07 路地裏にて、美夜子

 とりは、さいたま新都心にあるおおみやの街を歩いている。

 繁華街ではあるが、ここは人気の少ない裏通りだ。

 人混みを避けてというよりは、単に最短進路を取ろうとしているだけ。仮に混雑していようとも、この道を選んでいただろう。

 何故ならば、大宮に住むようになってから日も浅くまだ地理がよく分からず、のりまきさぶろう青年と歩いた道しか知らないからだ。


 そんな土地勘のまったくない彼女が、現在なにをしているかというと、研究所でのメンテナンスを終えて自宅アパートへと帰るところである。


 狭い道を向こうから、親子と思われる二人が手を繋ぎながら歩いてくる。三十くらいの女性と六、七歳くらいの女の子。普通に考えて母と娘だろう。

 会話内容やくつろいだ表情からも、そう分かるというものだ。

 女の子は、今日学校で起きたらしいことを楽しげに話している。

 体育での、かけっこのことらしい。


 身振り手振りで語るその可愛らしさ無邪気さに、美夜子も知らず微笑んでいた。

 反面、胸の中ではちょっと寂しく羨ましい、さらには後悔に似た思いを感じていた。

 なにが羨ましいのか、悔やまれるのか、というと自分でもはっきりとは分からないのだが。

 もうこのような日々には戻れないが、この女の子のような、ここまで楽しげな笑顔を、自分は作っていただろうか、母に見せられていただろうか。そんな後悔だろうか。

 それとも、きっとこの子にはお父さんもいるのだろうし、しっかり両親が揃っていることへの妬みだろうか。

 でもそれはこちらの勝手な気持ち。そもそもこの女の子が本当に幸せかどうかなんて、本人にしか分からないことだ。


 そんなことを考えていると、いきなりズキッと胸に痛みが走った。

 美夜子に心臓はないし、心臓にあたる動力部も右腕だ。つまりは、心に痛みが走ったということだろうか。

 女の子の幸福を疑う、そんなことに慰めを見出そうとする、自分の黒い部分に良心の呵責を感じたのだろうか。


 でも、ならどうすればよいのか。

 自分のような者がこうした状況に直面して、なにをどう思えばよいのか。

 と、苦い顔を作る美夜子であるが、そのなんともいえないモヤモヤ感は一瞬で吹っ飛んでいた。気の持ちようの話ではなく、それどころでないことが起きたのである。


 遠くから突然、男性の大きな叫び声が聞こえたのだ。

 捕まえてくれ、というような叫び声であっただろうか。


 次の瞬間、美夜子はびくり肩を震わせて目を見開いていた。

 脇道から飛び出し現れた黒縁眼鏡の小太り男が、まるで殺されそうというくらい必死の形相でこちらへと走ってくるのだ。

 小脇になにかを抱えながらも全力で走ってくるその男と、視線が合ったその瞬間、美夜子は身の危険を感じてまた肩を震わせた。

 危険を感じたのは正しかった。

 男が、くっと少し進路を曲げて、こちらへと飛びかかってきたのである。

 ただし、こちらといっても美夜子に対してではなかった。すぐそばを歩いていた母娘の、母親を激しく突き飛ばすと、女の子の首に手をかけて後ろへと回り込んだのだ。


 バタバタ足音がし、二人の若者が小太り眼鏡の男を追うように脇道から飛び出してきた。


「いたぞ!」


 一人が叫んだ。


 逃げてきた小太り眼鏡の男は舌打ちすると、女の子の身体を後ろから押さえつけたまま、もう片方の手をズボンのポケットに突っ込んでがさごそまさぐる。


「こいつ、ひったくりなんです!」

「通報したからな!」


 追いかけてきた若者二人が、小太り眼鏡へと近寄ろうとしたその時であった。

 小太り眼鏡が、手にした物を女の子の肩越しに前へと突き出したのは。

 高熱ヒートナイフ。

 切っ先部分だけが瞬時に超高熱を帯び、鉄をもたやすく溶かしつつ切り裂くことが出来るナイフである。

 例え取扱資格を持っていようとも、刃物であるため当然のこと公道での所持は違法のはずだ。それを、男は取り出したのだ。


「おおお前らには関係ねえだろうがあああ! これ、お前の物かああ? これ、お前らの物なのかよおおお」


 小太り眼鏡は、ぶるぶる震える低い声を発しながら、小脇に抱え持っている女性用のハンドバッグを高く掲げた。ある程度高齢の女性に似合いそうなハンドバッグだ。


 ようやく美夜子は、状況と怯える息とを飲み込んだ。

 二人の若者がいう通り、この小太り男性はひったくり犯なのだ。

 お年寄りからハンドバッグを奪ったはいいが、大声で叫ばれるなどして、近くを通っていた二人の若者が正義感から追いかけることになったのだろう。


「ひったくりごときがでっけえことしねえって舐めてんのならあ、おれはやるってとこ見せてやるぞお!」


 状況は飲み込めたが、いっていることの意味が分からない。

 ああ、所詮はひったくりで手荒な真似などはしないだろう、と甘く見ていると大間違いだぞ、ということか。

 でも、やるってところを見せるって、なにを……


 美夜子たちの見ている前で小太り眼鏡は、手にしたナイフをゆっくりと女の子の顔へと近付けていった。


 そういう、ことか……

 殺すとか、傷をつけるとか、そこまでするつもりはないのかも知れないけど。この場を逃げられえすれば。

 でも、そのためにも、本気であると思わせようと、女の子の顔に傷をつけるくらいはするかも知れない。


「お母さん! お母さん!」


 顔に熱せられたナイフを近付けられる恐怖に、女の子が涙目になって叫んでいる。


 お母さん……

 お母さん……


 その恐怖に震える声が、母を呼ぶ声が、美夜子の記憶と同調し、美夜子の頭は真っ白になっていた。


「やめろおおお!」


 無意識に、怒鳴り声を張り上げていた。

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