第8話 ひったくり男の事情 ②

「とりあえず、お前の両親の件は俺が預かる。不審な点が多すぎやし、まだ聞きたいこともあるから、後でゆっくり聞かせてもらうわ」


 黒河内さんは息を吐いて怒りを逃した後、椿さんにそう伝えた。


 これで椿さんのご両親の話は一応終わりを迎えた。


 高校生が聞くには重すぎるから、終わってくれてよかった。



 その後、黒河内さんが「ひったくりの件やけど」と話し出し、ようやく本題に戻った。


「ひったくりをしても400万なんか返せんのに、何でそんなことしたん?」

「……ばあちゃんが倒れて入院して、入院費用もなくて、もうどうしていいか分からなくて……。バッグを見たとき、魔が差してしまって……」


 そう言いながら椿さんは立ち上がると、「本当に申し訳ありませんでした」と寺岡さんに向かって深々と頭を下げ、何度目かになる謝罪を繰り返した。


 「ひったくりをしたんは初めてなんか?」と寺岡さんが椿さんに尋ねると、頭を下げたまま「はい」と椿さんは答えていた。


 寺岡さんはどうするのだろうと思いながら、私は二人の様子を見ていた。



◇◇



「とりあえず、お前は今から俺と署に向かうから」

「はい」

「寺岡さん、被害届を書きますんで、ご足労いただきたいんですが、お時間はおありですか」

「そのことなんやけど、刑事さん、バッグも戻ってきましたし、私は怪我もしてませんし、こうやって何度も謝ってもらいましたから、被害届を出すんはやめておこうと思います」

「それでええんですか」


 黒河内さんの問いに、寺岡さんはしっかりと頷いている。



 その後、寺岡さんは椿さんのほうへ顔を向け、

「そんなひったくりで得たお金で手術を受けても、おばあちゃんは喜ばんのとちゃうか? 私やったら嫌やわ。孫が罪を犯して手に入れたお金で手術を受けたいとはよう思わん。これ以上、おばあちゃんを悲しませるようなことはしたらあかん。もう絶対に悪いことはせえへんって約束できるか」

「はい、約束します……、本当に申し訳ございませんでした」

 椿さんは目に涙をためながら寺岡さんに頭を下げた。


 寺岡さんは椿さんの側に行くと、おもむろに手を上げたので、優しく椿さんの背中をさするのかと思いきや…


パ――――ンといい音が響いた。


 いい音を響かせ椿さんの背中を思いっきり叩いた。椿さんも叩かれたことに驚き、きょとんとしている。


「しっかりせえ! ええか、お天道様はちゃんと見てくれてるんやで! 背筋伸ばして、前向いてこれからも頑張るんやで! あんた、まだ若いやろう。いくつなん?」

「……20歳です」

「20歳か。20歳で 一人で全部しょい込むんは、しんどかったな。借金返済のため一生懸命働いてきたんやろう。今までよう頑張ってきたな。けど、その頑張りを無にするようなことだけはしたらあかん。ええか、悪いことは絶対にしたらあかんのや!」

 椿さんは、とうとう嗚咽を漏らし始めた。



 どんなに辛くても、ひったくりを選んだ椿さんは間違っている。


 そんな正論を言うのは簡単だ。


 だけど、だけど……。


 もし力になってくれる人や助けてくれる公的機関などがあったなら、椿さんはひったくりなんかしなかったかもしれない。


 やりきれない気持ちが溢れ、胸が痛くなった。今の私は椿さんの力になることさえできない。己の無力さを思い知ることしかできなかった。


 当たり前だと思っていた日常は、決して当たり前ではなく、ありがたくて幸せなことなんだ。

 今まで何も考えずに享受していた自分が恥ずかしかった。




 何気なく九条さんを見ると、寺岡さんと椿さんが話している横で顎に手を添えて考え事をしている。そして、黒河内さんのところに行くと、二人でひそひそと話し始めた。



 私はどちらの会話にも加わることなく、寺岡さんと椿さん、九条さんと黒河内さんをただ見ていた。







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