第22話
「おっきいし、きれいねぇ」
足元を照らすゼラチンみたいな灯りをジンが眺めていると興奮したヒメの声が聞こえてきた。
大きな水槽をヒメが楽しそうに眺めている姿に割れたらどうするんだろうと余計なことがちらつく。圧迫されている水が噴き出し、何もかも流すのはだいたい一分にも満たない時間。その間を耐えきれば生存率はぐっとあがるはず。
自分で誘っておいてジンは魚より、非現実すぎる施設が気になってしかたがなかった。
足下で水の膜を孕んだ光はぶよぶよと揺れている。残念なことに踏みつけても感触はない。
「かわいいし、きらきらしてる」
どの魚というわけではないが手前の水槽に顔を近づけ、ヒメが嬉しそうに言葉を紡ぐ。
ヒメが好きそうなところ、と思って誘ったのは間違いなかった。
メール相手からも【相手の好きなところに誘って、デートしてみたら】とアドバイスをもらった。
ものは試しにヒメがテレビを見ながら行きたいと口にしていたので誘ってみたのだ。内心、二つ返事で承諾されたときには安堵のため息が漏れた。こんなにも緊張するのはジャームと戦うときだってない。
ジンは仕事のあと、ヒメは大学の授業のおわりに駅前で待ち合わせをした。
水族館のチケットは二枚分、ジンが支払った。ヒメがもの言いたげに見てきたが、あえて無視した。こういうのがデートでは普通だとネットで書いてあった。
都内に出来たビルの一角に作られた水族館は都市内部でゆっくりと魚が見れると好評だ。平日の午後の早い時間でも人の姿がちらほらと見える。
「ジンさん、魚見てる?」
「うん。黄色や赤色がいるなって」
名前のわからない魚たちの動きは規則性がなく、自由で気持ちよさそうだし、見ていて飽きない。
「色で見てるのちょっとわかる。魚って色が鮮やかよね」
「ヒメさんも鮮やかですよね」
「化粧が濃い? うう、やだなぁ。薄めにしたつもりなのにぃ」
秋川の褒め言葉を真似したつもりだが、ヒメがしゅんとしている。
「……そうじゃなくて、明るい色が、ヒメさんは多いなって、身に着けるものとか全体的に」
「明るい色のほうが、かわいいじゃない?」
あっけらかんとヒメは言う。
「アタシ、大きいから、明るい色だと可愛く見えるでしょ?」
「ヒメさんに似合う色だと思います」
「ありがとう。けどジンさんみたいな落ち着いた色も好きよ。アタシには似合わないけど」
「そうかなぁ」
ヒメはとても明るい色が似合うし、自身も眩しいくらいの色を抱えている。
この世界のすべてには色がついている。少なくともジンにとってはそうだ。死は黒、生は白。怒りは赤、悲しみは青。はっきりと見えるわけではないが、それが纏う色がなんとなく、うっすらとイメージしてあてはめて判断する癖がついた。
大切な何かを失ったとき、死は赤色だと理解したせいだ。
それがいつの間にか黒に変わった――殉職した中の間の葬式のときだ。黒の服を纏う人々、白い旗がはためいていた気がする。黒と白が死に飾りをつけて3鮮やかにする。
星は輝き砕けたときのような――なぜかいつも連鎖するイメージ。
何かとても大切なものが欠けたときのように。
色が鮮やかであればあるほどに死んでしまったとはっきりと理解できてしまう。
ヒメの色がはっきりとして、眩しいと思うのは、死に近いはずなのに、生の強さがあるからだ。
たいしてジンは自分が濁ってはっきりとしない灰色のように感じる。罪悪感や背負っているもののせいか、それとも別のもう一人のせいなのか定かではないが、今だってぼんやりとした色を抱えている。
「ジンさん、先に言っておいてもいい?」
「はい?」
「今日の夕飯、お魚だから」
ヒメが真剣な顔で告げる。
「……食べたくなったんですか?」
魚を見ていたから。
「ちが、ちがうの! ずっと決めていたんたけど、こう、ここにきて、夕飯出したら、そう思われるかなって」
焦るヒメにジンはくすくすと笑った。
「ここで言ってもそうなりませんか?」
「うっ……! 確かに」
ころころとヒメの表情はよく変わり、色もかわる。おかげでジンの濁った色が、中和されて、溶けて、その色をもらう。
ヒメがどきどきしているとき、ジンもどきどきする。たぶん、共感しているのだ。強い気持ちに。
ヒメの物言いだけな視線や自分にだけ向けられた言葉に染まる。今も。ヒメの恥ずかしいっとしきりに照れてはにかんでいる――赤に灰色を交えて、淡いピンクにしたような色がつく。知らない色の、知らない味、そして感情を。ヒメといるといつもそうだ。
今までの恋人はもっと淡泊だった。あのときはいつも傷ついている色と痛みの感情ばかり向けられた。
何気ない会話一つに、照れと不安と高揚が押し寄せるなんてなかった気がする。
死に近い鮮やかな色が自分をじわじわと浸蝕していく。
「魚介丼しようかしら」
「出来るんですか?」
「たれにつけたらいいだけだから……お吸い物もさくっとできるし」
「じゃあ、それで」
「魚を見ながら魚食べる話しちゃうのってほんと、だめねぇ」
自分の滑稽さにヒメはけらけらと笑うのに、ジンも目尻を緩める。
「あ、くらげのコーナー……うわぁ、いっぱいいる」
「ほんとだ」
いろんな形の水槽のなか、溢れるほどいれられたくらげの群れが漂う。ふわふわとしたその姿はまるで雲のなかだと錯覚させる。
「……ジンさんみたい」
「くらげが?」
「うん。掴みとごろがないかんじが……あ、大人だっていう意味でね。あとくらげって、死ぬときに溶けて消えちゃうんだって」
水のなかに溶けて、どろりと消えて、なににもなれない。けれど確かにあったそれを誰かが食べて、取り込まれていく。
それは自分のようだし、もう一人の――色だってありはしない。
「見てるとね、はっきりと思う。いつか死ぬんだって」
当たり前のことなのに、よく忘れてしまう真実。
「きっと死ぬときはくらげと同じ。だからさ、いやなことを我慢して生きるなんていやだなって思うのよねー。いつか死ぬとき、後悔したくない」
潔い言葉とともにヒメが、ジンの手をとった。
「ときどき、ジンさん、どっかに行きそう」
「行きませんよ」
「うん。けど、本当は、行きたいのに、我慢してるみたいだから、行くときは言ってね」
「言ったらどうします」
「そしたら、ついていくよ」
ヒメが言い返す。当たり前みたいに。
「だめって言ったらこそこそあとつけるかも」
「あとをつけるんですか?」
「だって、ジンさんといたいもん」
水が孕んだ光は鈍く輝く。ヒメを通して、手をとったところからじんわりと、ぬるく、あたたかく、うっすらとした色を帯びて、不安と愛しさが伝わってくる。
その色をちゃんと捕らえたい。
ジンはヒメの手を握り返した。強くぎゅうぎゅうと、そうすると、ヒメがうひゃあと小さな悲鳴をあげた。
幸いにも薄闇のなかだと、誰かに見られたり冷やかせることはないから指を絡めると、一瞬、ヒメの肌が震えた。
「やばい、手汗が……ジンさんはなし」
「いいですよ。このままで」
ヒメが、闇の中でもわかるくらい真っ赤な顔でこくんと頷いた。
許されたのに、指に力をこめる。肌の触れる部分全部からぬくもりが伝わり、心臓が高鳴る。ヒメの音が自分の音になる。
くらげがゆらゆらと泳いで、沈んで。いつか消えるときを待っている。
「あのさ、病院の紹介状とかジンさんにお願いって出来る?」
「……なにかあったんですか」
「はっきりさせちゃおうって」
「はっきりさせる?」
「性別をさ、戸籍だけでもね。ほら、先も言ったでしょ。どうせ死ぬなら楽しく生きたい。アタシ、いつか、好きな人のお嫁さんになりたいなぁって思ってるんだ」
それって僕の? と唇から出かけた言葉はヒメのきらきらとした笑顔を前に飲み込んだ。まだ何も準備をしていないことに気がついたからだ。
「ちゃんと調べて用意しておきますね」
「そんなに大変だったけ? けど、ありがとう。ジンさん」
ほのぐらい闇のなかで水槽を眺めながら移動していくと、明るい光が出迎えられた。さすがにそのときは手を離すしかなかった。
光のした、照れて伏せ目がちのヒメはジンをちらちらと見て、視線が合うと俯いてしまう。そういうわかりやすい態度にジンもつられて照れてしまう。
可愛いと反射的に思う。
色がつくのがわかる。
透明で、濁っている、そこに、とろりと色が流し込まれていく。
あたたかい、やさしい、もっともっと、ほしい。
「あ! みてみて。エイ」
この水族館で一番大きな水槽のなかで優雅に泳ぐエイは白い腹を見てふわふわしている。
「写真とれた。ジンさんもいる? かわいいからとっちゃった!」
「……」
「ジンさん?」
「ヒメさんに似てるなぁと思って」
「ふぁ! エイが? アタシ、エイみたい?」
「うん。エイみたい」
ふわふわと泳いで、にこにこしているところがと言おうとしてヒメがえ、えっと言いながら恥ずかしがっている。
「写真もらえます?」
「う、うん。送るけど……エイか、エイかぁ~」
とても複雑そうな顔をされたので、また間違えたのかとジンは少しだけ反省した。
けれどひらひらと泳いで、ふわふわと笑っているエイはヒメぽい。
ずっと見ていても飽きないくらい楽しそうだし、一緒に泳いだら気持ちいいだろう。
ついていく、とヒメは口にしたがついてこなくてもいい。自分がヒメについていきたい。
欲望がひとつ、わかった。自分はヒメについてきてほしいんじゃない。自分がヒメについていきたいのだ。ヒメの与えてくれるものがあまりにも優しくて、とてもうつくしいから。
ヒメは自分を否定したりもしない。強制もせず、居心地がよくて、安心出来て、ここが居場所だと思いたくなる。
ただくらげである自分はきっとあんなにもしっかりと泳げない。
「大丈夫、ジンさんがふわふわしていたらアタシも一緒にふわふわって泳ぐから」
「……ヒメさん、今、エスパーしました?」
「違うよ。真剣にジンさん考えてるから、きっとくらげだとエイに近づくの大変だろうとか考えたのかなぁって。それくらいわかるよ。だって、ジンさんのことずっと見てるもん。全部わからないけど」
「そっか。そうですね……」
水槽のなかでエイがくるくると踊るみたいに泳いでる。
土産のコーナーに足を踏み入れるとヒメはサメのぬいぐるみが気に入ったらしく、抱っこしてふわふわ具合を確かめている。
「買います? プレゼントしますよ」
「いいの?」
「ほしいなら」
「だっこすると気持ちいいなぁって……けど、これ抱き枕だから寝るときも抱っこするんだぁ。ふわふわだ」
「じゃあ、だめ」
即答したジンにヒメが噴き出した。
「うん。大きいし、ベッドが狭くなるものねぇ~」
そういう意味ではないが、未練はないらしく、すぐにぬいぐるみを棚に戻した。
「ヒメさん、抱っこされたいんですか?」
「うーん、差さえがほしいときはあるかな。わりと家事のときとか座り仕事が多いから」
ああとジンは納得した。
ヒメは料理の中、ときどき座って具をこねたり、調味料を作ったりしている。
「ジンさんもじゃない?」
「医者ってわりと立ち仕事なんですよ」
場合によっては走り回ることも多いから、足腰は鍛えられている。
「そっか。けど、肩こりとかしてそう。今度マッサージするわよ」
「ヒメさんだって大変なのに」
「アタシがしんどいときはジンさんがマッサージしてよ。あんまりこるほうじゃないけど、うーん、なんかクッション買おうかなぁ」
「ヒメさんが支えてほしいときは、僕の間に挟まればいいんじゃないですか?」
「え、いや、それは」
「だめですか? 僕ちゃんとヒメさんのこと支えますし、必要なら抱えますよ」
「……あ、うん。じゃあ、今度家で座るときはジンさんに挟まる、ね」
ヒメが呆気にとられた顔をしたあと笑って頷いてくれた。間違えただろうかと思ったが楽しそうなヒメにジンも楽しくなる。
これが共感。
わかりやすくて、つかみやすい感情の色を流し込まれて、どんどん変えられていく。怖いようで、気持ちよくて、ついつい手にとってしまう。つかんでしまったら、もう離すなんて考えられなくなる。
結局土産は買わなかったが、それでもヒメは心から楽しんでくれていた。
外に出ると、水槽に囲まれたときのような薄闇が広がっていた。果てのない闇色のなかにぽつぽつと灯りが照らして、世界を染めていく。
ヒメが、そっと手をとってくれる。
「いいんですか」
「アタシ、ジンさんの手、掴んでたいよ」
「はじめのころ、掴んでくれなかったのに」
あのときは服の端っこを掴んできた。
手が大きいことを気にしていると言われてそんなことないのに、と思った。
つやつやの宝石みたいなネイルのついた手は、可愛い。
「うーん、うーん、まだそれを根に持つんだ。だって、恥ずかしかったし……というか、今日はどうして、ここに誘ってくれたの?」
「ヒメさんが見たいって言ってたから」
「ああ、テレビで宣伝してたから……え、それで誘ってくれたの? うそ。えーえーえーー、どうしよう」
「ヒメさん?」
「うれしいからすごく困ってる!」
「よかった」
「ええっ、ジンさん、顔がいい~」
ヒメが小刻みに震えて、あ、もうむりぃと口にして手で顔を覆った。
「すごくうれしいけど、すごくうれしいけど~~。嬉しすぎてうまく言葉に出来ないよ~~! やばい、いま死ねる」
「どうして? 死ぬのはなしで教えてください」
ヒメがようやく顔をあげて気まずそうに視線を逸らしながら
「どうしてって、それって、ジンさんがアタシのこと考えて、喜ばせようとしてくれたんでしょ? すごくうれしいよ~。あー、失敗した。もっとおしゃれすればよかった」
「じゃあ、今度また誘いますよ」
「え、えぇ~。そんなこと言われたらアタシ、どきどきしすぎて心臓止まるよ。ジンさん」
「それは困ります。もう誘えなくなります」
「でしょー。え、もしかして、それでチケット代とか出してくれたの?」
「うん、あ、いや、はい」
「ふふ、素のジンさんって可愛いね。んん、とそうじゃなくて、奢ってもらえるのは嬉しいけど、なんでだろうと思ってたから納得したわ」
そういう印象だったのか。自分とヒメの認知の差は――知識の偏りのせいかとジンは思い直す。
まだ好きとは言わない。言ったらたぶんヒメは困り果てる。自分もまだ自分の気持ちがわからない。けど、この空間と、この時間と、ヒメを離したくない。
あ、そっか。――はっきりと理解する。
自分はこうやって自分のことを肯定してくれる相手が必要なのだ。どんな相手でもいいわけじゃない。今までの人生でいろんな人に会ってきた。けれど彼らは結局はジンを置いて過ぎ去った。
ヒメが自分のことを好きになってくれたから自分もヒメを好きになった。
ごはんを食べて、一緒に出歩いて、一つひとつ好きなものを増やされていく。
自分がいっぱいになっていく。取り繕うとしてヒメの前だと出来なくなる。
「あのね、ジンさん、じゃあ、今度はアタシがジンさんのいきたいところ誘うから、そのときはアタシが奢ってもいい?」
「ヒメさん? それって……デートのお誘いですか?」
「はう! で、でーと……っ~~、う、うん。そう、はずかしい~~、うん。デートのお誘い! いいかしら?」
また齟齬が出そうで、つい確認したが、ヒメは真っ赤になってあわあわして、認めた。
「うん。ヒメさんとデートします。行きたいところ……ヒメさんに合わせますよ?」
「それだとだめ。ジンさんはアタシの行きたいところ連れてきてくれたし、だからアタシもジンさんの行きたいところ連れていきたいなぁって……ジンさんのこと知りたいし!」
一生懸命、言葉を重ねるヒメの姿に、ごくりと喉が動くのがわかった。何か大きなものを飲み込むようにして、見えないそれを嚥下し、じわりと腹のなかで溶けていく。
「予定をあわせて、行きましょうね! それでアタシにジンさんのこと教えて、ほしいの」
「行きたいところ、ちゃんと考えておきますね。それで僕のこと教えますね。ヒメさんに、それでヒメさん、僕のこと知って、嫌ったりしません?」
「どうして嫌いになるの?」
「趣味があわないと別れるって記事に書いてました」
「なにそれ、なんの記事よ。趣味が合わなくていいじゃない? いろいろと互いに知れて、アタシ、ジンさんってもっと自分に自信がある人だって思ってた。けど違うのね。そういうところも、すごく素敵で、かわいい」
「かわいい、……僕が?」
「うん。かわいい。男の人にいうセリフじゃないけど、えっと、褒め言葉よ」
「なら嬉しい、かな? けど、ヒメさんの前ではかっこよくもしたいんですよ」
「かっこいいよ。ジンさんは、ふふ、そういうところが可愛いの。可愛いけど、かっこいいの。帰ったら二人でごはん食べましょう」
わからない、わからない、わからないことだらけ。
じわりと溶けて、交えて、色をつけていく。
黒に色をたらしたところで、何にも染まらないが重ねた色にどんどん混じって少しずつ色が染められていくのがわかる。
ヒメのせいだ。こんな気持ちになるのは。こんな風に自分がどきどきするのは
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