第26話 まともで哀しい番犬
タクシーで監督の家に向かった。
彼の家は三階建てで、その地域でも明らかにリッチで、景観的に浮いていた。
黄色いポストが眠たそうに立っている。
家の外には、灰色の艶のない毛をした中型犬が座っていた。耳が垂れていて背中が丸い。
掠れた声で、ファフ、と私に対して弱々しく吠えた。金色の、素晴らしく複雑な模様の入った瞳だ。(球の中に、数え切れないほどの対角線がひかれている)
私は「すまんね」と小さく呟いた。
老いた、偉大なる番犬。
私みたいな人間が土足でズカズカと立ち入っては、彼のプライドが傷つくだろう。
敬意を表し、せめて言葉をかけるべきだと思ったのだ。
こんなまともな(哀しい)犬を飼っているのは、ひどく羨ましい。
インターホンを鳴らすと、監督の妻であろう女性が愛想よく対応して、すぐに玄関に通された。
白のブラウスに、紺色のタイト・スカートを纏っている。品が良く、聡明な雰囲気があった。年相応の目尻の皺なども見られるが、チャーミングな人だ。
この女性を差し置いて、私と肉体関係を持つなど、万に一つも有り得ないだろう。
噂がてんであてにならないことは、自分が渦の中心になるとよくわかる。
家の中は天井が広く、正面にすぐ階段が見えた。奥の部屋にはオレンジや赤といった、暖色の家具が目に付いた。
どれも趣味がいい。
遅れて監督が私を出迎えた。白いポロシャツ姿で、タオルを首に巻いていた。
「ちょうどさっきまでテニスをしていてね。ひとっぷろ浴びるところなんだ」と気取った様子で言い、丸く突き出た腹を撫でた。
彼が野球をしているところをろくに見たことがない。ノックや、キャッチボールさえ。
なのにテニスはやるのだから、不思議なものだ。
奥さんは「こんな有名な人が家に来るのは初めてよ」と興奮を隠せない様子で頬に手をやった。
その声の熱に比べ、笑顔はずいぶんと慣れたものだった。男を誘うような、コケティッシュな笑い方。
「息子は二階にいるよ。さぁ、早く行ってやってくれ。ディナーも一緒に頼むよ」
監督は私に近づき、幾ばくかの紙幣を握らせた。
小さなジェスチャーで断りを入れたが、「いいから」と押しつけるだけだった。
彼の妻は、変わらず淫靡な皺を口元に作っていた。
私は、階段を上った。
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