第12話 子猫のお見送り
「それじゃあ、行ってきますね、咲希さん」
「……ああ」
朝食後。
今日は平日なので、ヒロは普通に学園へ登校する。
咲希は、玄関でそんなヒロを見送っていた。
「……」
「……咲希さん?」
なんだか、何かを考えていそうな咲希の様子を見て、ヒロは首を傾げる。
ヒロの予想通り、咲希はつい先ほどまでの時間を思い出していた。
……つい先ほど。
咲希は、ヒロと、ヒロの家族と一緒に、同じテーブルで、朝食を食べた。
一緒に食べた朝食は、ご飯に、味噌汁、目玉焼きに焼いたベーコン、納豆にサラダ、とスタンダードなものだった。
そんな朝食を、ヒロは母親と一緒に、楽しそうに台所で作って。
その間、咲希は落ち着かない様子でテーブルの椅子に座り、すぐそばに座るヒロの父親に少しだけ緊張しながら、なぜか色々と話しかけてくるヒロの妹の相手をした。
咲希と一緒にこの家にやってきた猫は、すっかりこの家の一員になったような顔をしていて、今までずっとそうだったように、ヒロの妹と遊んでいた。
……幸せな家庭。
それが、今、目の前にあって。
しかも、それは、他人の家のもので。
そんな場所に、自分がいることが、不思議でならなくて。
咲希はどうしても、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
……というよりも、自分はここにいていいのか。迷惑じゃないのか。いや、確実に迷惑だ。という、気持ちが強かった。
「お待たせしました」
ヒロが笑顔で運んできた朝食は、とても綺麗で。
それは、昨晩作ってもらった野菜炒めのように、やっぱり、美味しくて。
当然のように、自分の分もあって。
色々な遠慮をしている咲希のことを、みんな、気遣ってくれて。
だから、本当に、不思議としか言いようのない時間だった。
……。
「咲希さん?」
「――っ」
玄関で、黙ったままの咲希を心配し、ヒロが咲希の顔を覗き込んだ。
そのことで、ふたりの距離が近くなって、咲希はとっさに顔を逸らす。
「か、顔近えよ!」
「あ、ごめんなさい」
「……っ」
心が、定まらない。
なぜか、頬が熱くて、どきどきする。
今まで、こんなことなかった。
未経験の出来事に、しかも、それが、幸せなものだから、咲希はどうすればいいのかわからなかった。
咲希の様子から、あまり、無理に聞き出すのもよくないと思ったのだろう。
ヒロは、学校へ行くことにする。
「それじゃあ、咲希さん。行ってきますけど……」
「……なんだよ」
「僕がいない間、どこかへいなくならないでくださいね。また探すのは、大変ですから」
「……」
ヒロの家から、逃げる。
それは、咲希がずっと考えていたこと。
けれど、少なくとも今は、咲希にそのつもりはなかった。
ヒロが何を考えているのかはわからないけれど……ヒロは、本当にお人好しで。
一度関わった以上、逃げた方が、余計に迷惑になると、もうわかったから。
その言葉通り、自分が姿を消したら、ヒロはまた、自分を探してしまうだろうから……。
「……逃げねーよ」
だから、咲希は、そう答えていた。
素直な自分の気持ちを、ヒロに伝えていた。
本来なら、こんなこと、言ってはいけないと思いながら。
「それなら、よかったです」
「……っ」
ヒロは、安心したように、そして、どこか嬉しそうに微笑む。
男の子なのに、女の子ような見た目をしているから、その笑顔は、とても可愛らしい。
けれど、そのこととは関係なく、どうしてか、咲希の顔が少しだけ赤くなり、身体が熱を帯びる。
「……」
自分がいなくならないことで、安心されたり、頼んでもいないのに、幸せをくれたり……そんなヒロに、やっぱり、咲希は、心を戸惑わせるしかなかった。
「あ、そうだ」
何かを思いついたヒロは、制服のポケットに手を入れた。
見た目は女の子でも、事実上、ヒロは男の子。
だから、男子用の制服を着ているヒロは、どこかおかしかった。
真っ黒な学ランではなく、それなりにデザイン性のある制服だから、まだマシだけれど。
それでも、いっそのこと、女の子用の制服を着た方が似合っている……それが咲希の、いや、今のヒロの姿を見た人の素直な感想だろう。
ただ、そのことを不用意に言うと、昨晩のようにヒロを傷つけしまうかもしれないから、咲希は黙っていた。
「咲希さん、よかったら、IDの交換をしませんか?」
ヒロが制服のポケットから取り出したのは、スマートフォンだった。
空色のスマートフォンで、小さめのそれは、ヒロによく似合っている。
「……悪い。わたし、スマホ持ってない」
「あ、そうなんですか」
「……いつの間にか、契約切られてたからな」
たびたび、家族と揉めていた咲希。
それでも、彼女のスマホの料金を払うのは、家族で。
そして、いつの頃からか、スマホが使えなくなっていた咲希は、親が自分のスマホを解約したことを、家出中に知った。
「……じゃあ、もし、何かあったら、家の電話から、僕のスマホに連絡をください。すぐに、帰ってきますから」
「いいよ、別に。わざわざ電話する用事なんて、ねえよ」
「もしも、何かあったら、ですよ。……スマホのことじゃなくても、何か聞いてほしいことがあったら、なんでも話してください。僕でよければ、いくらでも聞きますから」
「……っ」
だから、どうして、そうなのだろう?
どうして、目の前のこいつは、自分にそんな言葉をかけるのだろう?
……正直に言えば、つらくなる。
本当は、嬉しいことだって、わかってる。
だけど、自分のような人間には……優しさが、痛みになる時だってある。
「いいから、もう行けよ。遅刻するぞ」
「……そうですね。じゃあ、今度こそ」
そうして、ヒロは、咲希に背を向けて、学園へ向かおうとする。
玄関のドアノブに手をかけて、
「あ、やっぱり、ちょっと待った」
「え?」
開けようとしたところで、咲希からそんな声をかけられた。
ヒロが振り返ると、咲希はどこか、恥ずかしそな様子を浮かべながら。
「……自己紹介、まだしていないだろ」
「……はい、そうですね」
あの雨の日に、出会ってから。
ふたりはこの瞬間まで、きちんと自己紹介をし合っていなかった。
公園で、咲希に絡んできた不良少女達の言葉で、ヒロは咲希の名前を知ったけれど。
咲希はずっと、ヒロのことを「おい」とか「お前」とか呼んでいて。
あまり不都合もなかったので、タイミングを逸してしまい。
だから、ふたりは、ちゃんと名乗り合っていない。
そのことは、ヒロも気にかけていたけれど……咲希の方から、そのことに触れてくれて、ヒロは、とても嬉しくなった。
「それじゃあ、改めまして。僕は、水無瀬ヒロと言います。よろしくお願いします」
「……わたしは、愛宮咲希」
にこやかに自己紹介するヒロとは違い、咲希はどこかぶっきらぼうに、言いずらそうに名前だけを言う。
「……愛宮咲希。ふふ、可愛い名前ですね」
「! うっせえ、可愛いとか言うな!」
「可愛らしい咲希さんにぴったりです。イメージ通りの名前って感じがします」
「いいから、行けよ! ほら!」
「はい、いってきます」
こんなやりとりすら楽しんでいるような顔をして、ヒロは学園へ向かった。
そんなヒロを見送って、咲希は、もう、なんだかよくわからない気持ちになる。
「……本当、変な奴」
男のくせに、女の子みたいな見た目で可愛くて。
優しいのに、強引で。
自分のような不良娘を心配して、家にまであげて。
「……はあ」
本当に、やっかいな奴と関わってしまった。
咲希は、思わず、ため息を零してしまう。
「……」
……それなのに、どうしてか。
胸のあたりが、きゅぅ、となっていることに、咲希は戸惑いを覚えていた。
「咲希ちゃん」
「あ、春香さん」
と、玄関でヒロを見送った咲希のところに、ヒロの母親がやってきた。
水無瀬春香。
ヒロの母親で、おっとりした性格の優しい女性。
ヒロのことを信頼しているようで、突然押しかけてきた自分を受け入れてくれた人。
昨日の夜、初めて会ってから、自分のことを心から気遣ってくれた。
「ヒロちゃんのお見送り、ありがとうね」
「あ、いえ。……あ、あの、春香さん」
咲希は、不良娘で、家出をしたり、喧嘩をしたりする女の子。
けれど、根はとてもいい子で、自分の世話をしてくれた大人へ、きちんとした対応ができる子だった。
だから、咲希は、春香に向かって、自分の気持ちを伝えようとする。
「……」
「? なあに、咲希ちゃん?」
何か言いにくそうにしている咲希を春香が促すと、咲希は、こう言った。
「……何か、手伝わせてください」
「? 何かって……」
「皿洗いでも、掃除でも、何でもします。お世話になっているのに、何もしないなんて、できないっス。わたしには、何も返せるものがないから、少しでもいいから役に立ちたいんです。……それと、出て行けと言われたら、今すぐに出て行きます。だから、その……」
「……まあ、まあ♪」
ぎゅ。
「――え」
突然、ふわりと柔らかなものに包まれて、咲希は思考停止する。
それが、春香に抱きしめられたからだと知った瞬間、咲希は弾けた。
「な、なにしてるんすか!」
「あら、ごめんなさい」
咲希の大声を聞いて、ぱっと春香は咲希を離す。
見れば、咲希は耳まで真っ赤で、何が起きたのかわからないという顔をしていた。
「ふふ、ごめんなさい。あんまり可愛いことを言うものだから」
「……っ」
ヒロのみならず、春香からも可愛いなどと言われ、咲希はどう答えればいいかわからない。
ただ……やっぱり、この人はヒロの母親なんだな、と咲希は思った。
「――」
……それに。
赤の他人とはいえ……ひとりの女性に抱きしめられて……まるで、母親に抱きしめられたような錯覚が、咲希の心の中に広がっていく。
それは、咲希に、安心と、幸せと……そして、悲しみを生んだ。
「うん、わかったわ。咲希ちゃん。それなら、少しだけ、手伝ってもらえるかしら?」
胸の前で、両手を合わせて斜めにして、春香は嬉しそうにそう言った。
「……う、うす。なんでもやるっす!」
自分の気持ちを汲んでくれた春香に、咲希は気合を入れて返事をする。
これから先、どうなるのかわからないけれど、自分はこの家のご厄介になる。
それなら、何かひとつくらい、恩返しをしなければならない。
どんなことでもやると覚悟を決めて返事をした咲希だったが。
「ふふ、それじゃあね――」
「――へ?」
……この後、咲希は思いもよらない展開に巻き込まれる。
そして、そのことを後悔する暇もないほど、忙しく働くことになるのだった。
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