第15話 子猫の新しい友達

「いらっしゃいませ~」


 お洒落なカフェの店内で、かろやかな声が響く。


 店内で、踊るように働くひとりの少年。


 どう見ても美少女にしか見えない彼は、何がそんなに嬉しいのか、見ているこちらが幸せになるような笑顔を浮かべていた。


「――」


 途中、目が合って……そうしたら、彼が微笑むものだから……自分の心臓が、ふいに、どきりとして。


 また、よくわからない鼓動が、とくん、とくんと、静かに鼓動し始めて……。


(……だから、なんなんだよ、これ)


 今日の朝、彼から朝の挨拶をされた時からふいに訪れる、不思議な気持ち。


 なんだか落ち着かないそれを、咲希はいったいなんなのか理解できなくて。


「……」


 それに、なんだか、この時間は、とても楽しかった。


 自分とヒロは、不思議と息が合って、心がぴったり合っているかのように、気持ちよく働くことができていた。


 ヒロがお店の仕事に慣れていることもあるのだろうけれど……ヒロがどう動くのか、何が欲しいのか、自分がどうすべきなのか、なぜか、自然とわかって。


 一緒に働くパートナーとして、相性がいいのか何なのか。


 そんな小さな事実もまた、咲希の心に、落ち着かない、けれど、いやじゃない感情を生んでいた。


 かろん、かろん……♪


「いらっしゃいませ~♪ ……あ」


 夕食の頃合いになり、込み始めている時間。


 またも、来店を知らせるカウベルの音が店内に響いた。


 それに気づいたヒロが、先程と同じように明るい声で挨拶をして……固まり、そして、すぐに笑顔になった。


「やっほ~、ヒロ。来たよ~♪」


 新しく来店したお客様は、ヒロの幼馴染で親友でもある、レミと奏。


 ふたりとも、一度家に帰って着替えてきたらしい。


 レミは、ギャル系のお洒落な私服姿。学校にいる時より、胸元は緩く、スカートは短く、アクセサリーも増えている。


 奏は、清潔感の感じられる爽やかな私服姿になっていた。すらりとした長身もあいまって、まるでモデルのよう。センスのいい眼鏡をかけている。


 レミは店内に響くくらいに元気な声と身振りで嬉しさを表現し、奏は黙ったまま、けれど、穏やかな笑みを讃えていた。


「ふたりとも、来てくれたんだ」


「ああ、ここのコーヒーが飲みたくなってな」


「わたしは夕食も食べちゃうつもり♪」


 ふたりは時折、ヒロの家のカフェに立ち寄ってくれる。


 レミにいたっては、忙しい時にヘルプでウエイトレスをしてもらうほどだ。


 今日、カフェへ来ることは聞いていなかったため、ヒロは一際嬉しくなってしまう。


 そのまま、みんなでわいわい騒ぎながらも、ヒロは友人達を席へと案内する。


 そして、楽しそうに談笑しながら注文を取り始めた。


「……」


 それは、紛れもなく、輝かしい青春の一頁。


 その場所が、きらきらと輝いているように見える。


 ……そんな光景を、咲希は見つめていた。


「咲希ちゃん、このコーヒーを、三番テーブルのお客様に運んでくれる?」


「――あ、はい」


 ふいに、声をかけられて、咲希はすぐに返事をする。


 春香からコーヒーを受け取り、お盆に載せ、三番テーブルへ。


 その途中、ヒロの方へ眼を向けると、彼はまだ友人達から注文をとっている途中だった。


「……」


 コーヒーを運びながら、咲希は、心の中でひとり呟く。


『……あいつ、親からも信頼されてるし、友達からも好かれてんだな』


 まだ、ヒロと出会ってから間もないけれど……色々、お世話になった。


 雨の中、病院まで運んでもらったり。


 お腹を空かせていたら、公園で食事をもらったり。


 素性のわからない自分を家に招き、温かいお風呂やベッドをもらったり。


 ああ、こいつは、いいやつなんだって……納得してしまうくらいのお人好し。


 別に、自分にとってヒロという存在がどうこうなんて考えたことはない。


 けれど、どうしてか……ヒロが別の誰かと……あんなにも笑顔で楽しそうにしているのを見ると……心が、落ち着かなくなる。


(なんでこんな気持ちになるんだ?)


 以前、大好きな結衣姉が別の誰かと楽しそうにしているのを見た時の気持ちと似ている。


(なんだこれ……落ち着かねえ)


「咲希さん」


「!?」


 咲希が3番テーブルのお客様にコーヒーを届けるのを見計らって、ヒロが声をかけてきた。


「もしよかったら、咲希さんをボクの友達に紹介してもいいですか?」


 きっとヒロは、咲希が人見知りな性格であることを短いつきあいの中で知っている。


 だから、こうして咲希の気持ちを先に聞いてくれた。


 こういうところ、本当に繊細な奴だなと思い、そんなヒロの気遣いにくすぐったさを覚えながらも、咲希は咄嗟に返事ができない。


 自分は、どう見ても、不良娘だ。


 金髪は地毛で、来ている服装も可愛い系のウエイトレスの制服だが、たぶん、雰囲気的に、『不良』のオーラを放っていると自分でもわかる。


 同年代であればなおのこと、鋭く相手がどういう人間か見抜く気がする。


(一人は、ギャルだけど……もう一人は真面目そうだな)


 咲希の中には、家庭の事情で、真面目な人=裏表のある怖い人の可能性が高いという図式が成り立っている。


 ヒロは、どこまで話しただろう?


 ヒロのことだから……たぶん、全部話している気がする。


 ちょっと見ていても、あのふたりがヒロのことを大切に想っているのは明らかだ。


 そんな大切な親友の家に、こんな不良娘が転がり込んでいたら、どう思うだろう?


 知らず、心と身体が緊張し、強張り始める。


 不良相手の喧嘩への恐怖なら、ある程度自分の中で飼いならすことができる。


 けれど、まっとうに生きている人からの批判に関しては、咲希はなんの防御手段も持ち合わせていなかった。


 もし、非難や懐疑めいた視線のひとつでも向けられたら、それだけで心がダメージを受ける自信がある。


「……わかった」


 それでも、ヒロが自分を友人に紹介しようとしているのなら、その気持ちを無下にはしたくなかった。


 不良ではあるものの、咲希はなんだかんだで優しい子。


 色々とお世話になっているヒロのお願い事を断ることはしたくなかった。


 単純に、ヒロの友人なのだから、いい奴である可能性が高いという考えもある。


 それに……。


「……」


 少なくとも、ヒロにとって自分は友人に紹介できないような人間ではない……ヒロがそう思ってくれているという事実は、正直、嬉しい……んだと思う。


「ありがとうございます、咲希さん」


「……おう」


 ヒロの笑顔になぜか気恥ずかしくなって視線を逸らす。


 そうして咲希は、内心でおっかなびっくり、けれど、表面上はどうにか取り繕いながら、ヒロと一緒に、ヒロの友人達が待つテーブルへ着いた。


 ヒロは、手のひらで優しく咲希を示しながら、紹介を始めた。


「ご紹介します。今日、学校でお話した愛宮咲希さんです」


「……っ」


 ヒロの友人達の視線が、咲希に集中する。


 途端、咲希の心と身体が硬直した。


 自分が何か言わないといけないことに気づき……けれど、緊張で何も言えないことに気づく。


(ああ、そっか……)


 そこで、情けなくて涙が出そうになる事実を思い出す。


(わたし、学校でいつもこんな感じだった)


 しばらく学校へいかず、結衣姉とばかり一緒にいたから忘れてた。


 わたし……本気で人見知りなんだ。


 ヒロとヒロの家族と話せたのは、自分のコミュニケーション能力が上がっていたからじゃなくて……単純に、ヒロとヒロの家族のコミュニケーション能力が高かったからだ。


 緊張する様子を見せる咲希に気づいたヒロが、すぐに咲希のフォローに入る……前に、


「……かっわい~~~~~~~~~~~~~~~♡」


 レミのテンションが爆発した。


「えー、チョーやばーい♡ ちょー可愛い~~~~♡ え、え、こんな子だったんだ~♡」


 まるで、アイドルでも前にしたようなハイテンション。


 思わず、咲希の目が点になる。


「俺は、藤堂奏。ヒロとレミの幼馴染だ。よろしく」


「あ、わたしも自己紹介する~! 神楽坂レミです。よろしくね。えと、咲希ちゃん?」


「あ、ああ」


 もしかしたら、非難めいた目を向けられているのではと恐れていた咲希は、けれど、可愛いと連呼され、顔が赤くなっている。


(な、なんだ、この子……?)


 不良であることを責められるかもしれないと恐れていただけに、真逆のリアクションを受けてどうすればいいかわからなくなる。


 と、逃げるように視線をそらした先で、偶然、ヒロと目が合う。


 思わず、どきっとすると、ヒロが嬉しそうに微笑んで頷いたので、またどきっとしてしまう。


「……」


 そして、その微笑と頷きの意味を理解した咲希は、たくさん逡巡してから、おそるおそる、口を開く。


「愛宮咲希……今、ヒロの家で世話になってる」


「声、可愛~~~~♡」


「っ」


 まさか、声まで褒められるとは思わず……人生で全く褒められ慣れていない咲希の心はさっきまでと別の意味でしっちゃかめっちゃかになっていた。


「すまんな、こういう奴なんだ」


「レミちゃんは、可愛いものが好きだもんね」


「うん、チョー好き~♡」


 奏が咲希に謝り、ヒロが補足する。


 レミは自分の喜びを隠すことなく、さらに咲希を褒める。


 明らかに恥ずかしさで顔を赤くする咲希を見ながら、ヒロは内心でレミに感謝する。


 自分が不用意に咲希を紹介しようとしたために、咲希の心を追い詰めてしまった。


 反省して、もっと気をつけようと思う。


 それを、レミが救ってくれた。


 思えば、彼女はいつもこうやって、誰かを温かく救ってくれる。


「か、可愛くねー」


「えー、めっちゃ可愛いよー、ね、ヒロ」


「はい。咲希さんは可愛いです」


「~~」


 ささやかな抵抗もむなしく、別の意味で追い詰められ、咲希の顔はさらに真っ赤になり、エプロンの裾をつかんだまま何も言えなくなっている。


 その内、レミからなぜこのカフェでバイトをすることになったのかという質問まで飛び出す。


 ヒロも咲希もバイト中だし、他にもお客さんはいるけれど……ヒロの両親も、お客さん達も、ヒロたちのことを笑顔で見守っていた。


「……」


 と、店内に広がる温かな空気の中、奏は冷静に咲希のことを観察していた。


 不良娘はヒロの家にいると思っていたけれど、まさか、ヒロの家のカフェでアルバイトをしているとは……会わせてくれとヒロに頼む手間が省けた。


(ふむ、どんな不良娘かと思えば……)


 雰囲気的には、たしかに『不良』のオーラがある。


 多少なりとも、暴力の世界で生きていなければ、この鋭さは生まれない。


 けれど……。


 おっかなびっくり、レミの質問に顔を赤くしながら答える咲希……その姿は、ヒロとレミの言う通り、とても可愛らしい。


(……この子なら、安心だな)


 ほっと息をついて、奏は眼鏡のブリッジを押し上げるのだった。


 🐈


 外に夜の帳が堕ち、お店の灯りが一際輝く時間帯。


 店内はお客で込み合って、ヒロも咲希も、ヒロのお父さんもお母さんも大忙しだった。


「咲希ちゃん、これ、頼めるかな? 七番テーブル」


「あ、はい」


 ちょうど、近くにいた咲希に、厨房からヒロのお父さんが声をかけた。


 渡されたのは、エビのクリームパスタ。


 できたて熱々のそれを慎重にお盆に載せ、咲希は丁寧に運ぶ。


 ヒロを目線で探せば、他のお客様に接客中だった。


「……えと、七番、七番――っ」


 一瞬、咲希は強張る。


 咲希の視線の先の七番テーブル。


 ……そこは、ヒロの友人達が座るテーブルだった。


「……」


 正直、気まずい。


 それが咲希の本音。


 本当のことを言えば、行きたくない。


 なぜか自分を猫かわいがりするレミの存在もあるし、固そうなオーラの奏に苦手意識を持っていることもある。


 他にも、同年代の子と話をすること自体が咲希にとってはハードルが高いとか色々な理由はある。


 けれど、この忙しい状況で、ここまで運んだ料理を、今からヒロに任せることもできない。


「……気合、入れろ」


 勝手に疎外感のようなものを感じている自分を叱咤して、咲希は力強く踏み出した。


 そして、春香に教わったとおり、笑顔で、明るい声で、料理を届ける……つもりが、かなりひきつった笑みと強張った声になってしまう。


「……お待たせ、しました。こちら、エビのクリームパスタに……なります」


「あ、はい。それ、わたし~♪」


 レミが嬉しそうに手をあげる。


 咲希がそろそろとレミの目の前に料理を置くと、レミはさらに嬉しそうに笑顔を浮かべた。


「ありがと~! いただきま~す♪」


「……」


 無事、ミッションコンプリート。


 あとは、このテーブルを離れるだけ。


 固まっていた緊張が少しだけほぐれ、咲希の緊張が和らいだ……その時。


「ちょっといいだろうか?」


「っ」


 固めの声で、片手をあげながら奏が咲希を呼び止める。


 い、いったいなんだ? と警戒していると……


「ラザニアのAセットをひとつ」


 ……と、普通に注文をされた。


 な、なんだ、ただの注文かと安堵した咲希は、手早く注文を書きとめ、復唱し、「少々、お待ちください」と逃げるようにその場を離れた。


「警戒されてるね~」


「ちょっとショックだ」


 レミのからかいの声に、奏は素の感想をもらす。奏はけっこうガラスのハートだった。


「てゆ~か、食べるの?」


「ああ、気が変わった。俺もここで夕食を済ませる」


「そっか」


 なぜか、嬉しそうに、にっと笑うレミ。


 そうして、パスタをちゅるんとすすると、また笑顔になる。


「あの子、いい子そうでよかったね。可愛いし♪」


「そうだな。まあ、ヒロが助けようとする子だ。心配は、いらなかったな」


 すでにテーブルに届いているコーヒーを一口飲んでから、奏はどこか寂しそうに瞳を細める。


 その視線の先には、ヒロと咲希の姿があった。


 咲希はけっこう、メンタルが弱い。


 同年代のヒロの友人たちの前で働いているというだけで、ドジっ娘属性が跳ね上がる。


 今も、何もないところでスっ転びそうになった咲希をヒロが咄嗟に支え、咲希が顔を真っ赤にしているところだった。


 他にも、注文を間違えたり、お皿を割りそうになったりするたびに、ヒロがフォローするという光景が繰り広げられていた。


「いつか、こういう日が来るとは思っていたが……早かったな」


「あ、やっぱり、奏もそう思った?」


「ああ。長年、ヒロを見ているからな」


 互いに支え合いながら(支える比率はヒロの方が多いが)、一緒に働くふたりを見て、何か思うところがあったのか……レミと奏はしみじみと呟く。


「お互いにまだ気づいていないっぽいから、チャンスはあるかもよ?」


「昔の話を蒸し返すな。まあ、今でもヒロのことは好きだがな」


 幼い頃からヒロと一緒にいる二人は、自然、ヒロのことを好きになっている。


「レミの方こそいいのか?」


「ん~、まあ、わたしはヒロが幸せならそれが一番だし。今はとりあえず、もっと咲希ちゃんと仲良くなりたいかな。なんか色々抱えてるみたいだし、力になりたいじゃん?」


「ああ、そうだな」


 ヒロのことが心配で、不良娘を見に来たレミと奏だったが……結果は、一安心だった。


 そんな風にほっとするレミと奏の耳に、またも転びそうになってヒロに助けられる咲希の悲鳴が響き渡る。


 ――といった感じで。


 ヒロの友人達の登場というイベントを除いて、後はつつがなく、咲希のカフェアルバイト初日は幕を閉じた。


 最後のお客様であるレミと奏を見送ってから、店の扉のプレートをCLOSEにする。


 去り際、レミは咲希に「友達になろ☆」と声をかけ咲希を戸惑わせ、なし崩し的に友達になった。


 突然の友達申請に、咲希は目を白黒させる。


 そう、『友達』……それは、咲希にとって、とても重い……特別な言葉。


 実感がわかず、正直なところ戸惑いの方が大きい咲希だけれど……内心、温かいものを感じていた。


 「今度、一緒に遊ぼうね~♪」とぶんぶん手を振るレミと控えめに会釈をして歩き出した奏を見送ったあとは、店内の掃除をして、戸締りをして帰宅という流れになる。


 厨房の掃除や道具の整備はヒロのお父さんとお母さんに任せ、ヒロと咲希はホールの掃除。


 テーブルや窓を拭いて、椅子もきちんと元の位置に直す。


 床にもモップをかけて店内を綺麗にしていく。


「……はあ、疲れた」


 慣れないカフェの仕事……よりも、ヒロの友人達の登場の方が、色々な意味で重労働だった。


「お疲れ様です、咲希さん」


 床にモップをかけながら、ヒロが労いの言葉をかけてくれる。


 可愛らしいカフェの制服を着ているヒロは、やはりどこからどう見ても美少女だ。


「咲希さんがレミちゃんと奏くんと仲よくなれて、よかったです」


「仲良くはなってねー……」


 力なくそう答える咲希は……ふと、バイト中ずっと思っていたことを口にする。


「お前、すごいな。こんなの毎日やってんのかよ」


「大変ですけど、とても充実してます。僕は、お父さんとお母さんが作ったこのカフェが、大好きですから」


「……」


 心からの言葉と笑顔。


 そんなヒロのことを見て、咲希はまた、少し寂しさを感じた。


「……お前ってさ、本当に凄いよな」


「え?」


「親から信頼されてるし、友達からも好かれてるし、ちゃんと働いてる」


「……」


「悪かったよ、あの時は……親に甘えてるとか言って。……お前は、ちゃんと親の力になってんだな」


「……咲希さん」


 咲希は、自分のことを褒めてくれている。


 そのことは、素直に嬉しい。


 けれど、それだけではなくて……咲希がなんだか自分を責めているように見えて、ヒロの心が苦しくなった。


「……今日は」


「?」


 だから……何かひとつでも、咲希のためにしてあげたくて。


 でも、何をしてあげればいいのかわからないヒロは、ただ、自分の素直な気持ちを伝える。


「今日は、咲希さんと一緒に働けて、すごく楽しかったです」


「……」


「このまま、ずっと咲希さんと一緒に働けたら……なんて、思うくらいに」


「――」


 ヒロが伝えた気持ちは……嘘でも何でもなくて、本当に、ヒロの本心で。


 そのことが、ヒロの笑顔と共に伝わってきて、心が、じんわりと温かくなって。


 その温かさが、咲希の心の中にあったものを、拾い上げる。


「……わたしさ、今までまともに働いたことなんてなかったんだよ」


 咲希が、何か大切なことを伝えようとしてくれている。


 そのことがわかったヒロは、じっと、咲希の言葉を待つ。


「……これが、働くってことなんだな。……今まで、誰かのために何かをやったことなんてなかったから。こんな気持ちになったの、生まれて初めてだ」


 結衣と一緒に働いたことはあるけれど、色々な面で結衣に助けられ、守られていた。


 今もヒロの手助けを受けてはいるけれど……それでも、心細さに負けないように頑張りながら、ひとりで働いたのは、これがはじめてだ。


「……咲希さんも、楽しかったですか?」


「……まあ、な。……楽しかったよ」


 少しだけぶっきらぼうに、けれど、はっきりと、咲希は答えてくれた。


 そんな咲希の言葉が嬉しくて、そんな咲希が可愛らしくて、ヒロは、笑顔を浮かべてしまう。


「ふたりとも、お疲れ様。ふたりとも頑張ってくれて、とても助かったわ。ありがとう」


「お母さん」


「春香さん」


 掃除を終えたのか、春香が厨房の方から出てきた。


「それじゃあ、あとは戸締りをして帰りましょう。お腹が空いたでしょ? お家に帰ってご飯にしましょう」


 妹の咲奈のご飯は、春香が途中でカフェを抜け出して面倒を見ている。


 新しく家族になった子猫と一緒にお留守番している咲奈に、寂しい想いをさせないよう、早めに帰宅したいという気持ちが春香に見える。


「はい」


 ヒロも同じ気持ちなのだろう。


 なるべく、ヒロは咲奈と一緒にいるようにしているけれど、今日のように忙しい日は、咲奈を家で待たせてしまう。


 一刻早く家に帰り、咲奈を抱きしめたいようだ。


「……」


 春香の言葉に、ヒロは返事をしたけれど、咲希は、返事をすることができない。


 ……だって、こうして、当たり前のように、ヒロの家に帰ることが……やっぱり、まだ、信じられなくて。


 ここは、ヒロと、ヒロの両親の、大切な場所。


 どうして、自分は、ここにいるんだろう、とか。


 自分は、本当は、ここにいないはずの存在なのに、とか。


 色んな考えが浮かんでくるのに……それなのに。


「咲希さん、帰りましょう」


「――」


 目の前にいる可愛らしい少年は、当たり前のように、笑顔を浮かべてくる。


 それがやっぱり不思議で、なんでなんだろう? という気持ちばかりが浮かんでくる。


 ……それでも。


「……ああ」


 それでも、やっぱり、嬉しくて。


 だけど素直になれない子猫は、頬を赤くして、ぶっきらぼうに返事をした。

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