず「それじゃあ、さっき言ってた店に行こうか」と、提案した。
「いえ、行きたい場所があって」
彼は、初めて私にきちんと伝わる大きな声を出した。私は胸をなでおろし「いいよ、どこだい」と促した。
「え、映画。映画に行きましょう」
アップルパイで少し腹も膨れていたし(やや、バターがしつこかったかもしれない)悪い提案ではなかった。私は頷いた。
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