第19話 子猫の恋煩い

 父親は、昔から怖い人だった。


 常に怒り、怒鳴り、叫び、母を、わたしを責めていた。


 父親との最初の思い出は、殺されるかと思うほどの鋭い視線を向けられながら怒鳴られたことだ。


 トイレのドアのしめ忘れ、使っている部屋以外の部屋の電気がついていた、卵を落として割って無駄にした、待ち合わせの時間の数分遅れた、コップの置く場所が気に入らない……毎日、毎日、ありとあらゆる事柄で、母とわたしは怒鳴り散らされていた。


 なぜ、父があんなにも毎日起こっていたのか、今でもわからない。


 なぜ、家庭の中であんなにも怒鳴り散らしていた父が、外では家族以外の他人にあんなに優しい笑顔を向け、笑い合っているのかわからなかった。


 いずれにしても、母とわたしにはどうすることもできなかった。


 仕事が大変だから、父親のおかげで毎日ご飯を食べられる、気にしないようにするしかない、本当に父が家族を憎んでいるのなら、とっくに家から追い出されているはずだ、ご飯を、服を、寝る場所を与えてくれている、学校にも行かせてくれている、だから、父は怒ってるわけじゃない、ただ単にああいう性格なだけだ……ありとあらゆる考え方で日々をやり過ごしてきた。


 ――けれど、ある日、母が唐突に限界を迎えた。


 毎日、父親に些細なことで怒鳴られ、責められていた母は、泣き叫びながら家じゅうの物を投げ捨て、壊した。


 その光景を見ていたわたしは、母を心配し、泣きながらも、心のどこかで、「ああ、やっぱり」「いつかこうなると思った」「当たり前ことだ」――そう納得していた。


 やがて、母はいなくなった。


 外国人だった母は、母国に帰った。


 わたしも、母と一緒に生きたかった。


 母も、それを望んでくれていたことを覚えている。


 けれど、父親がそれを許さなかった。


「この子は大事な跡継ぎだ!!!」


 父親は、自分の病院を継ぐ子供が欲しかった。


 そのために、わたしの地獄が始まった。


 毎日、学校が終わったらすぐに家に帰り、勉強しなければならなかった。


 わたしの頭のできが悪い、母親に似たんだという理由で、テレビも本も玩具も禁止された。


 わたしには、勉強することしか許されなかった。


 父親が帰ってくるまでにお風呂を入れておかなければならないのに、勉強しなければと必死になっていたら、それを忘れてしまった。怒鳴り散らされた。


 冷蔵庫の扉が少しだけ開いていた。怒鳴り散らされた。


 学校では、いつも一人だった。人とどう接すればいいかわからなかった。何か下手なことを言えば、怒鳴り散らされると思った。クラスメイトも先生も、みんな、父親に見えた。


 ――だから、思ったんだ。


 わたしは、きっと、『こういう存在』なんだって。


 意味は、うまく言えない。


 でも、わたしは、『そういう存在』なんだ。


 だから、結衣姉もあんな目にあった。


 わたしが我慢していれば。


 わたしと出会わなければ。


 父親の言う通り、勉強だけをしていれば、結衣姉はあんな目に遭わずに済んだ。


 わたしが『そういう存在』だから。


 だから、わたしと関わった人はみんな傷つく。


 だから、わたしはひとりでいなくちゃいけない。


 正直に言えば、こんな世界はもういやだ。


 でも、どうすることもできない。


 怖くて、怖くて、どうすることもできないんだ。


 ――そう、思っていたのに。


「咲希さんの気持ちを、ちゃんと聞いてあげてください」


 あいつは、そんなわたしの『世界』を、いとも簡単にぶっ壊した。


「じゃあ、いったい誰が口を挟むんですか!!!!!!!!!!!!」


 あの瞬間、わたしは目の前の光景が信じられなかった。


 想像もしなかったから。


 あいつは普段、いつも優しい笑みを浮かべていて、声だって、心地よくなるくらいに落ち着いていて。


 いつだって、相手の気持ちを考えて、自分の目の前にいる人が、どうすれば幸せになれるのか、そんなことばかり考えている奴。


 誰かと喧嘩をする姿なんて、想像すらできなかったのに。


 でも、あいつは、あんなにも強大で恐ろしいわたしの父親に、一歩も引くことなく、立ち向かった。


 あんなに華奢な身体で、あんなに儚い容姿で……あんなに、怒鳴り散らされたのに。


 ……わたしの、ために。


「……」


 あの瞬間から、わたしの世界が変わった。


 何が変わったのか、明確にはわからないけれど……でも、胸を覆っていた大きな岩が砕け散って、その向こうにどこまでも広がる青空を見た時のような爽快感に満ちている。


 まだ、うまく受け止められない。


 自分の心がどうなっているのか。まだ全然、わからない。落ち着かないのにすごく安心していて。だから、また、戸惑う。


 ――とくん。


 そして、あの瞬間から、わたしはおかしくなった。


「おはようございます、咲希さん」


「…………おう」


「咲希さん、ひとりじゃ大変ですよ。手伝います」


「………………ああ」


「咲希さん、どうかしましたか?」


「――! な、なんでもねーよ! 顔近づけんな!」


「ご、ごめんなさい……」


 あいつの顔を、まともに見れなくなった。


 距離が近くなると、心がどうにもならなくなって、つい、ひどいことを言ってしまう。その後、傷つけてしまったと本気で後悔する。


 気づけばあいつのことを考えていて。


 でも、実際に会ったら、逃げたくなる。


 ――とくん。


「わたし、どうしちまったんだよ……」


 わけのわからない甘いしびれ。


 ふとした瞬間、高鳴る鼓動。


 全部、意味がわからない。落ち着かない。


 夜に公園のブランコに座り、一人思い悩むくらい、今のわたしはどうかしてる。


「……」


 また、あいつのことを考える。


 本当に、最初から変な奴だった。


 怪我をしているわたしを助けて、公園ではおにぎりと飲み物を強引に押しつけてきて、自分の家まで連れて行って、色々面倒見て……。


 こんなどうしようもない不良娘、放っておいても見捨てても、誰も文句なんて言わないのに……。


「わたし、どうすればいいんだ……」


 父親への恐怖も、未来への不安も、何もかも、吹き飛んでいる。


 あれだけ悩んでいたことについて、今は何も考えられない。


 起きていても、瞳を閉じても……あの優しい笑顔が浮かんでしまう。


「……勘弁しろよ」


 助けを求めるつもりで、つい口にした言葉とは裏腹に……咲希の心には、芽吹き始めたばかりの恋心が生まれていた。


 


 

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