第8話/傷痕がボールの縫い目(シーム)に見える夜

 先ほどの数字を見れば、野球を知らない人間は私をへぼだと思うだろう。

 199敗を喫し、3979点取られた投手。

 単純計算で、3979本のホームランを打たれたのと同じだ。

 だが199敗した一方、私は199勝を挙げた。これは、そうできることじゃない。199勝400敗だって大したもんだ。

 200勝は目の前だった。


 200勝挙げた暁には、妻に別れを切りだすつもりだった。妻と別れれば自由になれると思った。恥ずかしい話だが、四〇過ぎにもなって、額ににきびが残るティーン・エイジャーみたいなときめきを感じていたのだ。

 それは叶わなかった。

 妻は若く、美しい顔立ちだ。とびきり長いオレンジ色の髪をしている。ただその色は、東洋人らしい控えめな目鼻立ちとは、あまり相性がいいとは言えなかった。

 右の下顎から右の目の下にかけて、大きな傷の縫い痕があった。

 彼女が幼い頃、海で遊んでいたとき、転んでガラス片で切ってしまったのだそうだ。(それは飼い犬と遊んでいた、幸せな時間のはずだった)彼女はそのことをあまり気にしていなかった。むしろ、得意気に話すくらい。

 大けがをした過去というのは、ときにどうしてか勇気を与える。

 私は傷痕を見ていると、ボールの縫い目を連想してしまう。

 程よく指にかかる、うっとりするほど美しい縫い目シーム。私はその傷を愛していた。彼女が眠っている間に、握りを確認したくなるほどだった。

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