合法的にオギャりたい!
悠久
第1話
(はて、ここはどこだろう)
いつものように目を覚ますと、天井が見えた。
しかし、視界はぼやけており、辛うじて自宅の天井ではないことだけはわかった。
辺りを見渡そうとするも、えらく頭が重く僅かしか動けない。
立ち上がろうにも、力が入らない。身動きがとれず、身体はどこか冷たく、えらく寒い。
不安と恐怖でどうにかなりそうだった。
「ねえ、見て。この子動いてるわ」
心細くて堪らなかった時にふと傍らから熱を感じ、声が聞こえた。
優しく慈しみに満ちた声。その声を聞くだけで、とても安心した。
「ふぎゃあ」(いや、そら動くわい)
先程までの気の動転を悟られぬように去勢を張って声を上げた。
しかし、耳に届いた自分の声は言葉ではない、鳴き声のような音だった。
「ねえ、パパ聞いた?この子、喋ったわ」
「あ‐(いや、そら喋るわい)」
「本当だね、ママ。髪の毛うっすいなぁ」
「あ‐(うるせいやい。まだそんな歳じゃないわ)」」
「ふぎゃあ、ふぎゃあ」
何故だろう。何かを喋りたかったわけでもないのに、声を発した。
その声と共に堰を切ったかのように涙が溢れた。
怖い。怖い。怖い。
とにかく不安で不安で仕方がなくて、涙が溢れた。
「あ‐、よちよち、どうしたの。ほら、ママはここにいますよ‐」
身体が浮遊感を覚えたまま、左右へとゆっくりと揺れ動く。
ボヤけた視界の中、声と共に顔が近づいてくる。朧気だった輪郭がはっきりと形を成し、視界いっぱいに声の主の女性の顔が広がる。
柔らかな微笑みを讃えたまま、泣きそうなクシャクシャな顔。
どうしたのかと手を伸ばす。
温かな雫が彼女の頬を伝い、伸ばした手が雫を掠め取る。
「見て、パパ。この子、涙を拭ってくれたわ」
「ママが泣いてどうすんのさ」
「だってぇ‐」
「嬉しいよね、わかるよ。僕もさ」
「まさか私が子供を産めるなんて思わなくて。まるで奇跡みたい。それに名前の通り、優しい子になってくれて…。嬉しい。ありがとう。生まれてきてくれて。ありがとう。私の子供になってくれて。ありがとう、ありがとう……」
心当たりのないままひたすら感謝を述べられ、ただただ戸惑う。
そんな俺の気持ちも露知らず、俺の指をきゅっと、彼女の小さな掌が包み込む。
俺の身体さえも指のように、蹲った彼女の全身に包み込まれる。
彼女の熱が、鼓動が、ドクンドクンと脈打ち全身を駆け巡る。伝播し、彼女の鼓動と共に、自身の熱を、鼓動を自覚する。
(そうか…。俺は、いや、僕は彼女らの子供として生まれたんだ……)
そして僕は全てを悟り、産まれ落ちた。
彼女‐‐葛城 恵と彼‐‐葛城 拓斗の息子‐‐葛城 優として。
ここに僕は、葛城 優は生まれたんだ。
「よぉ、メグちゃん、優坊」
あれから五年が経った。
僕と女神が如き女性、天姫 恵との運命の逢瀬の後の蜜月の日々。
そして今や五歳となった僕は、片田舎の小さな幼稚園へと通っている。
「おはようございます、勝美さん」
「おはようございます、勝美ちゃん!」
「おはようさん」
彼女は勝美さん。
僕の通う幼稚園は商店街を抜けた先にあり、その商店街の中の古くからある肉屋を営む女性。老舗肉屋の女主人、と言うと恰幅のいいおばちゃんを想像するが、その想像とは裏腹に僕の母、メグちゃんとほぼ同年代、二十代にして一児の母であり、名前通りの勝気さと細腕で商店街の顔役を担う敏腕若手ママさんである。
「くぁ‐、優坊は相変わらずいい子だねぇ!うちの馬鹿息子も見習ってほしいもんだ!あの馬鹿ときたら口を開けばババアババアって!」
「アハハ……。いえ、私も他所のお家のママをちゃん付けするのはやめなさいって言ってるんですけどね……。」
困ったように笑う我が女神 メグちゃん。可愛い。
「どうして? メグちゃん」
仕方がないだろう。こちとら長年モラハラとセクハラの狭間で窮屈に生きてきたおじさんなのだ。
若い女性の呼び方に困っている最中、今の自分の容姿だとちゃん付けで呼ぶとママさん方が喜ぶ事が多いことから身に着けた処世術なのだ。
「こ‐らっ、ゆ‐ちゃん!ママをお外でメグちゃんって呼ぶのはダメっていつも言ってるでしょ!
悪い子には、こしょこしょの刑だ‐!」
「きゃ‐!やめてメグちゃ‐ん!」
「アハハハハ!ほらほら!いちゃついてると遅れるよ!」
「あら、いけない。幼稚園に遅れちゃう!ありがとう、勝美さん!また帰りに寄らせてもらいますね!」
「あいよ!気を付けてな‐!」
「バイバ‐イ、勝美ちゃ‐ん」
「バ、バイバ‐イ!」
豪快に手を振り返りしてくれる勝美さんに釣られるように、僕の隣で照れ笑いを浮かべながら小さく、控えめに手を振るメグちゃん。
女神の照れ顔を見せてくれた勝美さんには感謝しかない。
「こんにちは、優くん、メグちゃん」
「こんにちは!」
「こんにちは、エミ先生…。あと、どうして私も園児と同じようにちゃん付けなんですか…」
「あはは、すみません。優くんがメグちゃんメグちゃんと呼んでるのが浸透してしまいまして…」
「だってメグちゃんはメグちゃんだもんね‐?エミ先生‐?」
「ね‐?優くん、ね‐?」
二人して首をかしげあう。メグちゃんはその様子を複雑そうに眺めている。
「一応私の方が年上なんですけど…」
おいおい、それはずるいだろ、メグちゃん。
天の姫たるメグちゃんに年齢で勝てる奴なんていんの?え?二十四歳以上?具体的過ぎん?
「それを言うなら背は私の方が高いですよ、メグちゃん」
「あ‐あ‐あ‐、聞こえな‐い!」
耳を塞ぎ騒ぎ立てるメグちゃん。そういうとこだぞ。可愛い。
あと本人はすごく背の低いことを気にしているからあまり虐めないでやってほしい。
「それとここだけの話なんですけど、園内の先生、もちろん園長先生も含めて皆メグちゃん呼びですよ」
ぼそりと呟くエミ先生。
「なんで当たり前みたいに園長先生さえも私をメグちゃん呼びなの!?それにここだけの話って本人の私にしちゃったら意味なくないですか!?」
すかさず突っ込むメグちゃん、鋭い。
いやぁ、しかし我が女神、メグちゃんの可愛さ、美しさ、素晴らしさがしっかりと園内に知れ渡っていて実に素晴らしい、誇らしい。しっかりと布教した甲斐があったというものだ。
「まあまあまあ。落ち着いてくださいよ、メグちゃんさん」
「メグちゃんさん!ちゃんを外してくれたら!」
「それは無理ってものですよ、メグちゃんさん」
「どおして!」
「だってメグちゃんですから」
「また外れてる!」
けらけらと笑うエミ先生に、ぷりぷりと怒ったふりをしながら怒涛のツッコミをするメグちゃん。
年上だとか園児の母だとかは関係なく、取っつきやすく親しみやすさが我が女神、メグちゃんのメグちゃんたる所以だろう。
「それではエミ先生、ゆ‐ちゃんのことよろしくお願いしますね」
「はい、任せてください」
「え‐、メグちゃんもう行っちゃうの?」
「ママもお家のことしなくちゃいけないから、ゆ‐ちゃんもいい子にしててね」
「は‐い、メグちゃん!頑張ってね!バイバ‐イ!」
「バイバイ」
にこにこと手を振りながら立ち去るメグちゃん。
僕の一日はこうして始まる。
朝起きて、肉屋の勝美さんに挨拶をして、エミ先生のお世話になりながら、メグちゃんとの別れを惜しむ。
「うぅ…メグちゃあん……」
「あ‐あ‐あ‐、優くんがまた溶けてる…。メグちゃんがいなくなったらこれだからなぁ」
エミ先生がまたかと困った笑みを浮かべている。
メグちゃんの前ではしっかりとした子。メグちゃんがいなくなった途端に溶ける子供。
それが園内での僕の評価らしい。
それも仕方ないだろう。なんせ僕の一生を共にしてきた半身が如き我が女神、メグちゃんとお別れをせねばならないのだ。こんなに悲しいことはないだろう。
きっとメグちゃんだって半身を引き裂かれ、我が子との別れを泣く泣く惜しんで受け入れたに違いない。そうあってほしい。むしろそうじゃなければ泣く。溶ける。
「お‐い!ゆ‐!あそぼうぜ‐!」
近くから無駄に大きな声で僕を呼ぶ声がする。
声の方を見れば、わんぱくそうな園児がブンブンと大げさに手を振り、僕を呼んでいる。
彼の名はあっちゃん。
わんぱくそう、と言ったが実際、これまたわんくな少年だ。
落ち着きというものを母親のお腹に忘れてきたのか、跳ぶわ跳ねるわ、三秒も落ち着いていられずすぐに駆け出す。しまいには喧嘩っ早く、口よりも先に手が出るような子供。
それでもなぜか憎めず、妙に他の園児や先生にも好まれるやんちゃな我らのガキ大将だ。
「ほらほら優くん、あっちゃんが遊ぼうって」
「今はそんな気分じゃない…メグちゃんに会いたい…」
「メグちゃんもきっと優くんが楽しく遊んでる方が喜ぶよ」
「エミ先生、本音は?」
「わんぱくなあっちゃんの面倒見てくれるとエミ先生嬉しくて、メグちゃんにいっぱい優くんのこと話しちゃう」
「五歳児にいうことじゃないんだよなぁ…」
「五歳児は本音とか言わないんだけどなぁ…」
このようにエミ先生は僕のことを本当に五歳児?妙な組織に薬でも飲まされてない?などと割とガチなト‐ンで以前尋ねてきたぐらいには僕のことを訝しんでいる。
それなりにうまくやってきたはずだが、何しろ中身はおっさんなもので。
五歳児の真似なんて限度がある。とりあえず困ったときはち〇ち〇!とか言って笑っているが、これをするとメグちゃんが怒る。そりゃもう大層怒る。
「はぁ…。しかたないなぁ、気分が乗らないけどあっちゃんと遊んであげますか…」
「なんで優くんはそんな疲れ果てたおじさんみたいな溜息ついて遊びに行くかなぁ。
あっちゃんなら裸足で駆け出していくのに」
こちとら疲れ果てたおじさんなのだ。パワフル五歳児みたいにいくか。
おじさんが児戯に付き合ってあげるとしますか。
あんまり楽しめなさそうだが。
「いけいけいけ‐!俺のハイパ‐ご‐!」
「負けるな!差せ!差せ!差せ!僕のエクセレントドロダンゴウ!」
なだらかな斜面を二つの泥団子がゆっくりと駆け下りていく。
一つは小石の混じったでこぼこと歪な形をした泥団子。
もう一つは完璧な球体を保ち、キラキラと美しい光沢を放つエクセレントドロダンゴウ。
あっちゃんとの遊びはかけっこや鬼ごっこにはとうに飽きていた。
目新しさを求めるも道具も大してない幼稚園では遊びにも限度があり、ましてや遊び相手は静より動を愛するあっちゃんだ。
身体を動かさねば遊びではないと言い張るあっちゃんをなんとかなだめて、そういえば昔には園内の泥を手遊み、泥団子の完成度を友人たちと競ったことがあったことを思い出した。
早速泥団子作りをしようと提案するとこれをまたあっちゃんが大いに気に入った。
そして泥団子の美しさでは年の功で勝る僕に軍配が上がるも、負けず嫌いなあっちゃんは固さならば負けぬと言い張り、ならばとお互いの泥団子をなだらかな坂を下らせ、レ‐スをしようと言ってきた。
僕のエクセレントは美しさを追求した完璧な芸術品であり、レ‐スなどという下劣な戦いには向いていないと辞するも、あっちゃんは「にげんのかよ、へなちょこ‐」などと安い挑発をしてきた。
そんな挑発には子供すら乗らないだろう。あっちゃんは子供だ。
「へ‐ん、ゆ‐の泥団子はざこだからな‐」
「あ?僕のエクセレントが雑魚だって?僕への挑発は許しても、エクセレントへの侮辱は断じて許さん。いいだろう、レ‐スでもなんでもやって完膚なきまでに叩き潰してやる」
「え?」
「あっちゃん、レ‐スをしよう」
そして、お互いの泥団子の威信をかけたチキチキ泥団子レ‐スが始まった。
ル‐ルは簡単。
先に丘を下った泥団子の勝ち。もし泥団子が崩れるようなことがあれば、下った距離を競うこととなった。
だが、そんなのは無用の心配だ。なんせ僕のエクセレントは完璧なのだから。
「いいぞ!エクセレント!そのままだ!」
「まけるな!おれのハイパ‐!」
完璧なスタ‐トダッシュをきった僕のエクセレントは真っすぐに丘を下っていくが、あっちゃんの泥団子は固さを誇るだけあって、小さな石に当たってもまさかの跳ね、そして着地というファインプレ‐をかまして僕からのリ‐ドを奪う。
まさか負けるのか、僕の完璧なエクセレントが!
「いいぞ!ハイパ‐!ああ!ちがう!そっちじゃない!」
あっちゃんのハイパ‐ゴ‐は先ほどの小石の影響で徐々にコ‐スから道を逸れていく。
まさかのジャンプには度肝を抜かれたが、やはり僕の完璧なエクセレント泥団号には勝てるわけがなかったのだ。敵ながら天晴だった。
「よし!よし!さすがだ僕のエクセレ…あああああっ!」
突如、砂上の楼閣がごとく崩れ去った。僕のエクセレントが。
「エクセレント‐‐ッ!」
「よっしゃあ!おれのかち‐!」
敗者の絶叫と、勝者の雄たけびが木霊した。
「ああしてると単なる子供なんだけどなあ」
傍から見ていたエミ先生が何か言っていたが、今はそれどころではなかった。
「ごめんな…エクセレント…。芸術品であるお前にレ‐スなんてさせるべきじゃなかったんだ…。
お前はスポ‐ツカ‐じゃない…クラシックだったのに…」
あっちゃんとの威信をかけた戦いに敗れた僕は、一人で園内を囲む塀の端っこにて静かにエクセレントを弔っていた。
土は土に、灰は灰に、泥団子は泥に還るんだ…。安らかに眠れ、エクセレント。合掌……。
ふう、と一息をついて顔を上げると、少し離れたところで僕と同じように塀を眺めている園児が居た。
あの娘は確か‐‐毒島 可憐ちゃん。
第一印象としては年の割に長い髪をしており、顔も前髪で隠れてしまっているため、雰囲気や物静かな性格から座敷童を彷彿とさせる少女だった。
あまり友達もおらず、性格はマイペ‐スなところもあり、よく一人を好んでいるようだった。
わんぱくなあっちゃんとは対照的な少女だ。
そんな彼女をあっちゃんは気に入らないのか、よくつっかかっており、彼を含めやんちゃな男児などは彼女をその名字をおもしろがって「ブス」などと心無いあだ名で呼んでいる。
だが、僕は以前、それこそ入園当初はメグちゃんと別れる時間を悲しんでいた頃にはついうっかり、本当にうっかり、珍しくハンカチを落とすというへまをしでかしてしまったのがだが、そのハンカチを拾ってくれたのが彼女だ。
その際に彼女は初対面の僕に勇気を振り絞って声をかけ、ハンカチを渡してくれた。
「人には感謝を。人には賛辞を」を美徳とする我が女神、メグちゃんの教え通り、僕はハンカチを拾い、渡してくれた彼女にはしっかりと「ありがとう」と感謝を述べた。
しかし、彼女はその様子に驚いた様子だった。
「どうしたの」と尋ねると、長い前髪から覗かせたクリクリとした目は驚いた様子で、「いやじゃないの?」と拙い言葉で逆に聞き返された。
僕にはその意味がわからず、問いに問いで返すという往復を繰り返した。
「どうして、なにが嫌なの?」
「わたしがハンカチをさわっちゃって」
「全然。拾ってくれてありがとう」
「へんなの。みんな、わたしがさわるといやがるの」
「本当、変なの。どうしてだろうね」
「みんないってる。わたしにはパパがいないからって」
「そうなんだ。じゃあ僕と一緒だね。僕もママしかいないから」
それから彼女は拙い言葉で自分の境遇を話してくれた。
彼女の両親は離婚し、自分はママに育てられていると。そのことで周囲にからかわれ、虐めまがいにハブられていること。彼女はそのことは別に気にしていないらしい。ただ、そのことを話すとママがとても悲しそうにする、その方が悲しい、と。
そのことを聞いて、自らの境遇を嘆くでも悲しむでもなく、あくまで親が悲しむと言った彼女を僕はとても優しい娘だなと思った。
「どうしたの、可憐ちゃん」
「ゆうくん、みて」
声をかけるなり、彼女は驚いた様子をほどほどに、視線を自らの足元に戻すと同時にそちらを指差す。
幼稚園を囲む塀の根本、そこには小さな美しい花が一輪、誰かに踏みつぶされて折れていた。
「綺麗な花だね」
「うん。だけどかわいそう」
「どうして?」
「このお花、きっとふまれちゃったから」
彼女の言葉の通り、この花は誰かに踏んづけられていた。
通り道にもなく、隅っこでひっそりと咲いていた花。
幼稚園児は、子供は時に邪気で残酷だ。
アリの行列を見つけては踏みつぶしたり、大量の水を流してみたり、バッタを見つけては捕まえ、好奇心で足をちぎってみたりと残虐非道な行いを平気で行う。
それを悪いことなどとは知れず、考えもせず、好奇心のまま行う。
アリが伴う苦痛やバッタの痛みなど知らず、ただただ好奇心で。
それらの被害に会う生物を可哀そうだと思うし、その行動に意味を見出せなければ僕は制止する。
だが、その行動を諫める気にもなれないのだ。
きっと子供たちはこれから学んでいく。
アリもバットも等しく生物であり、痛みがあり、営みがあり、命があるのだと。
それらを知らぬ子供らにそれが悪いことだと今は伝える気にはなれない。
僕が伝えるのはアリとバッタも生きているのだと、そのうえでアリを踏んづけること、バッタの命を奪うことをどう判断するのか。
僕はそれを知りたい、子供たちの学ぶ過程を僕は見ていたい。
だが、こと彼女に関しては違う。
彼女は花にも命の営みがあったことを知り、憐れむ優しさがある。
すでに彼女には善悪の判断が芽生えている。
彼女の花の命の営みが無為に奪われたことを悲しみ、慈しむ心に僕はよく知る人物を思い浮かべた。
似ている、と。
「可憐ちゃんは優しいね」
「やさしいってなに?」
他者を思いやり慈しむこと、おもいやり。
不定形なこの感情を言葉にするのは容易いが、いざ五歳児に伝えようとするとなかなか言葉が出てこない。
「そうだなぁ、もし僕がここで転んで泣き始めたら可憐ちゃんはどうする?」
「だいじょうぶ?ってきく」
そうだろう。きっと彼女ならば、泣かないでと手を差し出し、慰めてくれる。
当たり前と思える優しさだって、どこかで育まれるものだ。
それをこの年ですでに備える彼女を僕は凄いなと関心する。
「ありがとう。それが優しいってこと。困ってる人を助けれる力だよ」
「そうなんだ。おかあさんがこまってるひとがいたらたすけてねっていつもいってる」
なるほど。やはり彼女はとても似ている。メグちゃんに。
そして彼女は僕とも似ている。
きっと彼女は、可憐ちゃんは、彼女のお母さんに可憐であれと、可愛くあれ、美しくあれと願いを込められ名づけられている。
僕もまた、メグちゃんに優しくあってほしい、そう願って名づけられた。
だからこそ僕は極力優しくあろうと、メグちゃんが誇れる息子であろうと努めている。
可憐ちゃんも一緒なのだ。
可憐ちゃんの母にとって可憐であれと、美しくあってほしいと願って育てられている。
そして僕にとっても彼女は今、可憐に育っている。
だからこそ、曲げてはいけない。
美しく可憐に育っている彼女をこの一輪の花のように手折られてはいけない。
「このおはな、どうしよう」
可憐ちゃんは再び、足元の花へと視線を向ける。
葉や茎などは折れたり、潰れたりしているが、幸い花びらなどはそこまで酷い有様ではなかった。
花の生態には詳しくないが、種が無事であるならば、やがて花を咲かせるのだろうか。
「そうだね…。生き物であれば埋めてあげたいところだけど、種が無事ならまた花を咲かせるんじゃないかな。だから、このままでいいと思う。でも、可憐ちゃんがこの花に何かをしてあげたいと思うのなら、手を合わせて、ゆっくりおやすみ、また綺麗な花を咲かせてね、と目を閉じてお願いしたらいいんじゃないかな」
「わかった」
短く返事をした彼女は、身を屈めて小さな手を合わせる。
僕もそれにならい、屈んで手をあわせて目の前の花が再び、真っすぐと伸びることを願う。
可憐ちゃんの母が願ったであろうように、真っすぐに。
そして、目を閉じている可憐ちゃんを横目で見る。
(うん、やっぱりだ‐‐)
「どうしたの」
やがて花への祈りを終えた彼女が、僕の視線に気づき、戸惑いながらも問いを投げかける。
「うん、可憐ちゃんは優しいだけじゃなく、可憐だなって」
「かれん?」
「可愛いってこと」
「かわいい。おかあさんいがいにはじめていわれた」
長い前髪で隠れた目はきっと驚いているだろう。
彼女の自己肯定感故か、僕の可愛いはあまり信用してもらえてないようだが、可憐ちゃんの母はやはりきちんと自らの娘へとしっかりと愛情を与え教育を施している。
他の園児などは片親であることをなんやかんやと揶揄しているらしいが、それは僕だって同じ境遇だ。
もし同じように、メグちゃんのことをどうこう言われた日には穏便でいられる気がしない。
大人げなくブチギレるだろう。
論破をかましたあとに武力行使も辞さない。泣かす。完膚なきまで泣かす。
その上にメグちゃんに謝らせる。でも僕は絶対許さん。
メグちゃんを悲しませてみろ、一生をかけて償わせてやる。いや、僕のように生まれ変わったあとでも許さん。一生でも二生でも許さんからな。
つまるところ、僕を一人で育ててくれたメグちゃんは女神であり、彼女に似た可憐ちゃんやそんな可憐ちゃんを一人で立派に育てている可憐ちゃんの母は僕にとって尊敬すべき人物だ。
もし、彼女らが悲しむようなことがあれば、微力ながら手助けしようと思う。
メグちゃんだけは全身全霊何があっても守るが。
「そっか。可憐ちゃんはお母さんに愛されてるんだね。よかった」
「そう、なのかな。ゆうくんのいうこと、むつかしいからよくわかんない」
「いつかわかるよ。ただ、可憐ちゃんは優しくて可愛い。それだけは覚えておいて」
「……うん。わかった」
「それと、一つお願いがあるんだ」
「なに?」
「もう一度。手を合わせてあげてほしいんだ。僕のエクセレントドロダンゴウに」
「え?」
「泥団子…いや、僕の戦友にゆっくりおやすみ、と」
「わかんないけど、わかった」
どっちなんだい。まあいいや…。ゆっくりおやすみ、エクセレント……。君の仇はいずれ取るよ……。
可憐ちゃんと会話して数日。事件は起こった。
「ね‐、ゆうくん!おままごとしましょ!」
「おはよう、麗ちゃん。ごめんよ、僕はまだメグちゃんロスから癒え…ねえ、話を聞いてくれない?手を放してくれないかな?」
僕の手を引っ張る彼女は麗ちゃん。
見た目だけは名前の通り、大変麗しいのだが、中身はお転婆、わがまま、やんちゃと小さな暴君そのものであり、その見た目から大体のことは仕方ないなあと許してしまうが、女版あっくんのような存在だ。
あと、一説によると大企業の令嬢だとかこの辺の大地主の孫娘だとかまことしやかに囁かれているが、真偽は定かではない。
ただ、なぜかあっくん同様になぜか人望はあり、あっくん同様園内の女児を仕切るのが彼女だ。
男児のリ‐ダ‐はあっくん、女児は麗ちゃん、といった具合に派閥ができており、お互いの派閥の仲は良好とは言い難いが、学生の男女なんてそんなもんだろうと割り切った僕はどっちにもつかず、どっちともふらふら。両派閥のリ‐ダ‐には気に入られているので、ほどほどにわがままを聞いている。
このように、大変麗ちゃんには気に入られているので、小さな姫君とは程よく仲のいい付き合いを心掛けている。
ところで、靴を舐めたらいくらぐらいお金をくれるだろうか。
長いものには巻かれろ、権力者には全力で媚びろが僕の前世での教訓なんだ。
お金がいっぱいあれば選択肢が増える、メグちゃんの幸せのためなら僕はなんでもするぞ。
「さああなた、ごはんよ。あじわってたべてね」
拉致られ、シ‐トの上に座らされる。
シ‐トのうえには家具らしき小物や椅子、小さな卓、その上にはおままごと用のお椀。
椀の中には水と泥でできたお粥らしきもの。
「わあ、おいしそうだなあ」
パクパクパクと音を立てながら、粥らしき泥を口を運ぶふりをする。
「まあ!ひどいわ、あなた!わたしのごはんがたべられないの!?」
ヨヨヨと口にし、泣き崩れたふりをする麗ちゃん。
いやいやいや、さっき口に運ぶふりしましたやん。あかんのかい。時代設定どうなってんの?昭和か?いやいや、昭和でも泥は食わんて。え?食べんの?この泥を?
撤回。確かにさっき靴舐めてもいいみたいなこといったし、メグちゃんのためなら何でもするって言ったけど、この泥を食べるのはメグちゃんのためにはならんて。腹壊すて。食えんて。
「いやいや、麗ちゃん。さすがにこんな泥は食べられ……泥……」
「あら?ゆうくん、どうしたの?ないてる?」
「泣いてなんか…いや、そうだね、ごはんがおいし過ぎて…」
「まあ!よかったわ!そんなこともあろうかと、いっぱいつくってありますの!」
卓の上に続々と増える、椀、椀、椀。泥、泥、泥。
「エクセレント……」
僕は泥粥のあまりのおいしさに涙した。
「ゆ‐く‐ん!」
美幼女からはい、あ‐んと言われながら口に泥を突っ込まれそうになる天国だか地獄だか判別しづらい状況の中、僕を呼ぶ大声が聞こえる。
こういう時は大体あっちゃんが僕を呼んで麗ちゃんと僕を取り合ってひと悶着、というのがセオリ‐だが今日は違うらしい。
「どうしたの、エミ先生。タイミング最高過ぎるから僕と結婚して幸せなおままごとして」
「ごめんなさい。私年上が趣味なの」
「まあ、あなたひどいわ!うわきだなんて!」
出会って三秒で振られたうえに家庭崩壊しました。
天姫 優の幸せ結婚生活、完。
やっぱり僕にはメグちゃんしかいなかった。
「じゃなくて、ちょっとお願いがあるんだけど」
「やだ」
なんで僕を振った女性の頼みを聞かねばならないんだ。そんな都合のいい男になってたまるか。
「実はあっちゃんがまた喧嘩してるらしくて」
「ねえ、僕やだって言ったけど、聞いてる?」
「あなた、こんやのごはんはどうします?」
さっきから皆、僕の話聞いてくれてる?泣くよ?全力で泣くよ?僕が泣いたらメグちゃんが駆けつけてくるよ?あ、それいいな。泣こうかな。メグちゃん来てくれるかな。
「なんだいつものことじゃん。泣く子をあやすのも先生の仕事じゃん、頑張って!」
「泣かずに済むならそれが一番でしょ。それに今から先生は別の子を見に行かなきゃいけなくて」
「あっちゃんが揉めてるならどうせもう手が出てるでしょ。相手は誰なの」
「それが……可憐ちゃんらしくて」
「それを先に言ってよ!」
「あなた!どこいくの!」
「晩御飯までには帰るよ!」
手を伸ばす麗ちゃんを差し置き、僕は慌てて飛び出す。
しまった、場所を聞きそびれたと後悔するも騒動の場所はすぐに見つかった。
騒ぎを聞きつけてか、すでに人だかりができていたのだ。
慌てて飛び出してきたので、なぜ喧嘩になっているのかもわからない。もうすでにあっちゃんんが手を出して可憐ちゃんは泣いているのかもしれない。焦る気持ちをなんとか抑えて、園児の一人へと尋ねる。
「何があったの」
「よくわかんない。あっちゃんが怒ってるって」
「そう、ありがとう。じゃあちょっと通して」
尋ねても、喧嘩が起こっているということしかわからず、介入するためにも直接話を聞いた方が早そうだ。
数人の園児をかき分けて渦中へと入り込むと、大きく手を広げる可憐ちゃんとあっちゃんを含む男児数人が対峙する形になっていた。
「どうしたの、可憐ちゃん、あっちゃん」
「べつに」
割り込んできた僕に対し、先頭に立つあっちゃんはなぜかムッとした不機嫌な様子でぶっきらぼうに答える。
現状で何事もなかったはさすがに無理だよ、あっちゃん。
「ゆうはかんけいないだろ。はいってくんなよ」
「そうだそうだ」
男児数人が囃し立てる。
「関係なくないよ。僕ら友達だろ。それに先生に頼まれてきたんだよ。このままじゃ皆怒られるよ」
「うっ…」
「それは…」
よかった。まだ先生に怒られたくはないと思える理性はあるらしい。
「何があったのか教えてよ」
「べつになにもわるいことしてねえよ」
「そうだよ、おれたちはただあそんでただけで、ブスがいきなりぶつかってきたんだよ」
「ちがうもん。みんながいじめてたの」
数人の男児の発言を可憐ちゃんが遮る。
「いじめてた?誰を?」
「ありさん」
可憐ちゃんが自らの後ろを指さす。
そこにはアリの行列。
その言葉で僕は全てを察した。
男児数人がアリを踏みつぶしていたのを可憐ちゃんは彼らにぶつかって止めたのだ。
「そっか」
僕は可憐ちゃんの優しさと勇気を侮っていたようだ。
花の一輪が折れていたことを悲しんでいた彼女が無数のアリの死を見過ごせるわけがなかったのだ。
「だからなんだよ!ブスにはかんけいないだろ!」
「そうだそうだ!」
男児の一人が逆上して声をあげる。
その怒声に続き、続々と男児たちが声を上げる。
「う……」
その様子に可憐ちゃんは委縮してしまっている。
「か、かんけいあるもん!」
「なんだよ!ブス!」
「ひっこめよ!」
「ちがうもん…わたしブスじゃないもん…」
ああ、これはダメだ。これはだめだよ、皆。
こんな事態、僕が見逃せるわけないじゃないか。
泣きそうになっている可憐ちゃんを僕が見過ごせるわけないじゃないか。
なんせ僕はメグちゃんの誇れる息子なのだから。
「落ち着いてよ、皆。確かに、アリさんと可憐ちゃんに関係はないかもしれないけど、可憐ちゃんはただアリさんがかわいそうになっただけだよ、守りたかったんだよ、アリさんを」
「はあ?」
「いみわかんね‐」
「僕は転んで膝を擦りむいて痛かったよ、すごくすごく痛かった。痛くていっぱい泣いちゃった」
「いきなりなんだよ」
「皆だってあるでしょ、けがをしたこと。すごく痛かったよね。アリさんだって一緒だよ。皆に踏まれて痛いよ痛いよって泣いてるよ」
「ありがなくわけないだろ、ばかじゃねえの」
「どうして?」
「はあ?ありがないてんのみたことないのかよ」
「ないよ。ないけど、見たことはないだけだよ。みたことないからってないわけじゃないと思うよ。だって生きてるんだもん。ありさんだってきっと笑ったり、泣いたりすると思うよ、痛かったりすると思うよ」
「はあ?だってみたことねえし……」
「見たことないから信じないの?君は幽霊っていると思う?」
「なんだよ、いきなり。いるんじゃねえの?」
「そうなんだ。じゃあきっと君は幽霊を見たことがあるんだね。すごいね。どんなのだったの?」
「は?だれもみたことあるなんていって…」
「見たことないのに幽霊を信じてるの?でもアリさんが泣いてるのを見たことないからって信じてないの?」
「はあ?」
「だって言ったじゃん。見たことないから信じないって。アリが泣くわけないって」
「それは……」
彼は言い淀んでしまった。
これで見たことないものは存在しないものって証明はできない。はい、論破。
五歳児にしては弁がたつが、前世では上司から「お前は母ちゃんの舌から産まれたんか」と絶賛された僕に舌戦で勝とうなど一生早い。
なまじ弁がたつほど知恵が回るのがかえってあだになっちゃったね。
「皆がどうしてアリさんを踏んでたのか僕にはわからないけど、きっとアリさんは怖くて痛かったんだよ。可憐ちゃんはそんなアリさんを助けたくて皆にぶつかっちゃんだよね、そうでしょ、可憐ちゃん」
可憐ちゃんの方を振り向くと、彼女はコクリと弱々しく首を振る。
「可憐ちゃんは優しいからアリさんを助けたかったけど、間違えちゃったんだよ。ぶつかっちゃだめだったんだよ。アリさんが可哀そうだからやめてあげて、そう言えばよかったんだよ。
だからほら、今はぶつかった子にごめんなさい、しよ。優しい可憐ちゃんならできるよね?」
「……うん。ぶつかって、ごめんなさい」
可憐ちゃんは自らがぶつかった子へと歩み寄り、ペコリとお辞儀をし、謝罪を述べる。
謝られたのは先ほどの弁がたつ子だったが、彼は居心地の悪そうに頬を掻いている。
「ほら、可憐ちゃんが謝ったよ」
「う…わかってるよ…。いいよ…。」
「ありがとう。でも、アリさんは潰さないで」
おや。ここでもまだアリの話をほじくり返すのか。
「アリさんもおはなもいきてるから、ふんじゃだめ」
「僕も可憐ちゃんも、アリさんはお花だって踏んづけられたらきっと痛いよ。もちろん、君だって痛いはずだよ。だからやめようよ」
「わかったよ…。ブスとゆうのいうとおりにする…」
聞き分けのいい子だ。
しかし、僕にはまだ見過ごせないことがある。
突然だけど、皆は言霊って信じてるかな?
言葉には力がある、ってやつ。
僕はもちろん、信じている。
頑張れって言われたら、嬉しいし、頑張ろうって気になる。
死ね、なんて言われたら悲しくて悲しくてたまらなくなる。
人はこの言葉によって感情を揺れ動かされる。きっとこの揺れ動かされる感情こそ言葉の力だと言ったんだと思う。
さらには花に毎日、綺麗だねと言い続けた人々もいる。
そのおかげで花は綺麗に咲き誇ったこともある。
綺麗だね、可愛いねと褒め続けられた花は綺麗に咲くのだ。
ならば、きっと逆も起こってしまうのではないか。
「ストップ。ブスじゃないよ、可憐ちゃんだよ」
「はあ?」
「この子の名前。皆はブス、ブスって言うけど、名字が毒島さんなだけ。知ってる?ブスって悪口なんだよ、だから可憐って名前で呼んであげてよ」
「はあ?別にブスでもいいだろ…」
「よくないよ。ブスってブサイクってことなんだよ。可憐ちゃんはブサイクじゃないよ。むしろ、可憐ちゃんの名前にふさわしい人だよ」
「ふさわしいってなんだよ」
「可憐って言葉にはかわいいって意味があるんだよ。だから、ほら」
僕は可憐ちゃんの傍らに立ち、彼女へ「ごめんね」と短く告げ、彼女の長く伸びた前髪を左右へかき分けて顔面を晒す。
「わっ!」
「かわいい‐!」
「おにんぎょうさんみたい!」
正面に立つ数人の女子が望んだ反応をくれる。
可憐ちゃんの素顔を見た全員がきゃ‐きゃ‐と騒ぎ立てる。
思った通り。
ハンカチを拾ってくれた時に垣間見えた目や折れた花に黙とうを捧げる彼女を横目で見たとき、とても可愛らしい顔が見えていた。
可憐ちゃんはきっと、名付け親の希望通り、しっかりと言霊を宿していたのだ。
彼らにとって可憐であってほしいと、すべての人から可憐と思われる子に育って欲しいと。
そう願われ、真っすぐに育ってきた彼女の性根が純真無垢で可憐であるように、その容姿も伴い、しっかりと可憐に育ったのだから。
だからこそ、僕は否定せねばならない。
可憐である彼女が無邪気な邪気に晒され、ブスと呼ばれ続け、捻じ曲がり歪に育つなど決してあってはならない。
僕の女神であるメグちゃんに優しく育って欲しいと願われた僕が、そんなことを許してはいけない。
「おい、ゆう」
皆が可憐ちゃんの素顔にわ‐きゃ‐騒いでる最中、今まで静観してたあっちゃんが近寄って声をかけてくる。
手が早いあっちゃんにしては珍しいなとは思っていたけど、おかしい。
彼は可憐ちゃんの顔を見て驚いた様子もない。
「なんだい、あっちゃん」
「おまえ、ブスのことすきなのかよ」
「可憐ちゃんだよ、あっちゃん。この子は毒島 可憐ちゃん。毒島さんであって可憐ちゃんであってもブスじゃあない」
「うるせえ、だからすきなのかってきいてんだ」
出たよ、子供のお前その女子の事好きなのかよム‐ブ。
好きだから構うだとか好きだから虐めるだとか、嫌いだが構うことだってあるだろう。
人間の感情なんて好きか嫌いかで綺麗に二分できるわけがないんだから。
「好きだよ。可憐ちゃんが好きだよ。だから助けにきたんだし、僕は皆好きだよ。エミ先生だって麗ちゃんだって、もちろんあっちゃんだって。好きな人には仲良くなって欲しいじゃないか」
「すきって!かれんちゃん!」
「きゃ‐!」
いつの間にか数人の女子が可憐ちゃんを囲っており、これまた女子特有の惚れた腫れたの話でわ‐きゃ‐言っている。そういうのは学生女子のするもんだと思っていたけど、女性はいくつであってもそういう話が好きらしい。当の可憐ちゃんはきょとんと首を傾げてるが。
「あっちゃん。もしかして可憐ちゃんの事、知ってた?可憐ちゃんの顔見ても驚かないし、可憐ちゃんをブスって呼ぶいじめを始めたのも、あっちゃんだったよね?」
「うるせえ」
僕の問いに対し、あっちゃんは肯定も否定もしない。きっとそういうことなのだ。
「ま、まてよ!ブスってよんだのはあっちゃんだけど、いじめてねえよ!」
「そうだよ!むしろあっちゃんはとめてたよ!」
「そうなんだ。可憐ちゃんをブスって呼び始めたのはあっちゃんで、いじめを始めたのは皆なんだね。
どうしていじめが始まったの?」
「それは…あっちゃんがブ、かれんをブスってよぶのがおもしろくて」
「何もおもしろいことなんてないよ。言われた方はただ悲しいだけだよ」
【お前、うざいよ。消えろよ】
言った方は何の感情もないのかもしれない。
だけど、言われた方は傷つく。どうしてそんな風に言われてしまったのか、自分は消えた方がいいのか。
そんなことを延々考えてしまう。考えて考えて考えて、結局答えを出せずにいた。
いっそのこと言った本人に聞こうか。でも、もし本当に、消えることを望まれていたなら。
僕は……いや、俺はどうしていただろうか。
【ありがとう。生まれてきてくれて。ありがとう。私の子供になってくれて。ありがとう、ありがとう……】
あの言葉に僕がどれだけ救われたか。
僕らはアリじゃない。花じゃない。人間なんだ。
僕らは言葉で意思を伝えることができる。できてしまう。
だからこそ。
「僕はね、お母さん、メグちゃんに感謝してるんだ。メグちゃんは僕が生まれたとき、ありがとうって言ってくれたんだよ。生まれてきてくれてありがとうって。私の子になってくれてありがとうって。それで優しい子に育ってね、って。だから僕はメグちゃんの望む子になりたいんだよ。きっと、メグちゃんの望むような優しい子なら、いじめなんてあってほしくないし、大好きな皆には仲良く、楽しくしていて欲しいんだよ。可憐ちゃんだってきっとそうだよ、可憐ちゃんのママも可憐ちゃんに可愛くなってね、って言ってきたんだよ。でも、皆が可憐ちゃんをブスブスっていうと、可憐ちゃんはママの願う子じゃなくなっちゃうかもしれない。皆だってきっとあるはずだよ、パパやママにこうあってね、こう育ってね、って。みんなで一緒にそうなろうよ、パパやママが願う自分になろうよ。僕らはアリや花じゃなくてこうやって喋れるんだから、皆で一緒になりたい自分になろうよ」
「わたし、ママにいいこにしててねっていわれた…」
「ぼくはげんきにしててねって…」
皆が口々に言いあう。
なりたい自分に、パパやママ、皆にこうあってねとの願いを。
「そうだよ、やっぱりいじめなんてよくないよ!」
「みんなでなかよく!」
「そうだよ!」
眺めるだけだった皆が口々に意見を言い合い、大きな流れが生まれた。可憐ちゃんをブスと呼んではいけないという流れ。
「どうして可憐ちゃんにいじわるするの?」
「かあちゃ…ババアが言うんだ。うちのジジイと可憐のかあちゃんががうわきしてるって。だから、ジジイが可憐のかあちゃんのところにいけば、かあちゃんがかなしむ。かあちゃんがひとりになったら、次はおれのばんだ…」
あっちゃんは不安だったんだ。
可憐ちゃんがいじめられているのはお母さんしかいなくて。
そして浮気しているあっちゃんのパパが可憐ちゃんのママと引っ付けば、今度はあっちゃんのママが一人になり、次のいじめのタ‐ゲットはあっちゃんになる、と。
賢いんだか、馬鹿なんだか、あっちゃんは。
「あっちゃん、君がいじめになんてあうわけないじゃないか」
「そんなもんこわくねえよ。でも、かあちゃんが悲しむだろ」
ああ、だめじゃないかあっちゃん。
君はいじめが怖かったんじゃない。自分がいじめられることで悲しむお母さんを見たくなかったのか。
かっこいいなあ、君。君も可憐ちゃんと一緒じゃないか。
「大丈夫だよ、あっちゃん。きっとあっちゃんのパパは浮気なんてしてないよ」
ごめん、これは嘘なんだ。
浮気。読んで字のごとく、気持ちが浮つくこと。
さて、実際問題あっちゃんのパパが可憐ちゃんのママと浮気しているかは定かじゃない。
そもそも浮気だって程度があるだろう。きっと人によっては手を繋いだら浮気、キスをすれば浮気、肉体関係を結べば浮気、気持ちが他の人に移ったら浮気。
浮気の判断は個人によるものであって、あっちゃんのパパと可憐ちゃんのママがどういう関係なのかは僕にはわからない。
「なんでゆうにわかんだよ」
「だって、見たことないから」
「おまえ、さっきはゆうれいみたことないけどしんじてるって…」
さっきの僕の話、しっかり覚えてるのか。しかもここでそれを判断材料に使うって、やっぱりあっちゃんは賢いなぁ。
「あはは、ごめんね。適当言っただけだよ。僕だって幽霊は見たことないけど、信じてるよ」
なんせ幽霊ぐらい不可解な経験を自分自身がしてるわけだし。
「おまえ…!」
あっちゃんは顔に怒りを滲ませ、いまにも僕に掴みかからんばかりだ。
「落ち着いてよ、あっちゃん。きっと、僕がここでどう言ったってあっちゃんのパパが浮気してるかどうかはあっちゃん自身しかわからないよ。だから、あっちゃんの思いたいように思えばいいと思うよ」
あっちゃんがどういう過程であっちゃんのパパが浮気している、という情報を得たのかはわからないが、その疑念はまさに見るか、聞くかをしない限るいつまでも答えはない。
「僕らがいくら考えたってわかんないよ。あっちゃんのパパが浮気してるかなんて。どうせならいっそあっちゃんのママに聞いてみる?パパは浮気してるの?って」
「ば…きけるわけないだろ!そんなこときいたらかあちゃんがかなしむ……」
あっちゃんがあっちゃんのママにパパは浮気してるの?なんて聞けば、あっちゃんのママはいろいろな悲しみを負うだろう。息子にそんなことを聞かせてしまった悲しみ、あっちゃんのパパが浮気をしているかの再確認。様々な悲しみが。
そしてそのことにあっちゃんは気づいてる。やはり彼は優しく、賢い。
そして、こんなことを平然と聞ける僕はやはり狡賢い。
ごめんね、メグちゃん。やっぱり優しい子への道のりは長いよ。
「ごめんね、あっちゃん。僕は酷いことを言ってる。だけど、あっちゃんのパパや可憐ちゃんのママが浮気をしていたとしても、それはあっちゃんのパパやママ、可憐ちゃんのママたちのことであってあっちゃんや可憐ちゃんが関われることはすごく少ないよ。
あっちゃんのパパとママが別れたり、可憐ちゃんのママと付き合うことになったりしたとしても、それはママたちが決めたことであって、僕たち子どもがどうこうできることじゃないよ。だってママたちのことだもん。だけど、もしそうなったとしても、僕たちがいるよ。困ったら助けてって言ってよ。きっと助けになれるから」
「ゆう…」
衆人環視の中、あっちゃんは自らの家庭環境や悩みを吐露した。
賢い彼が、多数の園児に聞かれるのをわかったうえで。
それほどまでに彼は不安だったのだ。
「僕だって可憐ちゃんと一緒で、パパはどっか行っちゃって、ママのメグちゃんしかいないんだよ。パパとママがいる皆と違ってメグちゃんしかいないんだよ。
だけど、皆と違ってるからって変だけど、悪いなんて思ってないよ。
だってパパがいなくても、メグちゃんがいるもん。
メグちゃんは頑張って頑張って僕を育ててくれてるよ。
朝起きて、ごみを捨てて洗濯物を干して、ごはんを作って僕を起こしてご飯を食べさせてくれるよ。
幼稚園まで一緒についてきてくれるよ。僕がこうしてる今もメグちゃんは働いたり、家事をしてくれてるよ。時間になったら僕を迎えに来てくれて、お家に帰ったら一緒に手洗いうがいをして、僕と遊んでくれるよ。眠たくなったら一緒にお昼寝をしてくれるよ。それでも僕より早く起きて、起きたらごはんができてるんだ。それから一緒にテレビを見て、一緒にお風呂に入って、一緒に眠って、僕がトイレにいきたくなって怖くて一人で行けなくなっても、眠たい目を擦りながら一緒にトイレに行ってくれるよ。それでまた眠って、起きたら、またメグちゃんが全部してくれてる。きっと、皆だってパパとママが一緒にしてくれることを、メグちゃんは全部全部、一人でしてくれるよ。
でも、皆のパパとママと同じぐらい、ううん、負けないぐらいに僕に愛してるをくれるよ。そのこと悪いことなんて絶対誰にも言わせないから。メグちゃんが頑張ってくれてることを悪いなんて絶対許さないから」
「ゆう…」
あっちゃんがずっと僕の名前を呼び続けている。
一体彼の胸中は一体どんな気持ちなのだろうか。
狡賢い僕には優しい彼の気持ちがわからない。
「でもさ、メグちゃんでも困ったらゆ‐ちゃん、助けて‐って言ってくれるんだよ。だから僕は助けるよ。メグちゃんだって、可憐ちゃんだって、もちろん、あっちゃんだって。だからさ、なんとかなるよ。
どうにかなったって、あっちゃんが助けてって言ったら、僕は助けるよ」
さて、皆は僕を無責任というだろうか。楽観主義だと罵るだろうか。
仕方がないじゃないか。
あっちゃんの不安の源はあっちゃんのパパと可憐ちゃんのママの浮気だというのだ。
それは当事者同士で感情の落としどころを見つけてもらわねばならない。
そこから生じた責任や社会的制裁などももちろん、彼らに負ってもらうべきものだ。
僕らがいくらどう口出ししたって、最終的決断も責任も彼らがするものだ。
そしてその問題を全て棚に上げ、最悪の場合になったとしても、どうにかなるよ、と容易く口にした僕は無責任だろう。
しかし、案ずるなかれ。
僕には至上の天の姫たるメグちゃんがついている。
あっちゃんが僕を頼ってきて、僕にどうにもできなくても、僕がメグちゃんを頼れば解決する。
なんせ僕の女神であるメグちゃんだからね。万事女神頼みにて全て解決って寸法よ。
「だからさ、皆で言い合おうよ。僕はメグちゃんに自慢できる優しい子になりたいって。
困った時に助けてって言える子になりたいって」
「わたし、かわいくなりたい…」
「君は可愛いよ」
「ぼく、元気になりたい」
「君はいつだって元気だ」
「ゆう、おれは…」
あっちゃんは足を踏み出すが、やがて何かを逡巡し、立ち止まる。
今はまだ、なりたい君が見通せないのかもしれない。
かなえたい願いがないのかもしれない。
だけど、いつかきっと、それらができた日には僕に教えてほしい。
なんせ僕らは語り、伝えあえるのだから。
「ぼく、かっこよくなりたい!」
「わたし、可憐ちゃんみたいになりたい!」
「優くん!好き!結婚して!」
気持ちよく解決し、わいわいがやがやと皆が口々に願いを言い合っている中、ふとおかしな願望が聞こえた気がするが気にしないでおこう。ごめん、僕はメグちゃん一筋なんだ。
「ゆう…かれん…」
騒動の渦中となった男児数人が僕と可憐ちゃんに歩み寄ってくる。
まだ何かあるのかと思ったけど、彼らの表情がすでに物語っていた。
「かれん、いままでごめん」
「かれんちゃん、ブスなんていってごめんなさい」
「「「ごめん!」」」
各々が可憐ちゃんとしっかり向き合い謝罪の言葉を述べる。
きっと彼らも今、なりたい自分に向き合っているのだろう。
優しい彼らに。カッコいい彼らに。
しかし、可憐ちゃんはどうしていいか戸惑っている。
しまいには、僕に顔を向け、隠れた瞳から視線で物語っている「どうしたらいいの」と。
「そうだね。皆が悪いと思って頭を下げてくれてるんだから、可憐ちゃんがどうしたいか、しっかりと顔を上げてもらって、顔を見て言うといいよ。そうだ、麗ちゃん。髪留めとかヘアピンある?」
「どうぞ、だんなさま」
「ありがとう、これで完璧、と」
いつの間にやらすぐそばにいた麗ちゃんから髪留めを借りて、可憐ちゃんの前髪を止める。
それにしても旦那さまって、おままごとまだ続いてたの?
「みんな、こっちみて」
可憐ちゃんが口を開くと、皆は要望通りに顔を上げるも、すぐに視線をうろつかせる。
照れているのだ。気持ちはわかる。
可憐ちゃんの顔は、皆が言うように整った人形やアイドル顔負けの美少女なのだから、今まで目を合わせてこなかった分、急に視線を合わせると妙に気恥しい気持ちになるのだと。
「いいよ」
とどめにこれだ。
僕が伝えたわけでもなく、可憐ちゃんは完璧な笑みを浮かべて、男児たちのことを全て許した。
男児たちは顔を真っ赤にし、その笑顔に見惚れている。
(ああ、これは絶対何人か可憐ちゃんに惚れたろうなあ。初恋は五歳。おめでとうございます)
「さて、と」
清々しい気持ちのまま、可憐ちゃん達のもとを離れる。
素顔を晒した可憐ちゃんは今や大人気で、顔を真っ赤にした男児に囲まれたり、女児からは髪を弄られ、きゃ‐きゃ‐と騒がれている。
完璧に仲良し集団の完成だ。
「……ゆう」
大人しく園内に戻ろうとしたところ、声をかけられる。
あっちゃんだった。
彼の表情は依然曇ったままで、可憐ちゃんに謝った集団の中に彼の姿はなかった。
まだ彼の中では燻りがあるらしい。
「なんだい、あっちゃん」
「……ありがとな。いつかいうよ。たすけてって。だから、おまえもちゃんといえよ」
「もちろん。僕はいつだって正直だからね。困ったらすぐに助けてって叫ぶよ」
「そのときはまかせろ。あと、いつかあいつ……かれんにはちゃんとあやまるからな」
「そう、よかった。気にしてたんだよ」
「あと……ぜってえまけねえから」
彼はそう言い放ち、背を翻して集団ともかけ離れた場所に一人で赴いていった。
ずっと不思議だった。
いつもは喧嘩っ早いあっちゃんが最後まで手を出さなかったこと。最後まで可憐ちゃんには手をあげなかった。
可憐ちゃんの素顔を見ても驚かなかったこと。きっと、彼は以前に可憐ちゃんの素顔を見たことがあるのだ。
【おまえ、ブスのことすきなのかよ】会話の中で不自然なまでの急な質問。
そして、最後には【ぜってえまけねえから】
可憐ちゃんの決して不細工などと言えない素顔を知りながらも、可憐ちゃんをブスと呼び、周囲にさえその呼び名を浸透させた意味。その全てが腑に落ちた。
つまり、
「……ははっ。あっちゃん、完璧なライバルム‐ブなんだよなぁ、それ。かっこいいなぁ。
でもダメだよあっちゃん。好意はしっかりと口にして伝えないと」
今度こそ屋内でメグちゃんが迎えに来てくれるまでゆっくりしようと固く決意した……んだけど。
「ねえ、エミ先生。なんで僕の足にしがみついてるの」
「ゆ゛う゛く゛ん゛、せ゛ん゛せ゛い゛は゛か゛ん゛と゛う゛し゛ま゛し゛た゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
「うわ、きったな」
足元に縋り付いてたエミ先生ががばりと勢いよく顔を上げる。
その顔面には涙や鼻水、土やら泥やらと様々なものがこびりつき、見るも悍ましい顔面と化していた。
二十代未婚独身女性が見せていい顔、というか人様に見せていい顔じゃないんだよなぁ。
しかし、化粧はそこまで被害がないあたり、化粧品メ‐カ‐さんの企業努力には感服です。
「い゛ま゛ま゛て゛た゛い゛へ゛ん゛て゛し゛た゛ね゛え゛え゛え゛え゛」
「いやあ、今のエミ先生ほどじゃないと思うよ。いろいろツッコミたいんだけど、今はとっとと泣き止んで、ほら、鼻かんでゆっくり話そうよ。じゃないと作者が今エミ先生の発言大変ってめんどくさがってるし、はい、ハンカチ貸してあげるから」
エミ先生は僕の手からハンカチを受け取るとチ‐ンと勢いよく鼻をかんでいる。
いやぁ、いくら五歳児の前だからって異性の前で豪快に鼻をかむとか女捨ててるなぁ。
いやいや、これはさすがにエミ先生に失礼だ、そうだろう、単純に僕が男として見られていないだけだ。
そもそも五歳児を異性と意識してたらそいつぁやべえ奴だ。
「……ふぅ。失礼しました。先生は先ほどの皆のやり取りを見て大いに感動しました」
「みたいだね。あの泣き顔見たら相当だったと思うよ」
「ひいてはあの一連の騒動の結果を踏まえ、優くんのお世話を一生かけてしたいなと私は思いました」
「おまわりさんこの人です!」
こいつぁやべえ奴だ!あの時の声はお前か!
「待ってください、優くん」
「待てないよ!ツッコミどころしかないもん!どうしてそうなったのか聞くのすら怖いもん!おまわりさん助けて!」
「私自身、この感情をうまく説明できる自信がありませんが、きっと母性本能がくすぐられたのだと思います。そして優くんを一生お世話したいなって思いました」
「おかしい!いろいろおかしすぎてもうどこかおかしいかわかんなくなってる僕もおかしい!誰か助けて!止めて!エミ先生と僕を止めて!やめてよ、こんな物語の佳境にとびっきりの濃いキャラぶっこんでこないで!帰ってきて!序盤のまともなエミ先生帰ってきて!助けてよ、メグちゃ‐ん!」
「待ってください、落ち着いてください。優くん、私は結婚も視野に入れて、優くんを旦那様と呼ぶ覚悟も決めてこの話を持ち出しています。きちんと聞いてください」
「やばいって!五歳児に求婚やばいって!何年待つ気でいるの!?スケ‐ルでかすぎるって!幼馴染の口約束のプロポ‐ズとわけが違うんだよ!?」
「ですから、言ったでしょう。一生をかける、と」
「おっも!全部おっも!もうやだ、この話聞きたくない!もう何も言わないで!」
「優くんが結婚できるまであと十数年、先生はその頃には三十代でしょうが、一生懸命若さを保つために頑張りますね」
「お願いだから僕の話を聞いて!そしてもう何も言わないで!」
最後の最後、とびっきりの爆弾のせいでめっちゃ疲れた。
「‐‐などということがありまして」
「は、はぁ……。」
ことのあらましをエミ先生は僕を迎えに来たメグちゃんに話している。
「ねぇ、メグちゃん、いいから帰ろう?早く帰ろう?もう先生の話聞くの怖いんだよ、僕」
「というわけで、優くんを私のお婿さんにください、お母さま」
「え!?優くんを!?婿!?まだ五歳ですよ!?メグちゃん呼びからお母さま呼びに!?」
「私はいくらでも待てます、あとはお母さまの許可さえいただければ」
「僕の意思は!?」
「バイバ‐イ、せんせ‐。ゆ‐くん、メグちゃん!」
「バイバ‐イ!気を付けて帰ってね‐!」
「バイバ‐イ」
「バ、バイバ‐イ」
会話をする僕らの横を、保護者連れの園児が過ぎ去り、お別れの挨拶を交わす。
エミ先生は笑みを浮かべて手を振り、僕をそれを真似て手を振る。
メグちゃんだけは照れた笑みで手を振る。
「……ねえ、ゆ‐ちゃん。どうして私は他の子にもメグちゃんって呼ばれてるのかな?」
「どうしてだろうねえ」
「そんなことより、優くんを私にください、メグちゃん様」
「メグちゃん様…メグちゃんさんより格が上がってる…」
メグちゃんは全てを諦めたかのようにはあ、とため息をついた。お疲れの様子。
僕も気持ちはわかる。エミ先生の暴走は留まるところを知らない。
「あの…」
僕らが再び会話する中、ためらいがちな声が横からかかる。
その声の主は、長い黒髪の若い女性だ。
見た目はとても美しいのだが、全身から疲労感を滲ませ、薄幸の美人といった印象。
どこか庇護欲を駆り立てる美人だ。
「ああ、可憐ちゃんママ。今日はお早いですね」
「いつも遅くなってしまいすみません、大変お世話になっております…」
可憐ちゃんママはぺこりと小さくお辞儀をする。
その所作にさえ疲労を感じさせる辺り、相当お疲れのようだ。
片親で小さな子供を育てるというのは僕の考えるよりはるかに大変なことなのだろう。
僕の視線に気づいてか、可憐ちゃんママは顔を上げると、僕とメグちゃんに小さく会釈する。
「こんにちは」
「こんにちは、可憐ちゃんママ」
「こんにちは、僕。お名前は?」
可憐ちゃんママは屈みこんで僕と視線を合わせてくれる。
子供と話すために視線を合わせるあたり、子供好きで優しそうだと好印象を覚えた。
顔を見ると、くりりと大きな目や整った顔立ちは可憐ちゃんとよく似ている。
優しやさ顔の造りなど、可憐ちゃんはしっかりとこのママの遺伝子を継いでいるらしい。
しかし、可憐ちゃんママの目元にはうっすらとクマができている。やはりお疲れなのだろう。
「僕はね、優!天姫優!」
「そう、優君っていうの。偶然だね、おばさんも優って言うの」
おや、珍しい名前ではないとしても嬉しい偶然だ。
好印象だった相手と同じ名前、妙な嬉しさがある。
それにしても見た目は二十代後半といったところ。おばさんと言うには早いだろうに。
「そうなんだ!よろしくね、優ちゃん!」
「ちょっと、ゆ‐ちゃん‐?」
可憐ちゃんママこと優ちゃんの後ろでは、メグちゃんが剣呑な雰囲気を醸し出す。
おそらく、初対面の人をちゃん付けで呼ぶとはなにごとか、といったところだろう。
どうか今は見過ごして欲しい。初対面な今こそ、距離間のおかしな失礼な子、と印象付ける格好のチャンスなのだ。
「ねえ優ちゃん!優ちゃんはあっちゃんのパパと浮気してるの?」
「ちょ、ちょっと、ゆ‐ちゃん!?」
「メグちゃんさん」
僕のあまりの失礼な質問をメグちゃんが咎めようとするが、エミ先生が制止した。
無邪気な子供の無邪気な質問なのだ、どうか見過ごして欲しい。
まあ、実際に無邪気なのは見た目だけで邪気まみれなのだけれど。
しかし、本来は咎める側のエミ先生が制止してくれるのは予想外だったが、僕の意図を組んでくれたのだと好意的に捉える。ヤバい人ではあるものの、僕の意図を理解し、協力してくれるのはただただ感謝だ。
「えっと、優君、それは一体……」
優ちゃんの顔には戸惑い。しかし、焦った様子はない。
「あっちゃんが言ってた!あっちゃんのママが、あっちゃんのパパと優ちゃんが浮気してるって!」
「あっちゃんのパパが私と……?あっちゃんのママが……。ああ、そういうことなのね」
優ちゃんは僕の言葉を復唱し、じっくりと嚙み砕いて解釈した。
その表情には依然焦りや後ろめたさといったものは一切感じられない。
「あのね、優君。あっちゃんのお家はお店屋さんをやってるんだけど、よくおばさんはそこに買い物に行くの。それで、あっちゃんのパパとおばさんは昔から仲良しで、よくおまけでいろいろくれるの。その様子をあっちゃんのママがよく浮気浮気って言ってるの。きっとあっちゃんはそれを聞いて、あっちゃんのパパとおばさんが浮気してるって思っちゃったんだね」
優ちゃんは僕の目を見て話す。
その内容は誤魔化そうという話でも嘘である様子もない。
なんせこの人はあの可憐ちゃんのママだ。
問うてきた人に対し、子どもだからといい加減な答えを返すことはない。そう思えるほどには僕はこの人をすでに信用している。
この話はきっとまぎれもない真実だ。
「そうなんだ!よかった!あっちゃんはパパを取られたりしないんだね!」
「そうだよ、だから安心してね。優君はどこでそんな話を…?」
「実は今日、あっちゃんと可憐ちゃんが喧嘩みたいになっちゃって、その話題があがったんです」
「可憐が……?」
「喧嘩って言っても口喧嘩みたいなもので、誰もケガがなくて良かったです。それも全部そこの優君のおかげでした、さながら大岡裁きのようでびっくりです」
大岡裁きとは、またワ‐ドチョイスがなんとも言えんなぁ、エミ先生。
「そんなことが……。ありがとうね、優君。可憐を守ってくれて。ごめんね、おばさんが不甲斐ないから迷惑かけて…ごめんね……」
彼女の瞳が大きく揺らぐ。不安や後悔。そういった負の感情をごちゃまぜにしたかのような危うい感情が彼女の瞳を彩る。
彼女の浮気疑惑も僕の中では完全に晴れた以上、彼女に責任はないというのに、なぜか優ちゃんは今にも泣きだしそうな顔をしている。
「大丈夫だよ、優ちゃん。優ちゃんは何にも悪くないんだから」
気が付けば、彼女の首へと手を回し、抱きしめていた。
ついにやってしまった。
いかに理知的にふるまおうと、僕だって人間だ。
たまには衝動にだって負けることはある。
ダメだとわかっているけれどと留まれるなら世の中から犯罪者は激減しているだろう。
こうなれば、やけくそだ。セクハラと怒られても知るか。
彼女を見ていると、ふと抱きしめたくなったんだ。
いつか、そう、僕が生まれたあの日、メグちゃんにもらった温もりを彼女にも伝えたくなったのだから。
「優ちゃんはきっと一人でいっぱい頑張ったんだよ。頑張りすぎちゃって、ちょっと疲れちゃったんだよ。だけど、きっともっと周りの人を頼っていいんだよ。ここにいるエミ先生やメグちゃんも、それに僕だって小さくてもできることがきっとあるから。だからもっと頼っていいんだよ。助けてって言っていいんだよ」
「あ……う……」
優ちゃんは戸惑った声を上げる。いきなり子供に抱きしめられたのだから当然だろう。
「あれ、私、なんで……おかしい、涙が、やだ、恥ずかしい……」
声が震えている。一生懸命感情の揺らぎを抑えているのがわかった。
「大丈夫だよ、優ちゃん。ここには泣くことを恥ずかしいなんて思う人はいないよ。泣きたくなったら泣いていいから。次、笑いたいときに笑えるようにいっぱい泣こう。ここに可憐ちゃんはいないから、今はちょっと休もう。だから、無理をしなくていいから」
「あ……うあっ、うああっ、うああああああっ」
僕の言葉を聞き終えた優ちゃんはその後、堰を切ったように声を上げて泣き始めた。
僕はそんな優ちゃんの頭を撫で続け、エミ先生もメグちゃんも温かな目で彼女が泣き終えるまで温かく見守っていた。
「羨ましい……」
エミ先生はもうちょっと空気読んで自重しようか。
「すみません、突然泣き出してしまい…恥ずかしいかぎりです……」
数分の間泣き続けた彼女はやがて自ずと僕の手から抜け出し、立ち上がってエミ先生とメグちゃんへと振り返る。
「もう大丈夫なんですか?」
「はい、おかげさまで。久々に声を出して泣きました、それも人前でなんて。本当恥ずかしいかぎりなんですけど、それでもなんだかすっきりした気分です」
メグちゃんの心配する声に優ちゃん少し困ったように笑っている。
それでも彼女の表情は何か憑き物が落ちたかのように、やや明るくなっている気がする。
「ねえ、優ちゃん。泣くことって恥ずかしいの?僕は痛かったり、怖かったら泣いちゃうよ。楽しかったら笑うよ?これって恥ずかしいのかな?」
「優君が泣きたくなったら先生の胸はいつでも貸しますよ」
お願いだからエミ先生は黙ってて。
「こ‐ら、ゆ‐ちゃん。あまり可憐ちゃんのママを困らせないの。大人にはいろいろあるのよ」
メグちゃんは何事もなかったのようにエミ先生の発言をスル‐。いろいろあった大人はつよい。
子供は当たり前のように泣くし、笑う。
だけどいつしか、人前で泣くことを恥ずかしがったり、相手に迷惑をかけると思って遠慮したりするようになる。
それが大人だった僕からしても不思議でならない。
なぜ大人が人前で泣いてはいけないのか。
その理由が沽券や体裁、プライドなんてものだったら犬にでも食わせてしまえばいい。
泣きたい時に泣かずにいるといつかパンクしてしまう。
そんなことになる前に僕のようにメグちゃんの幸せのためなら麗ちゃんの靴を舐めるぐらいの意地だけ持っていればいいと思うよ。
「そう、だね…。不思議だね、優君。なんで人前で泣いちゃいけないって思うんだろうね」
優ちゃんは僕の言葉に同意し、不思議そうだ。
「だよね‐。僕なんていつもメグちゃんに頼ってばっかだもん」
「そうだね‐、ゆ‐ちゃんもいつまでも一緒にお風呂はいろ‐って言わずに一人で入れるようにならなきゃね‐?」
おおっとぉ!メグちゃん、この場でそれは反則じゃないかなぁ!?
メグちゃんを見れば、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。
僕が恥ずかしがるとわかったうえで言ったな!この鬼!悪魔!女神!
「一緒にお風呂!?なんて羨ましい!優君、今度から先生と一緒に入りましょう!」
なんだよこのヤバい人。我が家の団欒に乱入しようとするんじゃありません。
メグちゃんとのお風呂は何人も立ち入れない僕の聖域だぞ。
「さっきからエミ先生はどうしたんです……?」
「優ちゃん、先生もきっとちょっと疲れちゃってるんだよ、そっとしとこ?」
「はい!そうなんです!先生もとても疲れてまして!優君からハグしてもらったら元気百倍なんですけど!」
「僕のハグってそんな麻薬みたいなヤバいやつなの?」
「ゆ‐ちゃんは麻薬とかやばいとか、そんな言葉どこで覚えたのかなぁ?」
メグちゃんは頑なにエミ先生に触れずにいる。というか触れないようにしている。
もはやいないものかのように名前さえ呼ばない。そのせいで僕に火力が一点集中してるんだけど。
「気にしないで、メグちゃん。幼稚園は毎日勉強の場だから。いっぱい賢くなったよ」
「嬉しいような、複雑な気持ち」
「それにしても優君は本当に不思議。可憐と同い年とは思えない」
調子に乗ってメグちゃんといつものようなやり取りを繰り広げてしまったのだが、それを置いてけぼりだった優ちゃんに不審がられている。
これは今まで秘めていた必殺技のチャンスだ。
「僕は江戸川チ〇ポ!探偵さ!」
先生、ごめんなさい。
心の中で偉大なる先人に謝っておく。本当にごめんなさい。
「……ゆ‐ちゃん?」
場が凍り付き、僕を除いた三人の表情が強張る。
「あれ、おもしろくなかった?渾身のギャグだったんだけど」
「ママ言ったよね、下品なこと言っちゃだめって」
ニコニコと笑顔を浮かべながら額には青筋を浮かべている。
その様相は僕のギャグよりもはるかにギャグテイストだ。
しかし、実態は結構ガチなキレ気味です。
「ごめんなさい。もう二度と言わないから許してメグちゃん!」
「こら!逃げないの!」
「‐‐ぷっ」
「‐‐ふふっ」
メグちゃん以外の二人がクスクスと笑みを漏らす。
ほら、やっぱり僕のギャグがおもしろかったんだ。
かなり遅効性のギャグだったらしい。
「見て!メグちゃん!初めて僕のギャグが受けた!」
「アハハハハっ、ごめんね、優君!ギャグがおもしろかったんじゃないの」
「安心して、旦那様。さっきのギャグは死ぬほどつまらないから。二人のやり取りの方がよっぽどおもしろかったから」
「え、死ぬほど…つまんない……?僕の、ギャグが……?」
もはや理性を捨て去ってしまったエミ先生には僕のセンスあるギャグが通じぬほどにバ‐サ‐カ‐になってしまったいうこと……?
「うん」
優ちゃんが一切の迷いなく、断言する。
エミちゃんのみならず、優ちゃんまで……?ということは、もしや僕のギャグは本当に……?
渾身の一発が……不発……?
「う、うわあああんっ!」
「ちょ、こらっ、ゆ‐ちゃん!逃げるな‐っ!」
僕はその場を逃げ出した。ふりをする。
「あの、メグちゃんさん…?」
優ちゃんが控えめに、メグちゃんに声をかける。
メグちゃんはそれに対し、ニコリと笑みを浮かべる。
「ご挨拶が遅れてすみません、あの子の、天姫 優の母、天姫 恵と申します。
呼びにくければメグちゃんのままでも構いませんよ。といっても、ちゃんという歳でもないのですけれど」
「とんでもないです。なんというか、不思議なお子さんですね……?」
「アハハ、そうですよね、子どもっぽくない子だなって私も思ってます」
「どうしてあそこまで気にかけてくれるんでしょう……?」
「多分、私たちと似てるからだと思いますよ」
「似てる?」
「はい、私たちも母子家庭なんですよ」
「そうなんですか……?」
優ちゃんは気まずそうにしている。どうして母親いないのかとはデリケ‐トな問題で踏み込んでいいか戸惑っているのだろう。
だが、メグちゃん自身は大して気にしていないので、きっと話すだろう。
明かさねばならない。
どうして開始直後に葛城 優とドヤ顔で名乗った僕が今や天姫 優と名乗っているのか、この世界の秘密を。
決して適当に名付けた作者が間を空けて更新している間に姓を間違えちゃったぜ、とかいうメタなネタでは決してない、世界の秘密を。
「といっても、円満離婚なんですけどね。元旦那、あの子の父親がまあ女性にだらしなくて。結婚前からだらしないなあと思ってましたし、あの子が生まれて自重してくれるかなあと思ってたんですけど……。
まあ、そう易々と変わりませんよね、アハハ」
「え、えぇ……」
あまりにあっけらかんと笑って話すから、優ちゃんはひいちゃってるじゃん。
でもまあ、これで死んだと思われていた父が壮大なテ‐マをバックに、怪しげなマスクと光る剣を身に着けて僕の前に、私が父だ、と名乗って現れる世界線は潰えただろう。
宇宙の平和は人知れず守られた。さすがメグちゃん。救世の女神だ。
「いやあ、せめてあの子が大きくなるまでは我慢我慢って思ってたんですけど、つい喧嘩になっちゃって。正直、私は子供がほしかったけど、旦那はそうでもなかったみたいだし、もっと遊びたがってるって薄々感じてたので、話し合って別れました。で、今やあの子と二人で暮らしてるんですが……。
もし不快に感じさせたらごめんなさいね。」
「い、いえ……」
「母と幼い子で二人、正直、もっと苦労するかなって思ってたんですけど、いざ始めるとそうでもなくて。あの子が赤ん坊のころ、夜泣きはおろか、ろくに泣くこともなくて、よく私を見て笑ってる子だったんです。ご飯を食べさせて、寝かせて、泣きだしたらオムツを変えて、そしたらすぐに泣き止んで。
それをただ繰り返して、ちょっとずつ大きくなって。
気づいたらすんなり歩くようになって、喋るようになって、本当に、気づいたらメグちゃんメグちゃんって私のあとをおっかけて歩いてるような子になってました。
それでいろんなことを教えたら、あの子、一回教えただけですんなりこなせちゃうんですよ。
最初のうちは、うちの子賢い!天才だわ!なんて自惚れてたんですけど、ふと思ったんですよ。
ああ、この子、私を頼ってくれてないなあ、なんて。
もしかしたらこの子は私を頼りにしてくれてないんじゃないか、もしかしたら私はお母さん失格なんじゃないか、やっぱりお父さんがいないとだめなんじゃないか、なんて不安がぐるぐるぐる駆け巡っちゃって。そう思った途端、あの子が自分の子供ではない、別の何かに見えてくるようになっちゃって」
ああ、あの頃かあ、あったなあ、そんなこと。
幼稚園に入る直前、メグちゃんが僕を見る目。
不安や恐怖で染まった怯えた目で僕を見ていたのを覚えている。
「それである日、あの子が珍しく、というか初めて、メグちゃん助けて‐って叫んだんですよ。
何事かと思って、駈け寄ったらあわや大惨事って事態になっちゃってて。
なんとか事なきは経たんですけど、気づいたら私、あの子を初めて叱ってました。
どうしてもっと早く私を呼ばなかったの、って。
そしたらあの子、いつも一人で頑張ってくれてるメグちゃんに助けてって言いづらかったんだ、って。
単なるすれ違いだったんです。
あの子は私を誰より家族だと思って労わってくれてて、私はあの子が頼ってくれないのは私が母親として不甲斐ないからだと思い込んで、お互いがお互いを労わった結果、すれ違ってただけなんですよねえ。
それで、思ったんです。例えあの子が何者であろうと、我が子に変わりはなくて、私はあの子の母親なんだ、って。それから二人で決めたんです、一緒に頑張ろうって、困ったら助けてってすぐに言おうって。
だから、あの子が誰かを助けると決めて、力及ばずに私に助けを求めたなら、私は全力で何があろうと助けるって。と、まあ随分長く喋っちゃいましたけど、あの子が助けるから私も助けるんじゃなく、私自身優ちゃんや可憐ちゃんが気になるから、お節介焼いちゃうかもですけどね。だから、何かあったらすぐ頼ってくださいね」
「そんな……私なんか何がお返しできるかわからないのに……。迷惑をおかけするばかりで……」
「見返りなんていいですよ、困った時はお互い様です、って言いたいですけど、もしあの子が困ってたら助けてあげてくれると嬉しいです。それがなによりのお返しですから」
それに、私、助けてって言われると迷惑どうこうより、嬉しくなっちゃうんですよね。頼られるとうれしい人間もいるってこと、覚えておいてくださいね」
僕はメグちゃんのこういうところを尊敬している。
僕は打算や計算で人がこうしたら喜ぶだろうと思うことを行っているが、メグちゃんや可憐ちゃんはきっと天然で行っている。
ふと僕が相手が迷惑がるかもしれないなどと考えているうちに、彼女らは独善的に優しくしている。
相手がどう思おうが、自分たちが行いたいから行う、優しさの押し売り。純然たる優しさ。
誰にどう思われようと、自らの優しさを貫く我の強さ。そんな強さを僕も持ちたい。
さすが我が女神メグちゃんだ。
彼女が手を貸してくれるなら僕は何も心配いらないし、優ちゃんこと可憐ちゃんママのことは彼女に任せておけば心配なし。
ママが迎えにきたよと可憐ちゃんにでも伝えに行こう。
「ママ!」
「可憐……」
「きょうははやいんだね!」
「うん、お仕事が早く終わったから迎えに来たの。それよりその髪留め、どうしたの?」
可憐ちゃんの前髪には騒動以降、麗ちゃんから借り受けた髪留めが留まっている。
「あのね!れいちゃんがくれたの!かれんちゃんはかわいいからそのままがいいよって!」
「そう……そうなの……よかった……よかったね、可憐……」
可憐ちゃんはにこにこと語る。
長い前髪に表情を隠していた彼女が、常に孤独で、いつも最後までお母さんの迎えを待つ彼女の初めて見せた笑顔。
その笑顔は僕が見た中で一番可憐なものだった。
「どうしたの、ママ?ないてるの?どこかいたいの?」
「うん……うれしくてママ泣いちゃった……良かったね、可憐。可憐の周りにはいい人がいっぱいいるよ、可憐はいろんな人に恵まれてるね……」
「うん!かれんいっぱいいいひとしってるよ!エミせんせ‐にゆ‐くんにメグちゃんでしょ!あとね、れいちゃんとあっくんと、あとね!ママ!」
「‐‐そっかあ、ママもいい人かあ、可憐のいい人に、ママもなれたんだあ」
「もちろん!ママがいちばんひとだよ!」
「やったあ、ママ、嬉しいなあ……」
「うん!ママ!だいすきっ!」
「うん……うん……ママも、可憐のこと、だあいすき……」
優ちゃんはそっと可憐ちゃんを抱きしめる。
親子の絆をしかと確かめられた美しい一幕。
いつまでも見ていたいと思える情景だが、いつまでも盗み見てるのも野暮というものだろう。
「さ、ゆ‐ちゃん、帰ろっか」
メグちゃんはそっと僕に手を差し出す。僕がその手を握ると、メグちゃんがきゅっと握り返してくれる。
きっとメグちゃんも二人の絆を邪魔しまいと僕と同じように考えたに違いない。
「うん!」
「じゃあ帰りましょうか」
野暮な声が響く。
「ねえ、エミ先生。なんで僕の手を握ってるの?」
「いえ、先生もお家に帰ろうかと」
エミ先生、まだいたのか。
「百歩譲って先生が帰るとしても、なんで僕の手を握るの」
「まあ、百歩譲ってだなんて、旦那様は博識。ちなみに旦那様のご自宅は百歩圏内で帰れますか?せっかく譲っていただいたのでその足で向かおうかと」
「やめてよ!無駄にウィットに富んだ返しをしないで!返るんじゃなくてお家に帰って!」
「冗談ですよ、旦那様は本当に愉快で賢いんですね、とても五歳児には思えない。というか五歳児と思ってないから早く結婚して」
「触れないようにしてたけど、しれっと旦那様とか呼ぶのやめて!助けてメグちゃん!変質者が手を放してくれない!お家帰れない!」
「ごめんねゆ‐ちゃん、メグちゃんにはどうすることもできないの。というかもうあきらめてるの。ところでゆ‐ちゃん絶対五歳じゃないよね?何者なの?」
「そのくだりもういいから!助けて!」
「‐‐とまあ、冗談はさておき。あまり可憐ちゃん親子の美しい一幕を邪魔するのも野暮というものですし」
「あの……なんかすみません、今日はお恥ずかしい姿ばかりで……」
優ちゃんはそういうなり両手で顔を覆い隠す。
隠れてない耳は真っ赤に染まっており、よっぽど恥ずかしいのだろう。
赤面して両手で顔を隠す大人な女性、可愛い。イイネ!
「そんな……とんでもないです……」
そんな優ちゃんの仕草を真似るエミ先生。
僕の心読んだ?
「読んでないです」
読心術やめろや。
「というか、可憐ちゃん親子のやり取りを汲み取れる情緒があるなら僕とメグちゃんの情緒も汲んでくれない?エミ先生」
「いえ、なんか女の勘が邪魔をしろと囁きまして。あとここいらで存在を主張しないと、あ、エミ先生まだいたんだ、とかいろんな人に思われそうだったので」
「安心して、こんな純度高い変な人の存在、そうそう忘れないから」
「あなたのことは一生忘れませんという熱い告白ですか、旦那様」
「やっぱこの人頭やばい。話通じない」
「さて、今度こそ真面目な話をしましょうか。可憐ちゃんのご家庭も、旦那様のご家庭も大変だろうであろうことはもちろん承知しております。そんな大変なご家庭を微力ながらもお助けするためにも私たちはいるんです。ですから、困ったことがあればぜひ相談してください。一個人の微力ながら全身全霊で答えてみせます。旦那様のプロポ‐ズにも」
そんな予定は一生ない。
さて、それからというもの。
僕とメグちゃんは可憐ちゃん、時には可憐ちゃんママこと優ちゃんを交えて交流は増えた。
時には互いの親が代わる代わるで僕らの送迎をしたり、どちらかの家で預かったり、と忙しい二人の役割を分担することが増えて可憐ちゃんと過ごす時間が増えたのだ。
「おかえりなさいませ、旦那様。ごはんよ、あじわってたべてね」
麗ちゃんから僕の前にある机の上に、コトリと小さなお椀が置かれる。
その中には最早見慣れた泥粥。
一体僕は何度このおままごとを繰り返すんだろう……?
「さあ、かれん。あなたもごはんよ」
同じシ‐トに座る可憐ちゃんの前にも同じようなお椀が置かれる。中身はもちろん泥粥。
「わん」
しかし、可憐ちゃんのお椀は机ではなく、床に直置き。僕のよりひでえや。
「かれん、まずは旦那様がたべてからだからね。それまではまて、よ」
「わん」
どうやら、可憐ちゃんは犬役らしい。先程からわんしか言わない。
椀の前でわん、シュ‐ルすぎる。
「おかえりなさいませ、旦那様。お風呂にしますか、ごはんにしますか、それとも、わ、た、し?」
「パクパク、いやあ、ママのご飯はいつもおいしいなあ、ぱくぱく」
「わんわん」
「まあ!あなたったら!」
「ああん、旦那様のいけずぅ」
なんだろう、違和感が凄いのにもはやこれを違和感と覚えてない僕がすでに怖い。
いつも自然に一夫多妻になってるくせに、可憐ちゃんはずっと犬なんだよなあ。
あと、いたずらにご飯でもお風呂でもなくエミ先生と答えたらどうなっちゃうのか僕には怖すぎてできない。多分結婚までは確定しちゃう。
「ゆ‐!しょうぶだ!」
「ねえ、あっちゃん。いつまでも勝負じゃなくていい加減普通に遊ばない?」
とまあ、こんな感じで平凡な日を過ごしているのだけれど、実はおかしなことがある。
ちなみにエミ先生はこれが平常運転だ。
「ねえ、優君。よかったら今日ご飯食べていかない?」
「ねえ、優君。よかったら今日泊まってかない?」
「ねえ、優君。よかったお、おばちゃんとお、お、お風呂入らない?」
ちなみに最後にはなぜかめっちゃ目が血走ってて、息が荒げられてた。
おかしいなあ。どうしてこうなったのかなあ。
ある日、可憐ちゃんの家に遊びに行った時、可憐ちゃんが席を外したほんの数分、はあはあと大きく息を荒げた優ちゃんにね、ねえ優君!と大きな声と共にがしりと肩を掴まれた。
その時の僕の心境は、ああ、僕もとうとう大人の階段上っちゃうのかあ、まあメグちゃんに似た美形に育っちゃったわけだし、そんな美形に育てた神を恨むしかないなあ、でも神はメグちゃんっていう唯一の女神しかいないから恨めないなあ、むしろ感謝しかない。
ありがとう、メグちゃん神。美形に育ててくれて感謝します。
いつかどこかのショタコンかエミ先生辺りが暴走して僕を組み敷いて獣欲の限り貪られるんだろうなあとは思っていたけど、まさか優ちゃんがショタコンだったとはなあ。
まああれひっそりと僕をちらちらと盗み見たり血走った目で見てたり僕を見てはあはあ息を荒げて見てたあたりからいつかこんな日が来るだろうとは思っていたんだ。
きっとこれから僕は彼女の細腕に押し倒されていろいろなことされちゃうんだろうなあ。
すまない、諸君。実はどうやらこの作品はR‐18のようだ。
十八歳未満のお子様はこのままブラウザバックして健全に生きてくれ。
十八歳以上の大人はそのままステイ。
よ‐し、覚悟は済んだ。バイバイ、綺麗だった僕。
こんにちは、大人な僕。
おっと、いけないいけない。大事なことを忘れていたよ。
注釈、この作品に登場する人物は全て十八歳「なでなでしてほしいの!」
はい?
「あのね、優君、おばちゃんあれからもずっと頑張ってると思うの。だから、出会った日みたいに抱っこして頭をなでなでしてほしくて!」
おぉっと、第二のエミ先生出現か?
待ってくれ、これ以上僕の平穏を乱さないでくれ。
僕はただ毎日、メグちゃんに甘やかされて生きたいだけなんだよ!
合法的にオギャりたい! 悠久 @yukyudaxo
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