第4章 子猫の初恋

第16話 子猫の買い物

 拾ってきた子猫を幸せにするために、咲希とヒロは、色々なことを頑張った。


 ヒロが猫に詳しい友人に色々話を聞いたり、インターネットで子猫の育て方や食べ物について調べたり……。


 子猫は、もう自分で歩けるし、なにより、人になれていたので、親猫からはぐれたというよりも、飼っていた人が誰かに飼ってもらえることを願って離したか、あるいは、飼い主の家から離れた子猫が外で迷ってしまったのか。


 念のため、子猫の写真をとり、飼い主の方が探していないか、警察へ連絡。


 張り紙やインターネットで迷い猫を保護したことも公開した。


 もし、飼い主の方が探しているのなら見つかることを祈りつつ、少なくとも今は、水無瀬家の家族の一員として、子猫を幸せにすることにした。


 今日はまた改めて、街の大きなホームセンターに、猫の餌や玩具などを買いに来た。


「……広」


 それが、ホームセンターに入った咲希の感想だった。


 大きなホームセンターへ来るのが初めてな咲希は、カルチャーショックを受けた外国人のような気持ちになっていた。


 自然、ヒロは咲希がホームセンター初体験なことに驚いた。


 しかしそれは、無理からぬことだった。


 咲希は、父親の束縛が強く、いつも学校からまっすぐに帰っていた。


 友達もおらず、寄り道もせず、必要なものは全て家のお手伝いさんが買ってきていたため、言ってみれば、咲希は家庭と学校以外の空間をほぼ知らなかった。


 常識的に考えれば異常なことではあるが、事実だった。


 母親がいた頃は、遊園地などの施設に入ったこともあった。


 しかしそれは、咲希がとても幼い頃の話。


 母と父が離婚し、強引な手段で父に引き取られたその日から、咲希の絶望的な日常が始まった。


 そんなわけで、ホームセンターをはじめて訪れた咲希はタイムスリップしてきた原始人のように慌てふためいて、その様子を隠そうとしているけれど、そわそわしているのがバレバレな状態だった。


 前回は、ヒロのお父さんが子猫を拾ってすぐに車でこのホームセンターで猫用の買い物をしてくれたが、今回はヒロと咲希のふたりで来ている。


「咲希さん、大丈夫ですか?」


「へ、平気だよ。別に」


 大勢の人で賑わい、様々な種類の商品が山のように並ぶ巨大な店内……それだけのことで、ビビるわけねーだろと強がる咲希だが、傍から見ればまだ緊張しているのがよくわかる。


 そんな様子が……


「咲希さんて、やっぱり、可愛いですね」


「っ。――だから、お前さぁ」


 ヒロは、自然に、当たり前のように「可愛い」と言ってくる。


 ヒロはただ、本心を言っているだけなのだが、褒められ慣れていない咲希にとっては、軽い拷問だ。


 思えば、ヒロはいつもそんな感じだった。


 普通の人なら恥ずかしくて言えない、けれど、もし、言ってもらえたら嬉しい言葉を、自然に言ってくれる。


 ずっと、否定と戦いの世界で生きてきた咲希にとっては、信じられないことを、ヒロは当たり前のようにしている。


 だからこそ、咲希の心は簡単に揺れてしまう。


 ……もちろん、いやなわけではないけれど。


「あんまり、可愛いとか軽々しく言うなよ」


 ずっと否定され続けてきた人にとって、褒めることは少なくない動揺を与える。


 だから咲希は、ついそんなことを言ってしまう。


「わかりました。気をつけます」


「……ぜってー、わかってねー」


 ヒロはにこにこしながら、安請け合いする。


 けれどこれからも、ヒロが咲希を可愛いと言ったり、褒めたりするのは明らかだった。


 それは正解で、ヒロはそうするつもりだった。


 もちろん、本当に咲希がいやがることは絶対にしたくない。


 ……でも、咲希にとって必要だと思うことは、いくらでもしてあげたい。


「……」


 逃げるように視線を逸らして歩き続ける咲希を見つめながら、ヒロは思う。


 自分は、咲希のことをほとんど何も知らない。


 一緒に時間を過ごす中で、彼女の家庭環境に問題があったことはなんとなくわかる。


 その中で、咲希がどれだけ傷つけられてきたのかも……。


 だから、ヒロは、できる限り、咲希の心に寄り添いたい。


 そう、心から思う。


「猫のコーナーについたぞ」


 ほんの少し、ぶっきらぼうに、けれど、傍から見れば微笑ましく見えてしまう咲希の様子に、ヒロはまたくすりと微笑む。


「ユズちゃんはこのご飯が好きだから、これを買っていきましょう」


 ヒロの家に拾われた子猫は、ユズと名付けられた。


 名付け親は、ヒロの妹の咲奈。


 果物の柚子みたいに小さくて可愛いからという理由で名付けられた。


 不思議と子猫にぴったり合う気がして、咲希も含め、家族満場一致でその名前になった。


 拾った直後、ヒロのお父さんが何種類か子猫用の餌を買い、その中で、最もユズが気に入ったご飯を買う。


「今日は、ユズちゃんに玩具を買って行ってもいいかもしれませんね」


「ああ、そうだな……」


 ヒロが猫コーナーであれこれ買い物するのを見つめながら、咲希はなんとも言えない不思議な気持ちになる。


 自分が、赤の他人と一緒に、こうしてホームセンターで買い物をしている。


 目に映る世界は様々な商品が整然と並べられた広々とした店内で、大勢の人で賑わっている。


 なんで、わたしは今ここにいるんだ?


 わたしは……ここにいていいのか?


 そんな、罪の意識にも似た不思議な感覚と、


「咲希さん、この玩具とかどうでしょうか?」


「……わたしはわかんねーから、お前が好きな奴を選べよ。その方がユズも喜ぶだろ」


 自分を受け入れてくれる誰かが、『自分と一緒に買い物』をしてくれているという事実に、心が、なんて言ったらいいかわからない気持ちで満ちていく。


「じゃあ、これにします」


「っ」


 ヒロが手にとったのは、色々なことを考えながら、咲希が無意識にじっと見ていた猫の玩具だった。


 なんとなく、ユズが喜びそうだなと思って……でも、自分は本当は『部外者』だから。


 あの家族のことは、家族の一員が決めた方がいいと思ったから、黙っていた。


(……こいつ本当に、なんなんだよ)


 ヒロが咲希の視線にも、咲希の気持ちにも気づいていたのは明らかだ。


 だから、ヒロはその猫の玩具を選んだ。


 それくらい、もう咲希にもわかる。 


 見た目が美少女なこの少年は……いつだって、人の気持ちを見ている。


 事実、救われたような気持ちになった。


 ただ、自分が選んだ猫の玩具を選んでもらえただけで。


 泣きたくなるくらい、嬉しい気持ちがこみ上げた。


 ずっと、否定されてきたから。


 自分が選ぶものは、みんな、否定されてきたら。


 だから――。


「――っ」


 気づけば、涙が頬を伝っていた。


 そのことに咲希自身が一番驚いて、慌てて服の袖で涙を拭う。


 でも、涙は次から次へと零れて落ちる。


「……咲希さん」


 それは、とても優しい声だった。


 心に、寄り添ってもらえたことがわかった。


 それだけで、咲希の心は――。


「……わたし、おかしいよな」


 お前は、異常だ!


 ああ、そうだ。


 父親の言う通りだ。


 自分が子猫にプレゼントしたいと思っていた玩具を選んでもらえただけで涙を流すなんて、異常だ。


「そんなこと、ありません」


 お前は頭がおかしい!


 なぜ、そんな馬鹿な真似をする!?


 常識がないのか!?


 なんて、恥ずかしい奴だ!


 そうだ。


 父親の言う通りだ。


 頭と心がぐちゃぐちゃで支離滅裂で、いつだって、自分が何を言えばいいのか、何を言ったらいいのかわからない。


 自分は、突然、意味不明なことを言い出す変な奴だ。


「明日……ひくっ、レミたちと、遊園地に行くだろ?」


 涙が止まらないまま、全然関係ないことを話を始めてしまう。


 咲希はスマホを持っていなかった。


 だから、レミと奏がカフェに来た日の夜、ヒロのスマホで、グループトークをした。


 最初は、咲希、ヒロ、レミ、奏の四人で、なんでもない会話をした。


 その後は、ヒロのスマホで、レミと通話をした。


 そして、休日に遊園地に行く約束をした。


「意味、わかんねえと思うかもしれないけど、子猫の玩具の話をしていたのに、いきなり関係ない話をして、おかしいって思うかもしれないけど……」


 なんなんだ、わたしは?


 このホームセンターに来る前も、入った後も、全然、こんな風じゃなかった。


 なんでわたしは突然、気持ちがこんなにぐちゃぐちゃになってるんだ?


「嬉しかったんだ。でも、怖い。怖いんだ」


 自分は、人とどう接すればいいかわからない。


 何を言えばいいかわからない。


 何を言っても、何をしても、父親がそうしたように、怒鳴られ、否定される気がするから。


 だから、レミたちとグループトークで会話をすることになった時も、何を言えばいいのかわからなかった。


 自分は、ただただ、レミの質問に答え続けただけだ。


 その後、レミが自分とふたりで話をしたいと言った時、自分の中にふたつの気持が一気に生まれた。


 ひとつは、嬉しいという気持ち。


 自分でも驚いた。


 ただ、同年代の女の子と電話で会話をできる……たったそれだけのことで、自分はこんなにも喜んでしまう。


 もうひとつは、恐怖。


 怖い。


 何を言えばいいかわからない。


 何を話せばいいかわからない。


 おかしなことを言って嫌われてしまうかもしれない。


 いや、絶対にそうなる。


 だから、怖い。


 それなのに、同年代の友人と話ができるということへの嬉しさから、断ったら相手に嫌われてしまうかもしれないという恐怖から、断れない自分が心からいやになった。


 結果として、咲希が恐れていたことは実現しなかった。


 レミは、どこまでも優しかった。


 色んな話を聞いてくれた。


 色んな話を聞かせてくれた。


 咲希の言葉を、受け入れてくれた。


『遊園地、楽しみにしてるね』


 それは自分にとって、奇跡のような言葉だった。


 今まで、一度もなかったことだから。


 今でも、信じられない。


「咲希さん」


 その、どこまでも優しい声に、はっとなる。


 泣いていた顔をあげれば、そこにはやっぱり、ヒロの優しい顔があった。


「絶対に、楽しい思い出が作れます。遊園地で、思いっきり遊びましょう」


「――」


 この時、咲希は思った。


 自分は、おかしい。


 それは、間違いない。


 けれど……


「今、ハンカチで涙を拭きますから。動かないでくださいね」


「じ、自分でふける」


 きっと、ヒロたちは、今まで自分を苦しめた人たちとは違う。


 ……きっと、わたしの知らない世界を知っている。


 



 

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