第19話 腐った果実
「あるよ。あるあるよ」
医者は冗談めかし、それから人体模型の左腕を握り締めた。腕を強くねじった。劣化したゴムがちぎれるような音がした。
「話は聞いてますよ。あなた、有名なスクリュー投げだそうで」
「えぇ、まぁ。そういう言い方をするかはわかりませんけども。投手です」
「絵を描くから絵描きでしょう。船に乗るから船乗りでしょう。だから、スクリューを投げるのはスクリュー投げですよ」
「あー、あんたは何が言いたいのか、さっぱりわからん」
話にならない。別の医者を探したほうがよさそうだ。
私は腰を浮かした。だが、医者が上から私の肩を押さえつけた。左肩に激しい痛みが走り、歯を食いしばった。顔をしかめ、身をよじって悶えるしかなかった。
「大丈夫ですかぁ?」
医者はこちらの肩に手を伸ばした。手を払いのけた。
「……触るな」
子どもをなだめるように目を細め、医者は話を戻した。
「ひどい炎症ですねぇ。スクリューってのは、肩やら肘やら、腕の外側に負担をかけるでしょう。少なからず」
「シュートほどじゃないけどな。シュートは肘のことを考えて球種から外した」
医者は私などいないかのように、私越しに後ろの壁を見ているようだった。
「特に、喉元の肉がひどい」
人のことをとやかく言えないようなぶっちょりと弛んだ喉を撫で、彼は言った。
「健やかな喉が、健やかな肩を育てます。痩せないと、これから投げるなんてとてもとても」
私は現在、95キロある。180センチの身長に対し、一般的には重いだろう。
入団時は、72キロしかなかった。ビルドアップして、81キロのときが最も身体が切れていた。
考えてみれば、野球選手ってのは数字にがんじがらめにされている。数字に付きまとわれている。そもそもが、点数を競うゲームなのだから当然か。
――このときの私は、まだ数字に対して無自覚で、無防備だった。(そして平和でもあった)
まだ、数字が持つ秘密について、気付けてなかったのだ。
「喉の肉で投げているんだよ。それで、200勝近く挙げたんだ」
自虐的に厭味を吐くと、彼はため息をつき「ならば牛ガエルは1000勝できますな」と素早く言葉をかえした。
「それに、199勝でしょう? サバを読んじゃあ、いけません」
「……すぐたどり着くさ」
彼はしばらく黙り、団子鼻をぽりぽりと掻いた。
「あなた、なにか甘いものを常食していますね?」
「甘いにおいでもするのか?」
「しませんよ」
医者は言った。
「甘いものが痛んだ臭いがします。腐った果実だ」
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