◆第二章◆
第16話 一人と一匹、お引っ越し(済)。
前方に向けていた視線をほんの少しずらして映した外は、鮮やかな夏晴れ。
七月二週目の陽射しは前世のものよりも鋭いけれど、湿気が全くない分、日陰は爽やかな涼しさだ。ついでに夏の風物詩の蝉の声もないから多少拍子抜けしてしまうが、嬉しいのは蚊がほとんどいないことか。
夏の間ずっと異世界でテントの上から蚊帳を張り、小屋中が煙たくなるくらい蚊取り線香を焚く覚悟でいた。だから余分な出費が減ったのは本当にありがたい……のだけれど、現在私と忠太がいるのはあの住み慣れた森の小屋ではなかった。
「――と、以上でこちらの物件の説明を終えさせて頂きます。それではマリ様、また何かご用命がございましたら、噴水広場の方にございます商業ギルド窓口までいらして下さい。ああ、それとこちらがこの借家の鍵になっております」
「〝あ、はい。ありがとうございました〟」
「こちらこそ。この度はお借り上げ頂きまして、誠にありがとうございました」
昔よく分からなかった表現の中に立て板に水というのがあったけど、目の前で説明を続ける初老の男性を見ていて納得した。非常に分かりやすくはあるものの、こちらに質問する隙を与えない。窓ガラスを叩く雨水が流れ落ちていくみたいにスルスルと留まらない。
でもだからといって不足があるわけでもないから、結局たった今、目の前で最初から最後まで何も質問をしないまま説明は終わってしまった。丘の下の町へと帰っていく彼の背中を見送ってから、ひとまず預かった鍵を人差し指の先で回しながら室内を見て回る。
築年数不明の平屋。外観は海外旅行の雑誌なんかでよく表紙を飾っているイギリスの片田舎の家といった風だ。元の持ち主は何かの職人だったらしく、ここは住居兼工房だったとか。もうその当時を感じさせる物自体はないけれど、当時機材のあったらしい場所に日焼跡が残っている。
「おおー……古いけど、思ってたよりも結構広いな」
【もってきた かざい ざいりょう ぜんぶ はいりましたね】
「小さいって言っても一戸建てだもんな。住所不定でよそ者な私達がよくこんな物件借りられたと思うよ。エドに感謝だ」
【はい やちんも ごかげつ はんがく はらう してくれます】
「んー、それなんだけど……何か企んでるのかもだから、そこは注意しとこう」
室内の仕切り壁と一体化した大きな暖炉の裏が寝室で、表の暖炉側がリビング。見たところ煮炊きといった調理は、全部この表側の暖炉で済ませるようだ。暖房器具がないけど、たぶん表の暖炉を使えば裏側の部屋にも暖気が伝わるっぽい。部屋の広さ的には寝室一に対してリビング側が三といったところか。
床板が所々軋むが今すぐ抜けるほどじゃない。床と天井の状況から雨漏りもなし。壁は漆喰か? 間取りは寝室、外に風呂とトイレが別々に一棟ずつ、台所兼リビング。それから朽ちたウッドデッキと小さい倉庫と薪置き場。庭にはまだちゃんと使える井戸もある。
何かが特別珍しいわけではないものの、本気で良かったと思えたのは風呂だ。作り的には五右衛門風呂だけど、湯船があるだけで万々歳。これまで川で身体を洗ってきた身としては本当にありがたい。
森にあった廃墟小屋よりは充分住みやすそうだ。それに町から少し離れた丘の上にある立地条件のせいで、家賃も町中よりは安い。まぁ一軒貸しとしての値段で、アパートの一室の値段よりは高いけど。
でも四六時中この世界の言葉が耳に入ってくる環境はまだ慣れないから、ここはそういう点でもちょうど良い立地だった。ただ何かあってここから追い出された時に帰る場所は必要だから、森の小屋も出来るだけしっかりと施錠はしてきた。
【おふろ あるの よかった ですね】
「本当に。入るまでにちょっと手間がかかるけど、お湯に浸かれるなら良いや」
【おゆわかす てつだう】
「お気持ちだけで充分です。忠太がやったら火の粉一つで丸焼きになっちゃうだろ。薪で風呂を沸かしたことはないけど、たぶん慣れたら私でも出来るって」
次にいつ帰るか分からないので、ポップアップテントや服は売れる物はフリマアプリで売って、駄目な物は天界経由で処分。実際のところ不用品を売った金はほぼこれで飛んだ。ぼったくりとは言わないが転生者に対してシビアすぎると思う。
――で。
何故私と忠太がいきなり建物探方からの店子契約に至ったかと言うと、エドの店に無理矢理置いていったあのあずま袋がプチブームを起こしたのだ。
一週間どころかその日の内に六枚が完売。若い奥様達の口コミで一気に広がり、エドの店に問い合わせが殺到。何も知らずに一週間後にノコノコ結果を見に来た私と忠太を捕まえたエドに、町の付近に住居を移すよう勧められた。
理由は在庫が切れても居場所を知らないから、こちらに連絡を取りようがなく不便だということだった。そんなこと言われてもな。
その日のうちに引っ越す準備をしろと言われ、その翌々日には、キャンプ用の折りたたみ式リヤカーを購入して運べる物だけ積み込み、森から馬車の通れる道に出るまで引っ張って、約束の時間に私達を回収に来てくれたエドの荷馬車に乗って町に来たわけだ。
すのこ型の壁面収納を持ち出すのに一番苦労したけれど、あれは初めてのDIY作品だったので、意地で持ち出してやった。
「取り敢えず持ってきた家財の荷解きは後回しにして、先に忠太のベッドだけでも設置しちゃうか。どこに置きたい?」
【しんしつの でまどのふち】
「了解。忠太の寝床はこれで確保出来るな。私のベッドは……ま、落ち着いたらで良いか。組立式でもベッドは高いし。ネットでまた寝袋でも買うかな」
喋りながら唯一もう設置したすのこ型の壁面収納の前を横切り、家の入口付近に一纏めにした荷物の中から、一番上に置いていた忠太のベッドを取り出してそんなことを言った矢先。肩に乗っていた忠太が珍しく私の髪を引っ張った。
【ひつようけいひ けちらない まりも べっど かう】
「いや、でもさ、ここの家賃も払わないとだし……」
【えどが はんがく はらう ういたおかね つかう】
「とは言ってもあっちは子持ちだぞ? それにあんまりノリの口約束を本気にするもんじゃないって」
【もともと えどが よんだ それに くちやくそく ちがう】
そう言うと忠太は私の背中のリュックに潜り込み、中から一枚の契約書を引っ張り出してきた。書類には忠太と私の連名で契約の事項が書かれており、最後にはエドのサインもある。しかも用紙は明らかに前世の印刷技術。
それを問う前に忠太が【ねっといんさつ やすくて はやい よびも あります】とご満悦な表情で教えてくれた。文面は流石にテンプレートの組み合わせだが、このハツカネズミ、有能すぎる……。
その時、小さな相棒に戦慄する私の耳に「マリ、チュータ、いるか?」と聞き慣れた声が外から届いた。
「エドだ」
【えどですね】
ほぼ同時に口にした言葉に笑い合いながら新居のドアを開けて、ここに来て初めての客人を招き入れるまで、あと五秒。
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