第2話/今日の客は、あることないこと言いふらす神さまのようだ
女が手を挙げていた。サテンのドレスからこぼれそうなほどの豊かな胸を揺らし、私に手を振っている。
車を停めると、彼女は後部座席に乗りこんできた。
「夢の島まで、おねがい」
女は言った。ひどく恰好のつかない、映画のセリフみたいだ。潮風で錆びついた言葉。
「道路が混んでますんで、かなり時間がかかりますよ。早くても、一時間以上は」
女はじれったそうに「いいから走らせてよぉ」と甘えた声で催促した。優しく貧乏ゆすりをしながら、こちらの顔を後ろからジロジロと覗いた。
「運転手さん?」
「はい?」
「もしかして、有名人じゃない? その赤い顔……」
「……」
「ニュースかなにかで、見たような……」
「飲酒運転で捕まった、バカなタクシー・ドライバーってところじゃないですか」
面倒なので軽口を叩き、しらばっくれることにした。
私が元ベースボール・プレイヤーだとわかったところで、一体何になるというのだ?
「……あのね、こうやって何かを思いだそうとするのは、脳にもいいのよ? お肌にも」
「申し訳ないですけれど……」
「あ、思い出した!」
女は耳障りな快哉をあげ、無遠慮にミラー越しに私を指さした。
「あー、すっきりした。あー、また若返っちゃう。あー、すっきりした。貴方ベースボール・プレイヤーよね。あたしの旦那がね、ファンだったの。こないだ引退したのよね?」
「えぇ、まぁ」
「どうしてタクシー・ドライバーなんかに?」
なるほど、もっともな疑問だ。私くらいのレベルの選手なら、引退後も解説者であるとか、コーチだとか、今までのキャリアを活かす方法はある。ただ、その道を選ばなかった。
「わかった。たしか、引退セレモニーでやらかしちゃったんでしょ? それが原因? どう? あってるでしょ?」
彼女はクスクスと笑った。
「一躍ワイド・ショーのスターだったものね。旦那がびっくりしていたもの」
女は好奇に満ちた粘っこい視線を、私の後頭部に突き刺さした。あらゆる人間がそうしてきたのと同じように。(そして温くなったバターに、包丁を突き立てるように?)
私は鈍い深海生物となり(そしてムニエルとなり)視線を払いのけるほかなかった。
私にとって、球界にこれ以上いることは苦痛で許されないことだ。
周りも許すことはないだろう。実際、それだけのことをしたのだ。あの引退セレモニーでの私のスピーチは、誰しもを不気味がらせた。
「ねぇ、聞かせてくれないかしら? 暇つぶしにちょうどいいでしょう?」
「貴方の暇つぶしにはなるかもしれないけれど、私は話したくないんですよ」
「話してくれないと、あそこの交番に駆け込んであることないこと言うわよ? ねぇ、あたしお客さんなのよ? 神さまよ?」
面倒な客を乗せてしまったもんだ。私は大仰にため息をついた。
「……少しだけですよ」
女は、子どものように手を叩いた。
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