第18話 子猫と親猫
その日。
ヒロは咲希に連れられ、総合病院まで来ていた。
目的は、結衣の見舞い。
「……この人が、結衣さん」
真っ白なベッドの上で眠るその人は、とても綺麗な人だった。
窓から差し込む光に照らされるその様は、まるで、女神さまのようで。
ヒロはしばしの間、その神聖な姿に見入っていた。
「……結衣姉」
咲希が名前を呼びながら、そっと結衣の手を握る。
その声は、いつもより優しくて、儚くて。
これが、結衣と一緒にいる時の咲希であることを、ヒロははじめて知る。
「……」
結衣はまだ眠ったまま、答えることはない。
それでも、届いていることを信じて、咲希は少しでも自分の熱が伝わるように、握る手に力を込めた。
きゅ、と。
胸のあたりが締め付けられるような感覚を覚える。
現実に、目の前で眠り続ける人を前にして。
それが、咲希の大切な人で。
……なんで、こんなことになっているんだろう?
そう、思った瞬間、ヒロは泣きたくなった。
ふたりの気持ちを考えただけで、心が張り裂けそうになる。
結衣の手を握りしめたまま、咲希は縋るような視線でヒロを見上げる。
その瞳に胸のあたりがまたきゅっとなって。
それでもヒロは、咲希を安心させるために笑みを浮かべ、頷いた。
ベッドで眠る結衣に近づいて、挨拶をする。
「はじめまして。水無瀬ヒロと言います」
できるだけ、優しい音を心掛ける。
当然、結衣からの返事はない。
届いているかどうかもわからない。
ヒロは、じっと結衣の眠る顔を見つめた。
「……」
様々な思いが、胸に去来する。
……遊園地の日から、咲希は少しだけ変わった。
ほんの少し、笑顔の回数が増えた。
少しずつ、本音を言ってくれるようになった。
そうして、昨晩――ヒロは、咲希の過去の話を聞いた。
咲希の両親の離婚。
厳格すぎる父親。
医者になることを強制され、叱責と勉強のみの地獄のような生活。
学校でも孤独の中にいた咲希がとうとう耐えられなくなり、家出をした。
そんな、悲しい物語の中に登場する、結衣という女性。
咲希にとっては、母のような、姉のような、友のような――大切な存在。
彼女がいたから、咲希は今もこうしてここにいる。
そう思うと、自然に、感謝の気持ちが溢れてくる。
「……ありがとうございます」
どうしてか、涙が生まれる。
理由は、ヒロ自身もわからない。
でも、今すぐに、叶うなら、結衣と話をしてみたかった。
「咲希さんは、大丈夫です。みんなが、ついています」
感謝の気持ちと、そして、それだけを伝えたかった。
今後、咲希がどうなるのかはわからない。
咲希自身も、自分で思っている。
――いつまでも、ヒロの家にいるわけにはいかない。
どうするにせよ、自身で生計を立て、生きていかなければならない。
でも、たとえ咲希がヒロの家を去る日が来ようとも、ヒロは咲きと縁を切るつもりなどなかった。
絶対に、力になる。
だって、咲希はもう、ヒロにとって大切な友人だから。
そうして、結衣のお見舞いは終わった。
病室の中は、静まり返っている。
沈黙の中、不思議なことに、咲希は優しさが満ちているのを感じた。
どうして、ヒロに自分の過去を話し、結衣のお見舞いに来て欲しいと言ったのか……咲希自身にもわからない。
……嘘。本当は、わかってる。自分はもう、それくらい、ヒロのことを信頼している――。
咲希は、結衣の寝顔を見つめるヒロへ近づく。
そうして、「今日はありがとな」と声をかけようとした瞬間――病室の扉が、ガラ! と乱暴に開いた。
「――!」
🐈
「先生……本当に、本当に、ありがとうございました!」
愛宮正太郎は、非常に優れた医者だった。
難関とされる医大にも熱意に満ちた普段の努力で合格。
常に自己研鑽と修練を怠らず、真面目に、そして、懸命に医療の道を歩み続けた。
患者のことを第一に考えるその姿勢に、先達の医者からも一目置かれ、周りの医師たちも尊敬の念を送った。
異例の若さで総合病院の院長になった後も、患者第一の姿勢は変わらず、決して怠けることなく探求に励んだ。
不可能とされる手術を見事に成し遂げ、死を待つだけのはずだった患者を何人も救い、ゴッドハンドと謳われた。
今も、正太郎の手によって長い闘病生活から解放され、退院する少女が、涙をこぼしながら感謝を伝えていた。
「わたし、先生がいなかったら、きっとこんな風に笑えなかったです! こんな気持ちで、退院なんてできなかったです! 先生は、わたしに命と人生をくれました!」
母親に支えられ、ぼろぼろと涙をこぼしながら、自分を救ってくれた医者に感謝を伝える少女。
少女の母も涙を零しながら正太郎にお礼を言い、それを見守る患者や見舞いの家族の方たちに目じりにも涙が浮かんでいた。
正太郎自身も涙を浮かべながら、少女の感謝を受けとめる。
「……わたし、なれるかどうかわからいけど、お医者さんになりたいです! 先生みたいに、沢山の人を救いたいです!」
そうして、少女と母親は帰っていく。
何度も何度も振り返りながら、何度も何度もお礼を言って……。
やがて、ふたりの姿が見えなくなると、正太郎は目じりの涙を拭った。
患者や見舞いの方たちから、尊敬の視線を浴びながら、正太郎はくるりと向き直り、歩き出した。
まだまだ、救わなければならない患者は沢山いる。
胸に熱い想いを抱えながら、正太郎は診察へ戻ろうとする。――と。
「あ、愛宮先生」
「ん? どうしたかね?」
正太郎は、病院内では有名人であり、誰からも慕われ、尊敬されている。
ユーモアのセンスもあり、相手を尊重するコミュニケーションがとれる人物だからだ。
「さきほど、先生の娘さんが来られていましたよ。例の患者さんのところに」
……ぎ、と。
一瞬だけ、正太郎の瞳が鋭くとがった。が、目の前にいるのは、看護師(家族ではない外の人間)であることを思い出し、すぐに柔和な笑みを浮かべる。
「そうか。わかった。ありがとう」
それだけを言い置いて、正太郎はまた歩き出す。
しかし、その足は診察室ではなく、とある病室へ向かっていた。
ぐらぐらと煮えたぎる怒りを心に秘めながら。
――あの、バカ娘が!!!!!!!!!
正太郎は、優秀な医師だ。
加えて、コミュニケーション能力が高く、誰からも好かれる。
しかし、ジキルとハイドのような二重人格者だった。
外では、偉人のような人格者となり。
家族の中では、悪魔や鬼のような存在となる。
クズが! バカが! いつまであんな馬鹿な生き方を続けるつもりだ!? 恥さらしが!
怒鳴りつけなければ気が済まない。今すぐにこの胸に溢れる怒りを叩きつけなければおさまりがつかない。
そうして正太郎は、結衣の病室の扉を勢いよくガラ!と開けた。
🐈
「「「――」」」
そして、ヒロ、咲希、正太郎の三人は、一斉に驚きに目を見張る。
咲希は、突然、恐怖の象徴である父親が現れたため。
正太郎は、娘の咲希だけかと思っていたら、そこに見知らぬ他人がいたために。
ヒロは、突然乱暴に扉を開け放ったのが、この病院の医師だとわかったために。
「……!」
瞬間、正太郎は「しまった」と思った。
本当なら、扉を開けて咲希を見た瞬間、怒鳴り散らすつもりでいた。
しかしそこに、他人がいたために、ぐっと言葉を飲みこまなければならなくなった。
「……お父さん」
咲希は、力なく顔を伏せ、小さく震え始める。
考えなしな自分を改めて思い知って、泣きたくなる。
この病院には、自分の父親がいる。
それは、わかっている。
だからあの日、怪我をした自分をこの病院に運ぼうとしたヒロを必死で止めた。
家出をして学校も休み、不良たちとの喧嘩で怪我をして病院に運ばれてしまったら……どれほど父親が怒り狂うか、考えるだけで恐ろしかったからだ。
父親は、なによりも、『世間の目』を気にする。
人からどう評価されるか。
それだけが、父親の行動原理。
人から評価されるのはどうすればいいか?
それだけが、父の考える事柄。
父親は、なによりも、人からの評価を優先する。
病院に運ばれてきた馬鹿な不良娘が自分の実の娘だと同僚の医師や看護師、患者とその家族にバレてしまったら――正太郎の怒りは、咲希を殺すかもしれない。
わかってた。なのに、自分はこっそりとこの病院へ何度も来た。
結衣に会いたかったから。
結衣のお見舞いをしたかったから。
だから、今日、ヒロを連れてきてしまった。
きっと、なんとなかなるなんて――曖昧な考えで。
それが、この最悪の結果を招いた。
恐ろしい父親と、ヒロを……合わせてしまった。
「おや、友達かな?」
正太郎の人格が入れ替わる。
優しい父親になり、娘の友人に目を向ける。
咲希は、小さく震えながら、内心で、「なにやってんだ、わたしは――答えろよ、なんでもいいから、答えろよ」。
頭が混乱している。
父親は、人からの評価を気にする。
だから、ヒロがいる間は、優しい父親になる。
わかっていても――怖い。
「……」
ヒロは、明らかに怯えた様子を見せる咲希を見た。
「咲希と一緒にお見舞いに来たのかな? ああ、失礼。わたしは、咲希の父で、この病院の院長をしているんだ」
そして、優しい声で語り掛けてくる――どう見ても、心の温かい善人にしか見えない男性を見て――ヒロは、覚悟を決めた。
「はじめまして。僕は水無瀬ヒロと言います。よろしくお願いします」
とてもしっかりしている、と正太郎はヒロに好感を持つ。
相手がどんな人格を持っているか、その声や立ち居振る舞いからある程度はわかる。
見た目も可愛らしく、育ちのよいお嬢さんなのだろう。
そんな子がなぜ、うちのバカ娘と一緒にいるのかと疑問には思うが。
「あの、咲希さんのお父さん」
「ああ、なにかね?」
仕方がない。この様子では、帰りも一緒だろう。娘に教育をするのは、またの機会にするしかない。少しだけ会話をして、退散しよう。
「咲希さんのことを、もっと見てあげてください」
――!?
続くヒロの言葉に、正太郎も、そして、咲希も耳を疑った。
いきなり、なんだ? と正太郎は驚愕に目を見開く。
「咲希さんから、話は全部聞きました。咲希さんは今、僕の家で暮らしています」
さらにヒロは、爆弾を投下し続ける。
娘がよその家でやっかいになっている――ということよりも、『全部聞きました?』――何をだ? まさか!?
「!」
ギロ! と正太郎に睨まれた咲希がびくりと震え、目じりに涙を浮かべる。
そんな咲希を守るように、ヒロは正太郎の前に立ちふさがった。
「あなたが咲希さんにし続けたことは、とても許されることではないと思います」
やめろ。
咲希は、突然発生した悪夢ような事態に、心の中で絶叫する。
「咲希さんは、今も苦しんでいます。あなたが行った異常な教育のせいで、身も心もぼろぼろになったんです」
やめろ!
ヒロがこんなことをするなんて思わなかった。
「咲希さんに謝ってください。咲希さんの気持ちを、聞いてあげてください」
ヒロは、ちゃんと相手の気持ちも、場の空気もわかる奴だ。
なのに、なんで――!?
こんなことしたら……!
「……」
案の定、正太郎の雰囲気が一気に変わる。
彼は、人からの評価を気にする。
それを守るためならなんでもするし、どんな我慢でもする。
しかし、それが崩れれば話は別だ。
相手が自分を批判するような評価をしているのなら、そいつは敵だ。
「なんなんだ!!!!!!! 君は!!!!!!!!!!」
雷が落ちたかと思った――否、そんな生易しい迫力ではない。
咲希は、この病室が爆発したと、本気でそう思った。
それくらいの大声、それくらいの恐怖だった。
「無礼な!!!!!!!!! 何を聞いたが知らんが、人様の家の事情に口を挟むとは常識がないのか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
かいかぶりだった。
やはり、バカな娘の友人もバカだ。
可愛らしい外見と優しげな雰囲気に騙された! この二重人格者が!
「じゃあ、いったい、誰が口を挟むんですか!!!!!!!!!!!!!」
「「――」」
その瞬間、咲希と正太郎は一斉に黙り込み、頭が真っ白になった。
今の――身体が震えるような大声。
こんな華奢な身体から発せられるとは思えない大声と迫力に。
「あなたには咲希さんしかいない! 咲希さんにはあなたしかいない! あなたは咲希さんの父親で! 咲希さんを守る存在です! それなのに、そんなあなたが咲希さんを苦しめていたら! いったい誰が咲希さんを救えるんですか!!!!!!!」
動けなかった。
ヒロの声に、咲希も、正太郎も。
「お願いです。咲希さんの気持ちを、ちゃんと聞いてください」
もう一度、ヒロは繰り返す。
「咲希さんは、優しい人です。わざとあなたを苦しめるような真似は絶対にしない。咲希さんは家族を大切にできる人です」
「……」
「咲希さんが家出をしたのは、苦しかったからです。ちゃんと咲希さんの気持ちを聞いて、あなたの気持ちも伝えて、ちゃんと話し合っていれば、こんなことにはならなかったはずです」
現実的な問題として、自身の行動が正義であると信じたまま、家族を、友を、同僚を、関わる人を苦しめることは、多々存在する。
正太郎の場合は、まさにそのケースだった。
自分が咲希にどのような苦しみを与えているか、まったく知らない。
それどころか、自分の思い通りに動かない咲希を情けない不良品として蔑んでいる。
だから、ヒロは伝えたかった。
「お願いです。咲希さんの気持ちを、聞いてあげてください」
最後は、普通の声量だった。
けれど、ヒロのその言葉は、正太郎の胸にぐさりと突き刺さった。
「……」
何も言えない。
何かを考えることすらできない。
正太郎は、無言のまま踵を返し、病室を出た。
そうしてそのまま、遠ざかっていく。
「……! あ、おい!」
あまりのことに、何もできず状況を見守ることしかできなかった咲希は、突然目の前で崩れ落ちたヒロを見て、叫ぶ。
「大丈夫かよ!」
病室の床に膝をついているヒロは、すぐには答えられない。
そこでようやく、ヒロが震えていることに気づいた。
「……怖かったです」
当たり前だと咲希は思った。
あの恐ろしい父親に立ち向かうなんて、正気の沙汰じゃない。
見れば、ヒロは泣いていた。
ぽろぽろと、涙が生まれ、零れ落ちている。
「……お前、なに、してんだよ」
咲希の瞳からも、涙が溢れ、零れ落ちる。
「……ごめんなさい、咲希さん。僕、最低なことをしちゃいました」
事情はどうであれ、ヒロのしたこともまた、褒められることではなかった。
感情に任せ、叫んだり、怒鳴り散らしたりする。
本来であれば、感情を抑え、冷静に話し合うのがあるべき姿だ。
本当に咲希と正太郎の仲を取り持ちたいのなら、時間をかけて、もっとよい方法を選ぶべきだった。
ビジネスの場においてなら、ヒロのした行為は完全に看過できないことだ。
「……びっくりした。お前が、あんな真似するなんて、思わなかった」
……咲希も、ヒロのした行いに、ただ驚くことしかできない。……けれど。
「……っっっ」
ふいに、一気に、気持ちが溢れかえった。
「……ふ、ぐ、ぅ、あ」
――言ってもらえた。
自分が言いたかったことを。
ずっと伝えたくて、でも、ずっと我慢していたことを。
ヒロが、代わりに言ってくれた。
「……咲希、さん?」
突然、嗚咽をもらしながら泣き始めてしまった咲希を見て、ヒロに後悔が押し寄せる。
自分は、余計な真似をして、咲希を――
「……ありが、とう」
「――」
けれどヒロの後悔は、咲希の言葉に遮られる。
「グス、ぅ、ぁ……ありが、とう」
「……」
ヒロにも、涙がこみ上げる。
堪えられず、溢れかえる。
わかったから。
咲希が、どれだけ我慢していたか。どれだけ苦しんでいたか。
目の前で、泣いている姿から、それが伝わってくるから。
「う、あ、あ、ああああああ!」
その日、咲希は大声で泣いた。
生まれてはじめて、誰かの前で、大きな声で泣いた。
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