逢瀬

紫陽_凛

 

 あなたが私の手を初めて握ったのは10歳の時だった。ちょうど社会科の映像学習の時で、誰もそのことに気づいていなかった。すぐ隣の席だったあなたは私の手をそっと指で引き寄せて握り、力なくくっつけていた。わたしは最初、あなたが何のつもりだか、わからなかった。


 あなたがわたしのことを好きだと、噂好きの友人づてに知ったときにはもう遅かった。すっかり席替えをしてしまって、あなたは遥か彼方だった。すごく遠くに行ってしまったみたいだった。

 わたしはあなたを憎からず思っていたみたいで、あなたのちょっと汗ばんだ手の感触を忘れられずにいた。かつて隣の席だった男の子は、途端に不思議な異性に変わってしまった。わたしはあなたの姿を目で追ったし、わたしも時折視線を感じた。あなたの、すがるような目を覚えてる。


 中学校に上がってもあなたは時折わたしの手を握った。さりげなく、そっと、偶然触れてしまったみたいに握った。あなたはきっとわたしのことが好きなのだろう、そうわたしは思ったのだけど、言い出せなかったの。「あなたわたしのこと好きでしょ」だなんて、そんなことを言える性格じゃなかった。そしてあなたも、好きな女の子に「好きだよ」って言えるような性格じゃなかったんでしょうね。わたしたちは付き合わずに、別々の高校に行った。



 わたしは、高校で彼氏を作った。相手は先輩で、入学してすぐだった。……男子高に行ってしまったあなたはどうだったんだろう。他の女の子と、あるいは男の人と、何かあったんだろうか。交換したメールアドレスには何の連絡もなかった。

 あなたの噂はチラとも聞こえてこなかったし、わたしは目の前に降ってわいた春に夢中だった。彼は情熱的で、何よりわたしを好きだと、好きなんだと、言葉にした。高校を卒業したら、結婚を前提に交際しようとまで言ってくれた。

 もちろん、あなたの姿がちらつかなかったといえば、嘘になる。わたしの手を握って頬を少し赤らめて、何も言わずに黙っていたあなたのことを思い出さなかったといえば、嘘になるのだけど……

 けどね、やっぱりあなたはわたしに、好きと言わなかった。わたしもあなたに好きと言わなかった。

 だからわたしは、高校で知り合った彼と結婚することになった。タイミングをはかって、二十歳で、人妻になった。






 結婚して、あなたのことなんかすっかり忘れてしまっていた。怒らないで。わたしも人の妻だから、色々あるの。

 ……あなたの夢を見るようになったのは、1週間くらい前だったと記憶してる。ぴったり、1週間前。

 1人で眠っている私の元に、あなたが忍んでくる。最初それがあなただって、夢だってことすらも、私は気づくことができなかった。知らない男が来たと、思った。

 ──でも、手を握られたら全部思い出した。隣の席の男の子のこと。わたしが好きだったあなたのこと。

 あなたは、わたしが知っている中学生の姿のまま……ではなくて、わたしの脳みそが、好き勝手作り上げた理想像として夢に現れた。あなたは寡黙で、逞しくて、背が高くなっていた。風の噂で、消防士になったと聞いていたからかもしれない。


 不思議と夢の中に夫は出てこなかった。

 だからわたしたちは、夢の中でだけ──まるで恋人同士のようなセックスをした。あなたはわたしの手を何度も握った。何度も、何度も握って、汗で滑っては握り直して……わたしはようやく気づいたの、それがあなたなりの「好きだよ」だったってことに。

 夢は何夜も続いた。あなたはそれから毎晩、わたしのもとを訪れて、わたしの手を握って、わたしを抱いた。だけど、わたしたちは決してキスはしなかった。これはきっとわたしの罪悪感だ。夫がいながら、他の男を、あなたを好いていることへの罪悪感だった。


「ねえ」

とわたしは言った。あなたは何も言わず、わたしの言葉を聞いていた。

「あなたがわたしにそうと言ってくれたら、わたし、あなたと結婚したと思う」

 あなたの表情は見えなかった。何を考えているかやっぱりわからないまま、あなたは私の手を握った。あなたの気持ちが、あなたの指先を伝って、わたしに流れ込む。


──好きだよ。

 それは言葉じゃなかったの。

 あの日、10歳のあの日、好きな女の子の手をそっと握ったあなたに他ならなかった。でも、そう聞こえた。そう感じた。




 そうして目が覚めたとき、隣には夫が眠っていて、ぐうぐういびきをかいていた。

 あなたはいなくて、どこにもいなくて──それなのに、わたしのからだはぐっしょりと濡れていた。まるでいままで、あなたと本当に抱き合っていたかのように。わたしの女の部分は、夢の中であなたに暴かれたときと同じように、ほてっていた。

 メールの着信があった。あなたのアドレスからだった。わたしははやる気持ちを抑えて、それを開いた──。

 


 あなた、1週間も前に、殉職していたのね。

 消防士として、炎に巻かれて、亡くなっていたのね。あなたの弟さんが、あなたのアドレスを使って寄越したメールは、一斉送信で、あなたの死を伝える最低限の言葉が綴られていた。

 

 そうしたら、腑に落ちた。あなたが夢に現れたことも、夢の中でわたしを抱いたことも、手を繋いだことも、全部が腑に落ちたの。

 あなたはわたしのところへ来たのね。死んですぐ、わたしのところへ。そうして手を握ったんだ。


 あなた。


 わたしは結婚指輪をした左手を見下ろして、全てが遅いことを確認して、顔を覆った。

 わたしはあなたと手を繋いでいたかった。

 ねえ、あなた。好きだよって。そう言えばよかったのに。たった一言でよかったのに。

 わたしたち、臆病だったのか、寡黙すぎたのか、どっちなんだろう。でも、言えなかったことをこんなに悔やむ日が来るなんて思わなかった。

 

 涙は止まらない、そして、

 わたしは死んでしまったあなたをまだ愛している。


 あなた。

 





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逢瀬 紫陽_凛 @syw_rin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ