第3章 されど子猫はカフェで踊る

第11話 子猫の目覚め

 ちゅん、ちゅん……。


 心地よい小鳥のさえずりに刺激されて、咲希は静かに目を覚ました。


 ぼやけていた視界が数度の瞬きでクリアになると、最初に映ったのは、見慣れない天井だった。


 次いで、さらさらと触り心地のよいシーツと、柔らかく体を受けとめてくれるベッドの感触が感じられた。


 カーテンの隙間から零れる淡い朝の光をぼんやりと眺めながら、咲希はゆっくりと上半身を起こす。


「……」


 走馬灯のように、これまでの出来事を夢に見た。自然、当時の気持ちが思い出されて、心の中に、色々な感情が溢れ、混ざり合い……痛みを生んだ。


 咲希の瞳からは、涙が零れ落ち、頬を伝ってシーツへ染みを作っていた。


「ひっく、ぅ」


 湧き上がる感情が涙となって、次から次へと溢れかえる。


 突然、自分でも驚くくらいに強い気持ちが胸の中で暴れていて……戸惑い翻弄され、咲希はどうすることもできない。


「結衣……姉……」


 大好きな人は……夢の中でも、温かかった。痛みとともに、「会いたい」という気持ちが溢れて止まらない。


「!?」


 とそこで、咲希はとんでもないことに気づいて、驚きのあまり涙が引っ込んでしまう。


「すう……すう……」


「……なんで、こいつ、ここで寝てんだ」


 咲希の眠っていたベッドに突っ伏すようにして眠っているのは、昨日、自分をこの家へ強引に連れてきた少年・ヒロだった。


 少年……と言っていいのか、可愛らしくも美しいその安らかな寝顔は、美少女としか思えない。


 正直、咲希は、「本当にこいつ、男か?」と疑っている。


「あー、そうだ。昨日の夜……」


 昨日の夜。


 この家から逃げ出そうとしていた咲希をヒロが引き留めた。


 そのまま咲希をこの部屋へ案内して、「眠れないなら、眠くなるまでお話しましょう」なんて言った。


 そうしていつの間にか、ふたりとも寝落ちしてしまった……ということのようだ。


「はあ」


 咲希は、額に手をやって深いため息を漏らした。


 なんか、今もまだ夢を見ているような気分だ。


 見た目が完全に美少女で、優しくて、おせっかいで、なのに、強引で……。


「ホント、変な奴だよ、お前は」


 まだ夢の中にいるヒロは、天使のような笑顔を浮かべている。


 その寝顔を見つめながら……ふと、今なら逃げられると気づいた。


 自分を引きとめようとするヒロは寝ているし、間違いなくチャンスだ。


 自分がいたら、ヒロの家族にも迷惑がかかるかもしれない。


 それなら、やっぱり、今、逃げるしかない。


「……」


 それなのに。


 今までの自分なら、間違いなく、何のためらいもなく逃げているはずなのに。


 どうしてか、咲希は、逃げないで、じっと、ヒロの寝顔を見つめていた。


 なにをしているんだろう?


 自分は?


「男のくせに、寝顔可愛すぎだろ」


 思わずそう呟いて……ふと、咲希は部屋の時計に気づいた。


 もうすぐ通学や通勤の時間になるところだった。


 今日は平日なのだから、ヒロには学校があるだろう。


 今は絶好の逃げるチャンス……なのに、そのことに気づいてしまった咲希は、ヒロの身体に手を伸ばしていた。


 少年にしてはあまりにも華奢で柔らかい肩にびっくりしながらも……咲希は、声をかけた。


「おい、起きろ」


 ゆさゆさと、咲希はヒロの身体を揺さぶる。


「……ん、ぅ」


 やがて、ヒロの瞼がゆっくりと開き、目を覚ました。


 そうして、目の前に咲希がいることに気づくと、その瞳を見開いて驚いた。


「……どうして、咲希さんがここに? ……て、あれ、もしかして、僕――」


 そこで、ヒロは気づいた。


 昨日の夜、自分がそのまま咲希のベッドで寝入ってしまったことに。


「ご、ごめんなさい、咲希さん。僕……」


 年頃の少女に寝室に男子がいて一晩を明かすなど、言語道断。


 たとえ、寝泊まりする場所を提供する側であっても、その不文律は変わらない。


 ヒロは右に左に動揺する自身の心に翻弄されながら、誠心誠意頭を下げて咲希に謝った。


「……」


 しかし、咲希からしてみると、やはりヒロは一宿一飯の恩がある相手。


 しかも、今の状況はヒロが寝るまで気を遣ってくれた結果であり、この短い間の付き合いでも、ヒロがそのような不埒な真似はしないこともわかっている。


 さらには、ヒロには言えない理由として……ヒロの容姿が完全に美少女なので、そもそも、男子が部屋にいるという実感がなかったりする。


 色々な思考を巡らせた咲希は、さっさと許すことにした。


「別に、いいけど……冬じゃないからいいけど、風邪ひくぞ、お前」


「……そうですよね。ごめんなさい」


 ヒロは決まりが悪そうに謝る。そして。


「……それと」


「?」


「おはようございます、咲希さん」


 ドキ。


「――」


 笑顔を浮かべて、朝の挨拶をするヒロを見て……どうしてか、咲希の心臓が鼓動を覚えた。


 ……ドキ、……ドキ。


『……な、なんだ、今の』


 まだ、静かにいつもと違う鼓動をする自分の胸を抑え、咲希は戸惑う。


 こんなこと、初めてで。


 これがなんなのか、咲希には理解できなかった。


「咲希さん」


「っ。……な、なんだよ」


 内心の動揺を悟られないよう、咲希は必死に隠しながら、返事をする。


 ヒロは、柔らかな様子で聞いてきた。


「これから朝食を作りますけど、パンとご飯、どっちがいいですか?」


「……ど、どっちでもいいよ」


「遠慮しないで、好きな方を選んでください」


「……ホントに、どっちでもいいんだよ。……わたしは」


 昨日の夜、ヒロが作って食べさせてくれた野菜炒めの味が蘇る。


 あの味は、忘れらない。


 久しぶりのまともなご飯ということとは関係なく、ヒロは本当に料理上手で……なにより、温かい想いが込められていた。


 そして偶然にも、その味付けが、咲希の好みにすごくあっていた。


 だから……パンでも、ご飯でも、ヒロが作るならどっちも美味しいから、どっちでもいい。


 ……と、そこで、咲希は違和感を覚える。


(……いや、なんだ?)


(私は今……今、何を考えた?)


「わかりました。でも、今日からは、咲希さんも一緒にこの家で過ごすんですから、何かあったら、遠慮しないで言ってくださいね」


「……」


 非常識なことを、当たり前のほうに言われて、やっぱり、戸惑う。


 けれど、彼の好意を無下にすることがどんなに面倒なことなのか、咲希はもう、思い知っていた。


 近いうちに、この家からは出なければと思う。


 それでも、今は……自分がいなくなったら、返って迷惑をかけてしまうかもしれないから。


「えっと、ちょっと待っててください」


 そこで、ヒロは、少しの間、どこかへ行って、そして、あるものを持ってきた。


「お母さんの服です。咲希さんの服はまだ乾いていないので……少し、大きいかもしれませんけど」


 ヒロの母も小柄な方だが、咲希はもっと小柄だ。


 少しではなく、だいぶ大きい。


 それでも、咲希はその服を受け取った。


「……ありがと」


「……じゃあ、僕は朝食の準備をしますね。咲希さんは、ゆっくり来てください。あ、新しい歯ブラシを洗面所に置いておいたので、使ってください」


「……うん」


 そうして、ヒロは、部屋から出て行った。


 後に残された咲希は、今の状況をどう捉えればいいのか、やっぱり、わからなくて。


「……なんで、あいつは、あんなにお人好しなんだろうな」


 だから、そう呟いて。


 それでも、立ち止まるわけにはいかないから。


 少しでも、前へ進むために、咲希は、パジャマを脱いだ。

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