第21話
翌日、朝から霧雨がずっとふりそそぐ、落ち着かない天候だった。
じめじめと肌にうっとおしいくらいの湿度と雨のなか、ホテルのフロントにつくとカフェテリアで朝ごはんを食べている秋川が手をふって招いてくれた。
こんな天候でもいい男は、いい男だ。
海に行くのは危険だから予定変更を口にしないといけないとジンが言葉を思い出し、今日はどうなるかとヒメが心配していた。
唐突に、やけに雨音が大きくなる。
違う。
世界が停止した。
「ヒメさんっ!」
ジンの緊張した声にワーディングだと気が付いたときには背後から殺気が飛んだ。
あ、やばい。
世界が飛ぶ――投げ飛ばされていた。
白いスーツが見えたのに瞬時に演算を計算して、重力を軽くして宙に浮いたヒメはげぇと声をあげた。
ぱりっと糊のきいたスーツに撫でつけた髪の毛、眼鏡に神経質そうな雰囲気を漂わせた春日恭二。
FHにその人あり、といわれた元エリートエージェント。今は失敗続きで使いパシリ扱いされてあっちへこっちに現われる、不屈の悪魔。
目的のためなら手段を択ばないと言われている極悪人だが、行動がどうも敵ながら憎めない男だ。とはいえ春日の今まで行ったテロ行為については可愛らしいとは口が裂けても言えない、その戦闘能力は文句がつけようがないほどに高い。
ヒメ自身も春日と交戦したことがあり、そのたびにえらい目にあっている。
「こんなところで会うとはな」
春日が皮肉をこめた挨拶をするなか、無事に着地したヒメは怒鳴っていた。
「いやいやいや、空気読みなさいよっ! ディアボロス! なんてここにいるのよ! やだー!」
すでに戦う気満々の春日の右腕は赤い血をまとった獣のそれ。後ろには複数の黒スーツたちがいる。これはどう見ても
「やれ」
春日が声に黒スーツが動いた。
「わー、ばかばか! いゃあ!」
走って距離を縮めてくる黒スーツに悲鳴があげながら急いで目の見える範囲で重力展開を開始する。
春日の後ろにスナイパーがいたことにヒメは一拍遅れて気がついた。どうしてそこまで準備がいいんだお前はと恨み言をいいたい。
飛んできた銃弾は強化されているのか、重力を無視してまっすぐに飛んでくる。
あ、これは撃ち殺されると覚悟したとき、首根っこを捕まれた。
「ふぎゃあ!」
「あっすいません。ヒメさん」
床にキスしたあげくにひきずられたヒメは顔面の痛みを覚えながら、ジンの心配そうな顔に思わず泣きついた。
「ジンさぁん、もうやだぁ」
「ヒメさんがあいつらの足止めしてくれてるから大丈夫ですよ。弾丸は危ないから頭はさげてくださいね」
心から安心できる微笑みを浮かべてくれるジンにヒメは思わず、はぅ顔がいいと小さく呟く。
いや、しかし
「ジンさん、秋川さんは?」
「後ろのテーブルに隠れてもらってます。ヒメさんも移動して、僕はあっちを始末しますから」
「うん」
よたよたと四つん這いで移動したヒメは、テーブルを横に倒して隠れている秋川を見た。浅い呼吸を何度も繰り返して震えているので横に腰掛けて、後ろを見る。
手折ったテーブルを盾にして春日までの距離を一気に縮めたジンは、手に持つそれを春日へ、自身は後ろにいるスナイパーの間合いを詰めた。
横からの容赦なく殴るような一撃にスナイパーの頭が飛んだ。ヒメはうわぁと声をもらした。死体が持つ銃を蹴って取り上げたあと丁重に斧で潰す。春日が動くより早くジンは再び駆け出してヒメたちのもとに戻ってくるが、そのとき身動きのとれない黒スーツたちの足を斧で薄く切っていく。
確実にめんどうな敵を潰して、さらに足止めの攻撃も忘れないのはやはり戦いに慣れてる。ジンを敵に回したら確実に厄介だ。
ジンが軽い足取りでヒメたちの隠れているテーブルを飛び越えて戻ってきた。
「ヒメさん、今の演算の展開、どれくらい持ちます?」
「そろそろ切れるから、もう一度するわ」
「じゃあ、ヒメさんが演算完了したら教えてください。今度はディアボロスを狙いますから」
てきぱきとした指示にヒメは急いでジンさんかっこいい~の思考から演算に切り替える。いや、本当にかっこいい。
「そのあとヒメさんは一人で逃げてください」
「え」
「FHを招いたのは、あなたですよね。秋川さん」
ジンのまっすぐな問いに秋川が薄く、皮肉をこめて微笑んだ。
「だとしたらどうする」
「……あなたを護衛対象から外して、ここで始末します」
「そんな権限、キミにあるのかな」
「現場任務についての権限はすべて支部長にあります。現場でのトラブルに対してある程度は好きにしていいんですよ」
ジンの淀みのない言葉に追い詰められた捕捉者があがくように、乾いた笑みを秋川が浮かべた。
「裏切ったから殺すってことか、それともFHと通じたから? けっこう怒ってるよね」
「僕が怒っているのは、あなたがヒメさんを裏切ったからです」
ジンはきっぱりと断言した。いつもの優しい、ふんわりとした口調ではない。
「あなたは、あなたの目的のために僕たちを利用している。それはいいです。ただあなたはヒメさんを裏切った」
「仕向けたくせに」
秋川が悪辣に笑った。
「君だって目的のためなら手段を択ばないタチだろう」
「それとこれは別でしょう」
「はいはい、ストップ、ストップ~!」
ヒメが険悪な二人の間に割ってはいった。
「秋川さん、FHに連絡とったの、本当?」
「ネットに俺のいる場所を流した。FHが釣れるかは賭けだったけどね。まぁそれっぽいことを書き込んだりはしたよ」
悪びれない秋川にヒメははぁとため息をついた。
「けど、彼が俺を焚きつけたのは真実だ。彼女と会えないって」
「客観的に真実を述べたまでです」
「だからさ、あのときと同じ状態にしたら、彼女に会えるかもしれないって思ったんだ」
秋川は皮肉ぽく笑った。追い立てられて逃げてしまったあのときを、心のなかに淀む後悔をやり直す。そうしたらまだ心が救われるじゃないかといいたげに。
「わかった。つきあえばいいのね。それに」
「ヒメさんっ」
ジンの、上擦った責める声をヒメは無視した。
「ここから海は近いから、いけると思う。海まではいったことあるし。……ジンさん、一人で残してもジンさんは平気?」
「……敵はディアボロス一人ですから」
向き合うヒメにジンは視線を落として、目を合わせてくれない。
「ならサポートするから時間を稼いでくれない? 雨が降ってるからどうしても演算が乱れて、時間がいるの」
「わかりました」
本当は言いたいことがいっぱいある声でジンは返事をして、ヒメを真っ直ぐに見た。
「ヒメさんは、秋川さんを守りたいんですね?」
「守るというか、護衛対象だし。裏切られても、それは変わらないでしょ。むしろ、裏切った、裏切られたはこの世界ではよくあることだし」
そもそも秋川を焚きつけたのはジンのようだし。
「……僕が彼を守らなくていいといっても?」
「こういう事態になった後始末はつけなくちゃだめでしょ」
「そうですね。確かに、そうですけど」
ジンはヒメがこのまま二人で逃げようと口にすることを望んでいるのを声に滲ませている。
いつもうまく気持ちを隠す人なのに、この任務になってからジンの駄々っ子みたいなところばかり見ている気がする。
思わずいいよって言いたくなるくらいジンは不器用で、愛しい。
けど。
会えない人に会いたいために行動するのは――わかる。秋川を切り捨てられないのは完全な個人の意見だ。ジンの気持ちに刃向かってしまう。嫌われるかもしれないとちらりと頭をかすめて、ヒメは苦笑いした。
「今日、ジンさんの好きなごはん作るから!」
ジンの目が細まり、恨みがましく睨んでくるのに、この手じゃ無理かと思ったが
「……じゃあ、ふわふわのやつ」
ぼそっと告げられてヒメは目をぱちぱちさせた。
「ふわふわ?」
「黄色くて、スプーンで割ると、中身が出てくるやつ。ケチャップの、赤い」
「……オムライス?」
「それ」
ヒメは噴出した。
「いいわ。作る。約束する。絶対に作る。ジンさんのためだけに作る」
「わかりました。じゃあ、約束ですよ?」
「うん。ケーキも作るわ。ジンさんのだけだのごはんよ」
それがとどめになったのかわからないがジンは息を、一度深く吐いて、立ち上がりディアボロスに視線を向ける。
すでに攻撃態勢にはいった春日は隙がない。倒れている部下たちものろのろと起き上がろうとするのにヒメの演算計算が終わった。
範囲選択、展開――再び重力の見えない槌が敵全体に押し寄せる。その重みに春日が片膝をついたのを合図にジンが駆け出した。ジンが春日にたどり着く前に、その領域の展開だけさらに変化させてジンに有利になるようにしておく。
二つのことを平行するのは脳の容量をひどくすり減らす。冷や汗が滲むのをヒメは感じながら、片手をあげた。
「……秋川さん、アタシの手、握ってくれる? 海まで飛ぶから」
「いいのかい」
「なにが」
「彼のことおいていって」
「ジンさんは強いから平気よ」
「信じてるんだ」
「もちろん。信じるてるわよ。それにジンさんが優しいことに感謝してる。わがままにつきあってくれてる」
今度は秋川が噴出した。
「彼が優しい、優しいかな。彼はさ、誰にも心を開いてないんだよ。たぶんこういう態度をとると、相手がこういう態度になるっていくつか考えて、それを選んでるんだよ。だから相手の反応とかある程度予想つけて、こまやかに動いてる。それは他者とトラブルを起こさないための秘訣だよね。けど、つまりは誰にも心を許さないし、入られたくないってことだ」
なじり、というよりは単純に俳優として秋川はジンの態度について受けた印象を口にする。
忠告だ。
ジンを信用してはいなけい、彼のいいようにもっていかれるぞ。それでいいのかと。
「ヒメちゃんはさ、それで平気なの?」
「アタシは、アタシは……ジンさんのこと信じちゃう」
世界中の人が明日、世界が消滅すると口にされても、ジンがしないといったらヒメはそっちを信じる。そして、ジンはたぶん、自分の口にした言葉を信じてほしいタイプだ。
「だって、ジンさん、わりと自分のこと信用してないから、それならアタシがその倍くらいジンさん信じてもいいかなって思うのよね。つり合いとれるし」
「……彼のこと好きなんだ」
「う、うん」
一瞬照れて、声が上ずる。
「だから信じるの?」
「それは違うかも……ジンさんだから信じるの。好きとか嫌いとかじゃなくて、ジンさんはちゃんとするべきことをする人だから」
「そっか。そうだね。いやなやつだねぇ」
秋川の手がヒメの手に触れた。
「頭がいいやつって嫌いだよ。ほんと」
「……それはわかる」
ジンさんはたぶんアタシの百倍あれこれと考えてるんだろうなと、ヒメはいつも思うから、じみじみとした声が出た。
「けど、今、ジンさんはアタシのために戦ってくれてる。我が儘につきあってくれてる。計算高い人ならそんなことしないわ」
ジンの戦っている背中を見るとやっぱりいい男だと思う。守ってくれることに疑いも、気負いもない。
「ジンさんっ」
ヒメは声をあげた。
「アタシのこと守って! アタシ、守られたい!」
ジンが踊るみたいに軽やかな足取りで振り返った。黒髪に、美しい赤が舞うなかでジンの目が緩んだ。
笑っている。
はじめてみた、子供みたいに嬉しそうで、そのくせ楽しそうな笑顔。
思わず手を伸ばしたくなる――演算が終了し、展開を開始、雨の気配に足元がすくわれる感覚が押し寄せてきた。
瞬いた刹那、海に飲まれた。
やばとヒメが思ったときには落ちた。
海のなかだ。それもわりと沖に出てしまっている。
いくら雨でも演算がここまで失敗することはない。何かが邪魔をしたと思って顔をあげたとき、秋川が荒れる海のなかで自分の懐にしまってある、淡く輝いて、点滅する青い石を取り出した。
「会いたい、とってもキミに会いたい」
焦がれる声で秋川は告げ、手の中からするりと落ちていく。
「見捨ててごめん、俺のこと恨んでるなら、殺していいよ」
波が荒れる。
雨が頭をたたく。
なじってくれたらいいのに。心の底から嫌いになって。守れなかった、見捨ててしまった自分を。
けど
淡い光が強く点滅した、と思ったとき、海の奥から何かが出てきた。
背中にぞくぞくとするほどの気配――人ではない、大きな魚。
透明な海水でできた魚が秋川に一直線に近づいた。なにもか許すみたいに、懐かしがるように頬すりする。秋川は黙って魚を腕のなかに抱きしめ、ごめんと囁く。魚は泡となって消えた。秋川の腕のなかで。光の粒になって消えていくなかで見えた石をヒメは手にとる。
淡い光を放つアクアマリン。
ジャームが時折残す思いの石。
レネゲイドウィルスが、宿主の想いや記憶を食らって結晶化したもの――長く秋川の傍にあった、それが残したのはアクアマリンだ。とても小さいが、それでも輝ている。
「これ」
秋川は恐る恐る受け取って、両手で包み込む。
「恨んでくれたらいいのに」
「恨めないくらいあなたが好きだったんじゃないの?」
本当は、死んでいい覚悟でここまできた秋川にヒメは何か言おうとして、波に飲まれて慌てた。このままだと確実に溺れてしまう。秋川の手をとって演算の計算をする。
「死なないでよ、先の魚はあなたの死は望んでないでしょう」
秋川の目が、しっかりとヒメを捕らえて、目を伏せた。
次には再びホテルの床に落ちた。
無理矢理な転移に床に転げ落ちたヒメは、生きていることに感謝した。
「ヒメさん、大丈夫ですか! 全身ずぶ濡れですけど」
「ジンさん、アタシ、生きてる? 海の藻屑になってない?」
「わかめはついてます」
「うそー、かわいくない~、とってー。ううっ……春日は?」
「少しやりあったあと、逃げられました」
ジンの頬についている返り血についてはあえてつっこまないことにした。
「うー、死ぬかと思った」
「実際、軽く死んだよ、今のは」
ヒメの横で床に倒れたまま秋川が言い返した。
「けど生きてる。あーあ、生き残っちゃったよ」
大の字になった秋川が両肩をすくめて笑った。
護衛の任務は無事に終わった。
秋川の護衛は本部エージェントに交代し、ホテルを移動していった。今回はごめんねなど口にしても人当たりのいい笑顔から本当に反省しているのか微妙だ。
だがようやく仕事が終わった。
その日の夜、ヒメは約束通りオムライスを作った。ジンがスプーンで真ん中から裂いて、とろりとした卵とごはんを見て満足顔をしているのに可愛いと心から思う。
「そういえば、秋川さんの、今回やらかしたこと本部の人はに言ったの?」
「いいえ。そこまでする必要はないと思ったので、記憶操作はしないと思います。何年単位だと難しいですし」
「ふーん」
「彼が海外に活動拠点を移動させた数年は見守りはするでしょうけど、もうああいうことはないと思います」
「そっか、よかった」
「……ヒメさん、秋川さんのこと本当は好きだったんですか?」
ごふっとヒメは咳き込んだ。いきなりなにを言うんだ。
「え、ええ~? なんで」
「守らなくていいっていうのに守ったでしょう」
「あれは……だって話を聞く限りだと、ジンさんが焚きつけちゃったんでしょ? そういうやらかしちゃったことは収めなきゃ」
他人のしたことは知らないが、ジンのしたことは――これだとまるで恋人みたいだが――責任をとるべきだ。
「あ、そうだ。チーズケーキ作ったの。食べましょう。ジャムはね、あんずを塗ったからおいしいわよ」
ケーキも約束もしていたので、家に帰ったあと急いで作っておいた。
レンジで焼いた生地は、ふっくらとキツネ色で、そのうえにあんずのジャムを塗って冷蔵庫で冷やしてある。
「そうだ。ジンさん、誕生日教えてよ」
「誕生日を?」
「ケーキ焼いて、お祝いしましょう。いや?」
「ヒメさんのケーキ……お祝いしてくれるのは嬉しいです」
ジンの唇が花びらが開くみたいに綻んだ。
「よかった。お酒も出していい?」
「今日は何を飲むんですか?」
「んー……スイカがあったから、あれを切って、ハイボールで飲もうかしら。ちょっと苦くて甘くておいしいわよ」
気が付いたらお皿が空っぽになっていたのに急いで立ち上がって次の用意をする
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