♕幕間♕ たとえ始まりは恋でなくとも。

 真冬の夜のバルコニーはいくら上に物を羽織ったところでとにかく冷える。背後から暖炉の火で温められた部屋の空気が流れ出してこなければ、ものの五分といられない場所だ。


 けれど吐息で曇る薄暗がりの向こうに仄明るく浮かび上がった妻の横顔は、この寒さまで楽しんでいるかのようで美しい。そんな彼女が「フレディ様、始まりましたわ」とはしゃいだ声を上げたので、視線を隣の妻から夜空へと向ける。


 考えてみれば、最後にこうして渦を巻いて天に昇っていく星達を見たのはいつぶりだろうかと、ふと思う。記憶を辿ってもここ十年は見ていない。だからだろうか。一ヶ月前から今日だけは一切仕事をしないで欲しいとねだられていたのだ。


 そのため三食きちんと食事を摂り、ティータイムには暖炉の前に憩ってお茶を飲みながら、最近彼女が読んだ本の感想を聞いたり、お互いのお勧め本を読んだり、微睡んだりと、普段なら考えられない時間の使い方をした。


 使用人達はもっとこういう日を作るべきだと言うが、それではわたしが死んだ後に妻に残せるものが減ってしまう。王都で辛い目にあってこの地に嫁いできた彼女に苦労はさせたくない。


「毎年この日は憂鬱だったのですが、今年は違いますわ」


 どこか憂いを含んだ声音に夜空から視線を隣に戻せば、言葉とは裏腹な微笑みを浮かべる二十も歳下の妻と目が合う。結婚してから未だに彼女に触れることに躊躇うこともあるが、今夜は自然と隣に座る肩を抱き寄せてしまった。


 するとレベッカは一瞬驚いたように目を瞬かせ、けれどすぐに骨張ったわたしの肩に頬を擦り寄せる。自分からやっておきながら面映ゆい。先に言葉をかけるべきだっただろうか……と。


「マリも今頃王都で大切な人とこの景色を見ているのでしょうね」


「大切な人? チュータではなくですか?」


「はい。この間の討伐の時に、学園で仲良くしている男子生徒を連れて参りましたの。マリは否定していましたが、きっと照れくさかったのね。恐らく恋人かいずれそうなる人ですわ」


「ああ……そう言えばあの討伐で彼女と一緒に行動した者達から、冷静で判断力に長けた青年がいたと報告がありましたね」


「でしたらその方で間違いないと思います。彼について他にどんな報告があったか憶えていらっしゃいませんか?」


 夜空を昇る星にも負けないくらいに瞳を輝かせてそう言う妻は、いつもの艶やかで大人びた姿よりも、本来の年齢の少女らしく愛らしい。貴族の娘は産まれた時から婚約者が決まっていることも少なくはなく、恋を知らずに嫁ぐことの方が多いものだ。レベッカもその例に漏れないのだろう。


 こちらを見上げる表情は同年代の友人であり、苦労は多くとも自由な身分なマリの恋の気配に対しての、一種の崇拝めいた憧れで彩られている。さて、否定していたマリの立場も踏まえてどう答えたものかと少し考える。


 ――が、すぐに妻の可愛らしい好奇心を逸らせそうな話題を思い出した。


「そういえばサイラスが新しい魔物の子供を捕まえてきたそうですよ。レベッカはもう見せてもらいましたか?」


「まぁ、知りませんわ。今度はどんな魔物を?」


「確か鳥の魔物だったかな。まだ雛鳥でしたが、他の兄弟に巣から落とされたのだろう。彼の世話するガールーフが森で拾ってきたそうだよ」


 火急の用向きの際に馬車を任せる馭者のサイラスは、この屋敷きっての変わり者ではあるが、わたしは彼を気に入っていた。四十歳を越えて尚、子供のような感性を持ち、四足であればありとあらゆる生き物に馬銜ハミを噛ませて御そうとする奇人ぶりが、時に眩しくもある。


 それはレベッカにとっても同様なようで、この頃その好奇心の犠牲になるのは専らマリ達だ。原因はわたしの虚弱さにもあるのだから、彼女達には申し訳ない。しかしいつもなら新しい生き物の参入に喜ぶ妻は表情を曇らせた。


「そんな……兄弟に落とされるなんて……」


「普通の鳥でもよくあることだ。弱い個体は生きていけないからね。親にしてみればその子供を生かすために他の子供を危険に晒すことなど出来ない」


 慰めるつもりで傍らの彼女にそう語りかけつつ己が身を振り返れば、苦い過去の記憶まで甦ってきそうになる。しかし一年を締めくくる幻想的な光景の前に相応しい思い出でもないかと自嘲していると、不意に隣に寄り添っていた彼女がこちらに手を差し伸べて、わたしの頬を撫でた。


「お慕いしておりますフレディ様。わたくしは貴方との子供であれば必ず愛して慈しみますわ。たとえそれが領主の妻として褒められた行為ではなくとも」


 情けないかな、二十も歳下の娘の強い眼差しと声音に、わたしはかつて得られなかった救いを見た気がして、その華奢な肩に顔を埋めた。


 わたし達の始まりは恋ではない。

 けれどこれは恋にも勝る愛になる。

 あの初顔合わせの式の日に、わたしは恋をしたのだから。

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